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特別講義・上映会 2016年度

 2016年度実施分特別講義・上映会の成果につきましては、「ジェンダーセンター年次報告書2017年度」(2017年3月31日発行)からもご覧になれます。(PDFデータにリンク)

映画「ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気」上映会&トーク



【プログラム】
◆第1部:映画「ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気」上映
(ジュリアン・ムーア主演/ピーター・ソレット監督/原題:Freeheld/2015年製作/アメリカ/103分)

◆第2部:トークセッション「日本のダイバーシティって何だろう?」(60分)
[登壇者]
上川あや(世田谷区議会議員)
川田 篤(日本アイ・ビー・エム(株)ソフトウエア事業部部長)
齋藤明子((株)ポーラ人事部ダイバーシティ推進チーム課長)
大森千秋(松竹(株)洋画調整室)
[司会]
田中洋美(明治大学情報コミュニケーション学部准教授)
松岡宗嗣(明治大学政治経済学部4年)

【映画概説】アメリカ・ニュージャージー州オーシャン郡。20年以上、警察官という仕事に打ち込んできた正義感の強い女性・ローレルは、ある日ステイシーという若い女性と出会い、恋に落ちる。年齢も取り巻く環境も異なる二人は、手探りで関係を築き、郊外に一軒家を買い、一緒に暮らし始める。家を修繕し、犬を飼い、穏やかで幸せな日々が続くはずだった…。
しかし、ローレルは病に冒されてしまう。自分がいなくなった後もステイシーが家を売らずに暮らしていけるよう、遺族年金を遺そうとするローレル。しかし法的に同性同士にそれは認められていなかった。残された時間の中で、愛する人を守るために闘う決心をした彼女の勇気が、同僚やコミュニティ、やがて全米をも動かしていくことになる…。
報 告:田中 洋美(明治大学情報コミュニケーション学部准教授)
 2016年11月15日(火)、本センターではアメリカ映画「ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気(原題:Freeheld)」(2015年全米公開、http://handsoflove.jp/)の試写会とダイバーシティに関わる活動で実績のある方々をゲストにトークセッションを行った。この日は、国際寛容デー(International Day for Tolerance)の前日であった。これは1995年11月16日に採択された国連寛容宣言を踏まえ、国連が定めたものである。背景には、「人々は本質的に多様である。つまり寛容のみが世界各地の混成コミュニティを存続させることができるのだ。(People are naturally diverse; only tolerance can ensure the survival of mixed communities in every region of the globe) 」(注)という考えがある。本センターは、寛容という言葉こそ使わなかったものの、この考えに共鳴し、同時期に本イベントを行うことにした。
映画「ハンズ・オブ・ラヴ」では、二人の女性のパートナーシップを軸に、警察という硬い体質の組織での女性やマイノリティの働きにくさ、社会における同性カップルの暮らしにくさなど、社会におけるさまざまな偏見やそれに基づく差別、そしてそれらと折合いをつけながら生きる人々の姿が実話を基に描れる。本映画が、性別、セクシュアリティ、人種、宗教、年齢・世代等に基づく差別撤廃、ダイバーシティ(多様性)推進の動きが企業や行政に起こりつつある現代社会について、またそのような社会で生きることについて考える上で優れた教材となりうるとの確信から、主として学生を対象に映画上映とインタラクティブなトークセッションから成るイベントを企画した。また当日の司会は、筆者とともに昨年本センターが行ったMEIJI ALLY WEEKの学生実行委員長を務めた松岡宗祠さん(政治経済学部4年)が務めた。
当日は映画の上映から始まった。103分の上映後、会場は静けさに包まれていた。心を揺さぶるストーリーに涙を流した人々も少なくなかったようである。しばしの休憩を挟み、トークセッションが始まると会場は異なる雰囲気に包まれた。
トークセッションには、上川あや氏(世田谷区議会議員)、川田篤氏(日本アイ・ビー・エム株式会社)、齋藤明子氏(株式会社ポーラ人事部ダイバーシティ推進課長)、大森千秋氏(松竹株式会社洋画調整室)の4名を登壇者としてお招きした。トランスジェンダーの議員として知られる上川氏は、実体験を基に映画が描いた主人公ローレルの境遇について理解を示した。
まず本映画の日本での上映は、国内配給を担当する松竹株式会社がこの映画の公開を決めたからに他ならない。トークセッションでは、本作品を見つけ、買い付け、公開に向けて動かれた同社の洋画買い付けチームのメンバーの大森氏に、買い付けの様子や公開に至るまでの過程についてお話いただいた。
大森氏らは年に3、4回ほど海外のいろいろな都市で行われる洋画の見本市に参加し、新作の情報を収集し、また日本での公開に向けての交渉などを行っているという。「ハンズ・オブ・ラヴ」については、2年ほど前にアメリカで行われた見本市で初めてその存在を知った。人が人を思うまっすぐな気持ちに純粋に感動し、すぐに台本を取り寄せた。その後、年が明けて、ベルリン映画祭でこの映画の抜き出し映像を見る機会があったが、短い映像にもかかわらず非常に心を揺さぶられたことから、ぜひとも日本で公開したいと強く思ったそうだ。ただチームの中に同性同士の恋愛に違和感を感じる者もいたため、帰国後、社内で意識調査を行った。結果、否定的な見解がほとんどないことを確認し、公開を本気で考えるようになったという。公開に向けて本格的に動くようになったきっかけは、その後参加したトロント映画祭であった。ワールドプレミアとして一般聴衆とともに映画を観賞し、多くの人が涙を流し、感動している様子を目の当たりにしたという。
