スタッフセミナー(バックナンバー)

大戦期に日本に滞在した音楽家チェンバロ奏者エタ・ハーリヒ-シュナイダー

講師:

Kubaczek Martin(オーストリア/アルテ・シュミーデ講師)

日時:

2017年5月24日(水)19:00~20:30

場所:

駿河台キャンパス グローバルホール

言語:

ドイツ語(通訳あり)

セミナー推進者:

法学部 須永恆雄

講演内容紹介:

画像をクリックするとポスターをご覧になれます。

 ドイツ語とは異なり英語文献での伝記記述は、自立したジャンルである。ライフ-ライティングとして人生の経歴を語るときには、純然たる伝記を超えて、動機や原因や心情のことどもをも尋ねることとなる。完全な伝記なり、人生の或る一時期なりを調査して、歴史上の人格への様々の糸口を開示すべく、一日一日と日を追ってゆく。そのさい、虚実はくしくも結び合うこととなる。
 ライフ-ライティングに於いては、関連しあって展開するさまを調べつつ物語るという構成原理が目に見える形で残る。ライフ-ライティングじゃ想像力に基づくが、そもそも物語り得ることはつねにイマジネーションを働かせることにほかならない。文献を参照すると、根拠や動機が分かりにくい身の処し方についての問いが、偉大な、しばしば悲劇的な人物の、逸脱した思いや、問題となるような決意を問いが生じてくる。ライフ-ライティングでは、伝記的、歴史的な鍵となるような契機、たとえば学問的発見、告白、ホロコーストやジェノサイドを生き延びたことや、ジェンダーやアパルトヘイトといった差別を顧みない社会で、殺人者や、犠牲者や、同じ宿命を負った同志などとともに、生き延びたこと、そうしたことを扱うのである。自伝や、覚書や、書簡や、日記や、記録や、写真や、映画や、新聞記事や、目撃者の証言や、インタヴューが、その材料となる。客観化し得る歴史的事実を基本として、その上に解釈の試みや哲学的、心理学的、倫理的、道徳的な諸々の問題設定が解き明かされるのである。
 本講演では、ドイツのチェンバロ奏者、エータ・ハーリヒ-シュナイダーについて、伝記小説を作り上げると言う講演者自身の仕事を瞥見する。彼女の人生は二十世紀という時代を包摂するもので、第二次世界大戦の典型的な経験と、三様の文化とに渡っている、即ち、ベルリンと東京都とニュー・ヨークが彼女の人生が閲した三つの宿駅、つまりキリストの道行きの十二の留に当たるものであった。かの有名なワンダ・ランドフスカの後継者としてベルリンの大学で教鞭を取り、高い教養を誇る、二人の娘たちを女手ひとつで育てた人物であった。ナチスから敵と睨まれたヒンデミットを擁護し、この作曲家の風刺的で暗鬱な、新古典主義的な作品《1922年組曲》でコンサートピアニストとしてのデビューを飾った — ただしその後まもなくチェンバロという楽器に集中して取り組むこととなる。歴史的様式を踏まえた演奏を実践したパイオニアとして1930年代には文献研究のために博物館に赴いてその筋の研究の初めの第一歩を築き、《繊細なる世界》の題の下にクープランに寄せる研究書を自ら出版した。彼女の『チェンバロ演奏の芸術技法』は基本文献の誉れ高く、今日なお音楽図書館に常備され、日本語にも翻訳された。ベルリンで彼女は古音楽のためのコンサートのシリーズを始めた。まもなくナチス代表者らと葛藤を来たすに至るが、有力なコネクションのおかげで — 彼女の父はベルリンの管理部門の高官だった — 例えば、ナチスの犯罪に反対する説教をポーランドで行って逮捕された神父を解放したりした。
 1940年に教職を失い、ゲシュタポから「ユダヤ人贔屓」、「カトリック」シンパという格付けを施された。1941年5月にチェンバロ演奏についての教育映画を完成後、トランスシベリア鉄道を使った楽途で日本へ旅立った。その直後、ソ連との戦争が勃発、帰国はかくして不可能となった。ドイツ大使館に居住、オットー大使の婦人は左翼とも付き合いがあって、彼女を東京の外国人サークルに仲間入りさせてくれたが、そこにはドイツ-ロシアのスパイであるリヒャルト・ゾルゲも属していた。ゾルゲと彼女は友情を結び、このドイツ大使館での「愉楽社交界」(と彼女の自伝『多士済々と破局』には称せられている)ゾルゲは唯一無二の信頼できる人間と彼女の目には映ったのである。ゾルゲの勧めで彼女は独立したが、即ち集中して日本語を勉強し、青山に家を借り、コンサートを開き、授業に携わったのである。絶望の中で慰みとしてシェイクスピアのソネット全篇をドイツ語に翻訳し(最近に彼女のこの翻訳は上梓された)、拠所を探し求めて、身体的かつ精神的は保護を上智大学のイエズス会神父たちに求めた。1945年3月の米軍空襲を辛くも生き延びがた、全財産を焼失した。米軍兵士たち並びに西洋音楽を教え、雅楽博物館に外国人女性研究者として初めて入ることを赦された。
 1949年にアメリカ経由で帰国が叶ったが、ベルリンにはもはや彼女を受け入れる処は無かった。55歳にしてニュー・ヨークのコロンビア大学で音楽学を研究し、研究奨学金を得たが、これがオックスフォード大学出版から出た著書『日本音楽の歴史』の資金となった。1955年にウィーン音楽アカデミー(ウィーン音楽大学)の助教授となり、若い熱心な世代にチェンバロと様式論を教授した。88歳にしてウィーンで最後のソロコンサートを催したが、91歳で亡くなると、今日では専門家の間でさえ彼女の名は殆ど知られなくなってしまった。今年の一月に、私の提供した素材や残された公刊物を基に、彼女の人生についての4部作の番組がオーストリア放送局で制作放映された。

セミナー実施報告:

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