このような日本上映に至るまでの背景を踏まえつつ、登壇者らにより映画のストーリーを踏まえての様々な見解が呈示された。上川議員は、実体験を基に次の2点を強調された。第一に、映画の舞台アメリカだけでなく日本においてもマイノリティが生きづらい社会であること、第二に、しかしながら社会は変わりうる、ということである。映画の中では、必ずしも望むような形ではなかったかもしれないが、主人公の望みは叶う。上川氏は、性別を変更する制度をつくるために議員になり、実際にそれを成し遂げた人物であるが、この体験からも、映画が描いた「成功」はアメリカだけの話ではないこと、日本でも制度がないからと諦めずに、方法を探り、戦略的に動くこと(例えば、政治家にならなくても役所にハガキを出し、問題を訴える、つまり憲法で保障されている請願権を行使する等)で変化が起こりうることが指摘された。
一方、川田氏は、職場で50代になってからゲイであることをカミングアウトし、現在は性的マイノリティに関するさまざまなイベントやメディア報道に出る等、活躍されている。今回この映画を見て、性的マイノリティをめぐる法整備が遅れた日本において自らが同じ状況に置かれており、涙なくして観ることができなかったというお話が冒頭にあった。また映画の中でさまざまな人々がさまざまな形でローレルを支援している様子が描かれていることを指摘し、最終的にはどういう関係性を作っていくかという人間性の問題であると述べた。
斎藤氏は、企業でダイバーシティ推進を担当する立場から、まず映画の中で描かれる性別ゆえの生きづらさについてコメントがあった。現在、日本でも多くの企業においてダイバーシティ推進が行われるようになっているが、その大きな柱となっているのは女性の働きやすさの実現である。このことと絡めて、ローレルとそのパートナー、ステイシーは、職業は異なるが、共に男社会で働いており、女性であることを理由になんらかの「差別」を経験していること、またそのような構造とうまく折り合いをつけながら生きていることの指摘がなされた。その上で、現在、性別やセクシュアリティに関係なく誰もが働きやすい社会の実現を目指した動きが企業を含むさまざまな組織で起こりつつあり、社会は確実に変わりつつあるということが重ねて強調された。
このような登壇者からの話を受けて、司会の松岡氏より、アライ(ally、性的マイノリティの支援者として使われつつある言葉)という言葉の重要性に改めて気づいたとの言葉があった。
質疑応答の時間では学生たちからも手が挙がった。就職活動を控えた女性の学生は、女性が人口の半分を占めているにも関わらず、映画に登場する人々、特に主人公を助ける人々は、ローレルの主治医を除き、ほとんどが男性であるのを見て、社会で力を持つのは結局男性なのだろうかと感じてしまったと述べた。その上で、2016年現在はどうなのだろうかと思うか、また意思決定に関わる人々が男女半分ずつになるのはいつだと思うかという質問があった。この質問に対して、登壇者から次のようなコメントがあった。まず上川議員は、男性と女性の両方で働いた経験から社会においてジェンダーの格差があるとした上で、現在は議員として女性であっても勉強してスキルアップすることで変化をもたらすことができるという力強い言葉をいただいた。川田氏、斉藤氏からは、職場には女性であっても有能な社員がいること、ただし社員に男性が多い会社と女性が多い会社では組織文化が異なる傾向があるという話があった。組織文化によって組織内でどう動くかも変わってくる。斉藤氏は、文化が変わるには時間がかかることから、どういう組織に身を置くかをよく見て、選ぶことが大切であるという指摘があった。
セクシュアルマイノリティであるという別の学生からは、趣味の世界においても多様性が問題となっているとの発言があった。趣味のコミュニティにおいて自分のセクシュアリティを打ち明けられずに悩んだが、今では年配の方々にも受け入れていただいており、違いを受け入れる方向に変化が起きているのではないかという発言があった。このことについて川田氏からは、差別を認めない法律が必要ではないかとの指摘があった。というのも、多様性を良しとする考えを持つ人が増えつつある一方で、差別意識のある人もおり、「ノー」という権利を主張する人もいるからである。
最後に、登壇者からは、声を上げ、幸福を追求することの大切さが繰り返し強調された。性的マイノリティをめぐる状況は、同性婚や性別変更等が認められるようになるなど、制度整備は大きく進みつつある。しかし人々の意識の変化はまだ限界つきであるといえよう。こうした状況を打破するためには、より多くの人がアライ(ally、性的マイノリティの支援者を指す言葉として近年使われつつある)となることも重要だろう。そして、このアライという言葉は、司会の松岡氏が指摘したように、セクシュアリティだけでなく様々な差異にまつわる困難を抱える人々を支援する人々という意味でも使うことができるだろう。
以上、イベントの概要である。この企画が現在の社会について理解を深め、今後あるべき社会の姿を構想する契機となったのであれば幸いである。
最後に、今回のイベントは、松竹株式会社とのコラボ企画であった。映画の試写およびトークセッションの実施にあたり、松竹関係者の方々より多くのご支援を頂戴した。この場を借りて心より感謝したい。

注:1)国際寛容デーに関する国連サイト、2017年1月20日閲覧
http://www.un.org/en/events/toleranceday/background.shtml

メディア報道
The Japan Times. “Freeheld’ stirs talk of minority rights in Japan.” 1 December 2016, p. 11.http://www.japantimes.co.jp/culture/2016/11/30/films/freeheld-stirs-talk-minority-rights-japan/#.WEoaL8JKOEc

NHKラジオ第1、毎週金曜22:00-23:10「NHKジャーナル」11月18日(金)映画コーナーにてイベント紹介(企画者、学生のインタビューあり)

MovieWalker 「映画:LGBTが自分らしく生きるためには?50代でのカミングアウトがもたらした希望」2016年11月16日10時53分
http://news.walkerplus.com/article/92719/

GENXY「ダイバーシティを考える、LGBT映画「ハンズ・オブ・ラブ」のトークイベントが開催」2016年11月16日 http://genxy-net.com/post_theme04/1116316l/



映画上映後のトークセッション

ドキュメンタリー映画「ちづる」上映会



 【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【後援】明治大学学生相談室
【日時】2016年6月21日(火)17:30~20:00
【会場】明治大学駿河台キャンパス  グローバルフロント グローバルホール

【プログラム】
・ドキュメンタリー映画「ちづる」上映
(監督・編集:赤﨑正和/製作:池谷薫/2011年製作/79分)
・赤﨑正和監督による講演
・森達也教授による映画コメント
・質疑応答

【来場者数】82人
【コーディネーター】細野はるみ(明治大学情報コミュニケーション学部教授、同学部ジェンダーセンター長)
報 告:細野 はるみ(明治大学情報コミュニケーション学部教授)
  ジェンダーセンターでは、ジェンダー問題を通して多様性の理解と共生社会の実現に寄与することを設立以来の目的の一つとしており、それはジェンダーに限らず、少数者の理解という点で視野を広げることもできるのではないかという問題提起を含めた企画として、障害者とその周囲の人々を扱ったドキュメンタリー映画「ちづる」の上映会を実施した。
立教大学の学生として映像制作を学んでいた赤﨑正和監督は、大学の卒業制作として妹の千鶴を対象に選んだ。当初は、妹のことを友人たちにことばではうまく説明できず、映像ならできるのではと取り組み始めたが、撮影の過程で妹だけでなく自分や家族を見つめ直すことになる。自閉症は自閉症スペクトラムとも称され、発達障害の一種である。障害といっても身体活動に問題はなくことばも話せるため、周囲の人々にその困難さを分かってもらうのは逆に非常に難しい。自閉症には知的障害と重複する場合もそうでない場合もあるが、いずれにしろ周囲の状況の客観的な把握や適切な対応が難しく、本人なりの独特な文脈で理解する、「空気を読めない」人々である。日常の対人関係は周囲の人々も長年の経験の積み重ねの上で徐々に理解し受け入れていくしかなく、それが分からないとなかなか付き合うのは難しく、いきおい家族やごく近しい人しかつながりが持てなくなって「社会性」も育ちにくい。この映画では、障害者本人だけでなくそれを支える家族の問題も浮き彫りにする。支援の仕方、社会との関わりの持ち方、ケアする家族の負担など、障害者問題としてだけではなく、高齢者や病人のケアにも共通する問題を提起している。
上映後の講演では、赤﨑監督の講演と森達也情報コミュニケーション学部特任教授のコメントがあった。赤﨑監督は、映像を通して表現したいという思いの根底には、自分にとって当たり前の家族のことを友人に話すことができない思いがあり、それに向き合わねばならないと取り組んだ、など映画制作にまつわる紆余曲折を語った。森教授は、カメラが介入することで対象の人物が変化する、この映画では被写体を晒すということに加えて身内の障害者を扱うという意味で二重三重の屈折があるが、自分を主語とすることでそれを描けている、とのコメントがあった。会場には、主人公の千鶴と同様に、不登校を経験し父も病死して母と兄の3人家族という自閉症の女性(実はジェンダーセンター長の娘)がおり、学校で困難な状況の時、そのうち誰かが私と母を救ってくれるだろうと思っていたが、変わらないことは変わらないということが分かった、と当事者としての思いを語った。講演の後には会場からの質問や発言も多く、関心の高さがうかがわれた。

【「ちづる」のあらすじ】
千鶴は外見からはどこが障害なのか分からない、むしろ非常に魅力的な若い女性である。映画はアイドルスターからの年賀状を受け取って喜ぶ彼女の姿から始まる。実はこの年賀状は彼女の母が書いて投函したものだが、アイドルが見ず知らずの彼女に年賀状をくれるわけがないとは理解できない。続く20歳の誕生日の場面では、ケーキと花束を贈られて家族に「お誕生日おめでとう」と祝われ、自分自身に対しても「お誕生日おめでとう」という彼女。対話の人称が混同したりするという自閉症特有の受け答えで、家族もそれを分かって対応している。
次いで場面は、好きなものを買いに行きたい彼女が母親のお金を勝手に持ち出し、それに気づいた母が制止するのに対して力づくで抵抗する姿を映す。お金は誰のものか、買いたいものがあれば無制限に買っていいのか、といった「していいこと」と「いけないこと」の区別を理解させることの難しさ、それは「悪意」ではなく「したい」ことを貫こうとする純粋さに由来するのだが、その欲求が通らなければ身体を張って立ち向かう「家庭内暴力」、こうした困難なことのちりばめられた日常を兄はカメラを通して直視する。この母親との喧嘩は、彼女が大事にしている硬貨のコレクションに気を紛らわせたことであっけなく終息する。百円玉を製造年ごとにきれいに箱の中に並べたものだが、ものを潔癖すぎるほどに秩序立てて扱うという自閉症の一面を表している。
こうした家庭内の「わからんちん」である彼女に効果があるかどうか半信半疑で母は子犬を飼うことにする。千鶴は子犬がやってきた当初は戸惑いながらも、やがて「しつけ」ということばを取り入れ、自分で「しつけ」をしようとする姿への変化に母は気づく。
一方、撮影者である兄は大学最終年での進路選択に悩み、妹に直面したことで障害者にかかわる仕事に興味を持ち、試行錯誤しながらも自らの道を見いだしていく。同時に、障害者施設を見たことで千鶴の今後の生活に選択肢があることに気づく兄。このまま千鶴を家庭内に置いたままでいいのか、試みに母は地域のセンターに連れて行ってみるが、そう簡単に千鶴はこちらの思うとおりには動かない。
一家の父親は数年前に自動車事故で他界しており、千鶴を見つめた1年は家族にとってもその後の生活について様々な問い直しをもたらした。故郷の福岡で新生活をはじめようと転居を決めた母、卒業後の進路に踏み出す兄、そして成人した千鶴。

【来場者の感想】
アンケートには、参加者82名のうち55名からと多くの回答が寄せられた。おおむね好意的で、よい映画だった、有意義だった、映画だけでなく監督自身のことばが聞けてよかった、障害だけでなく子育てや多様性という面でも意味がある企画だった、等々の声が多数寄せられた。映画のラストシーンの千鶴の表情から、ことばではとらえきれない感動を受け、じっくり考えていきたい、という声もあった。今回の企画の特徴として、家族や知人に障害者がいる、自分自身が障害を持っている、等の声も多く、具体的な日常を描き出す映画から、身につまされる体験を持つがゆえの共感も多くあった。その意味で、自閉症当事者の発言がよかったという感想もいくつかあった。多様性に対する視野を広げての企画にも支持するという声が多数寄せられた。

赤﨑正和監督

コメントする森達也教授(右側)

特別講義・上映会 2015年度

2015年度実施分特別講義・上映会の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2015年度』(2016年3月31日発行)からもご覧になれます。(PDFデータにリンク)

映画“PHD Movie 1&2”上映会



【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2015年11月27日(金)18:00~20:45
【会場】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー地下1階 1001教室
【来場者数】14人
【コーディネーター】平田佐智子(明治大学研究・知財戦略機構研究推進員)
【映画概説】北米の大学院生たちの日常をコミカルに描き、院生たちから熱烈に支持された“PHD COMICS”の実写版映画。映画版でも、主人公セシリア(女性)とウィンストン(男性)ら大学院生の日常や悩みが、コメディタッチながらもリアルに描かれ、映画を観た大学院生からは「こんなこと確かにあるなあ」「この状況わかる」という共感の声が寄せられた。主人公たちの姿から、男女両方が直面するアカデミックキャリアの道程のさまざま問題について笑いを交えながら考えさせてくれる内容となっている。
報 告:平田佐智子(明治大学研究・知財戦略推進員)
 2015年11月27日に、PHD MOVIE 1&2の映画上映会を行った。本報告では、PHD MOVIEの概要ならびに上映会の様子、また上映会の参加者の感想を紹介する。
PHD COMICSという、大学業界を面白おかしく描いた英語の4コマ漫画を知っているかもしれない。北米の大学院を舞台として、そこに在籍する理系の大学院生やポスドク、教授陣たちの「アカデミアあるある」を題材としたコミックである。セリフなどはすべて英語だが、その内容は言語を超えて共感できるものである。アカデミアの中でも、特に理系分野では知名度が高く、主にTwitterなどのSNSで頻繁にシェアされている。作者のJorge Cham自身も物理学の学位を持っており、MITでポスドクをした経験がある。その後独立してPHD COMICSを始めとしたアカデミア支援活動を行っている。
 そのJorgeが脚本を書いた、PHD COMICSの実写映画とも言える作品がPHD MOVIEである。漫画の中で繰り広げられた問答やネタが映画の随所にちりばめられている。2015年12月現在、2つの作品が公開されており、無印(前作)は2012年に公開され、新作(PHD MOVIE 2)はKickstarterで制作のためのファンドが募られ、2015年秋に公開された。
 ポスドクである企画者はたまたまPHD MOVIE 2のクラウドファンディングに出資し、いち早くこれらの映画を観る機会があった。本作品は研究に携わるすべての人々を勇気づけることができると感じ、ジェンダーセンターに依頼し上映会を行うに至った。なお、前作は過去に多くの国内大学でも上映が行われているが、新作(PHD MOVIE 2)は公開されて間もないこともあり、本上映会が本邦初公開となった。
 上映会は前半と後半に分かれており、前半ではPHD MOVIE 1を日本語字幕付きで上映した。休憩を挟んで後半ではPHD MOVIE 2を字幕無しの状態で上映した。前半が字幕付きだったこともあり、後半の字幕無しバージョンはやや聞き取りが難しいとの感想があった。字幕は制作側が作成する物ではなく、ボランティアによる翻訳作業によるものであるため、新作の翻訳作業が企画されることを期待したい。

【PHD MOVIE 1のあらすじ】
 舞台は北米のとある大学。その大学に在籍する二人の大学院生のエピソードが並行して綴られる。大学院生のセシリアはTAに意欲的に取り組んでいるのだが、学生達のやる気はなく、指導教授にも振り回される日々が続く。唯一の楽しみは放課後のダンス活動だが、TAの仕事が忙しくなかなか行けない。高校時代の同級生が順調にキャリアアップしている姿を見て、自分はなぜまだ大学院にいるのだろう、と自問する。もう一人の主役は名も無き男子学生で、PhDを取るため入れるラボを探している。どこもあまり良い対応をしてくれない中、ひとつだけ「ラボの手伝いをして結果が出せれば入ってもよい」ラボが見つかり、早速手伝いを始める。ラボの機械がうまく扱えないまま期日であるシンポジウムは迫り、焦りだけが募る彼は、ミスで機械を壊してしまう。途方にくれる彼にラボメンバーが発した一言で、彼はまた走り出す。
●頂いた感想
・普段あまり我々が知ることのないアカデミックな話が、面白く表現されていました。院生の生活や勉強、そしてこれからの道が、やはり「普通」の人とちょっと違い、面白いこともあり、つらい側面があることがわかりました。
・とてもリアリティを感じました。帰って研究します。
・今まで全く知らなかったPhDについて、ポップなタッチで描かれていて、勉強になりました。

【PHD MOVIE 2のあらすじ】
 舞台は前回と同じ北米の大学。セシリアは博士論文を提出してもよいことを指導教授から告げられるが、審査会までほとんど時間がないことも知らされる。審査員の予定を必死で調整し、猛スピードで論文を書き始めるセシリア。前回は名も無き学生であったウィンストンは、初めての国際学会に参加することになった。経費節約のためラボの教授と同室になってしまう、また発表するデータの解釈がうまくいかない、など不安要素が多い中、学会会場に到着する。そこには、所属するラボとファンドを取り合う他大学のラボメンバーがいた。ボス同士の喧嘩に発表を邪魔される先輩を見て、ひどく心配になるウィンストンを、謎の年配参加者が励ましてくれる。果たして彼は無事学会発表を終えることができるのだろうか?
●頂いた感想
・1よりもドキドキする内容でした。学会発表のシーンはまさにツボです。博論公聴会も生々しかったです。エンディングは感動でした。生田キャンパスで是非上映会を!!
・主人公が最後まで頑張って、自信を持って卒業できたシーンが非常に感動しました。

 開催日時が金曜の夜ということもあり、あまり参加者が集まらなかったが、頂いた感想には好意的なものが多かった。また、参加者に感想にもあるとおり、開催地の適合性を再考する必要があると考える。本作品は物理学や理学を中心とした、理系の大学院生を扱っていたことから、文系学生が多く集う駿河台キャンパスではなく、生田キャンパスなどで上映を行うことで、興味のある学生がより足を運びやすくなったのではないか。今後生田キャンパスでの上映が実現することを願っている。
 また、個人的には、新作であるPHD MOVIE 2が「資金競争や学内の理不尽なシステムに負けることなく、研究を行う」ために、アカデミアにおける若手が、ベテランが、そして年長者がどのように振る舞うべきか、ということを端的に示した作品であると感じたため、学生・院生だけでなく多くの教職員の方々にも、是非観てもらいたいと思う。
 最後にこの場を借りて、本上映会開催にあたり大変お世話になった田中洋美先生、細野はるみ先生、岩崎美香氏、横井淳子氏、関谷美由貴氏、そして上映会に参加して下さった皆様に深く感謝する。

特別講義・上映会 2014年度

2014年度実施分特別講義・上映会の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2014年度』(2015年3月31日発行)からもご覧になれます。(PDFデータにリンク)

映画「少女と夏の終わり」上映会+座談会



【主催】情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター、情報コミュニケーション学部
【日時】2014年12月16日(火)16:20~19:45
【会場】明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント1階 グローバルホール
【参加人数】108名
【コーディネーター】内藤まりこ(情報コミュニケーション学部専任講師)
【座談会登壇者】石山友美(監督)、佛願広樹(撮影・編集)、田中洋美(情報コミュニケーション学部准教授)、南後由和(情報コミュニケーション学部専任講師)、脇本竜太郎(情報コミュニケーション学部専任講師)、内藤まりこ(情報コミュニケーション学部専任講師
報 告:内藤まりこ(情報コミュニケーション学部専任講師)
 本イベントでは、新進気鋭の女性映画監督石山友美氏による作品「少女と夏の終わり」(2012年製作、2013年東京国際映画祭正式出品作品)の上映会と、石山監督と撮影・編集を担当された佛願広樹氏、本学教員脇本竜太郎氏、田中洋美氏、南後由和氏、報告者4名による座談会を行った。本報告では,来場者がアンケートに記した感想を交えながらイベントの様子を紹介する。
 まず、イベント前半部の上映会に関して報告する。映画「少女と夏の終わり」は、山間部の小さな村に住む少女の成長に焦点を絞りつつ、それと平行して、彼女を取り囲む村人達のさまざまな日々の営みを描く群像ドラマである。来場者は、この映画に織り込まれたさまざまな物語の要素を興味深く感じたようである。
 ・「なんだか複雑な気持ちになりました。難しいようで、日常にありふれているような、そんなお話でした。様々な視点から描かれていて、考えさせられる、見ていて飽きないお話でした。」
 ・「田舎を舞台にしたノスタルジックな作風と、田舎特有の閉鎖的な雰囲気があいまり(ママ)、ジェンダーで悩む少女たちの苦悩がよく描かれていたと思います。」
 ・「少女時代の不安定さ、性や恋愛に対する嫌悪や憧れ、友情と秘密の共有、自分の過去を思い出してみても「あったなあ」と感じる節が沢山ある作品でした。」
 ・「思春期の複雑な心の変化や狭いコミュニティーの中で生きていくということの苦悩がよく伝わってきました。特別劇的な何かがあるのではなく、じわじわと変化している様子がまた悩ましいと感じました。」
 ・「映画から見えてくるのはジェンダーだけではなくて、社会性や主体性など、日本社会が群像劇を通して垣間見る事ができたと思います。」
 
 続く座談会は、本学教員4名が自分の専門分野に立脚する形で、映画のどのようなところに着目したのか、どのような点を面白いと感じたのか、さらにはどのような映画であると解釈したのか等について述べ、石山・佛願両氏がそれに応答するという形で進行した。登壇者4名はそれぞれ社会心理学、ジェンダー研究、都市社会学、文学の異なる研究分野の研究者であることから、着眼点が同じであっても、導き出された解釈が異なっていたり、異なる場面やモチーフから共通する解釈が抽出されたりすることがあった。このように、いくつかの共通するテーマが浮上しつつ、そこから多様な映画の読み解き方が提示される形での議論の展開を、来場者には楽しんでいただけたように思う。
 ・「教員との直接の意見交換が大変おもしろい。」
 ・「4人の解説が独自の研究とうまく関係していて面白かったです。」
 ・「いろいろなテーマが出てきておもしろかったです。群像劇と同じようにこの企画でも色々な人が色々なことを喋っているという感じがしました。」
 ・「都合が合わず映画を見ることができなかったので、座談会の内容から推測しながら聞いていましたが、たくさんの問題が絡まった映画だと思い興味がわき、ぜひ見てみたいと思いました。」
 ・「教授によって目を当てる(ママ)ポイントがまるで違い、こんな多様な観点から読み解くことができるのだと驚きました。」
 ・「先生方の座談会をきいて、ジェンダーにしても様々な角度から映画を見ることができるということがわかり、自分でも様々な角度から見ようと思った。」
 ・「同じ作品であるのに人によって見方が大きく違い、作品の奥深さを知ることができた。他の映像作品でもこのようなイベントがあると面白いと思う。」 
 座談会後の質疑応答では、何人もの学部生が監督に対し積極的に質問を寄せていたのが印象的であった。また,映画に主人公役で出演された菅原瑞貴さん、上村愛さんが来場くださり、舞台挨拶をしてくださるというサプライズもあった。以下の感想に見られるように、学生が普段の生活ではあまり接触することのない、映画製作者から直接話を聞く機会を提供できたこともよかったように思う。
 ・「制作にあたっての仕組みや裏話が聞けてよかったです。」
 ・「実際に主演の二人が来てくれたところがまずおどろきだったし、感動した。」
 ・「先生方のお話はもちろん、監督への質問を通して、新たな視点から映画を振り返ることができ、大変興味深かったです。」
 ・「普段は映画を見て自分の世界に浸ることがほとんどですが、今回のように、私が大学で学んでいる視点から教授の方が話をされて、さらに監督さんの意図と結びつけて聞けたのはすごくよかったです。」 
 本イベントは本学部の学部生を中心として100名を超える来場者に恵まれた。3時間に及ぶ長丁場となったが、登壇者だけではなく、来場者を含めた形での充実した対話の時間となったように思う。イベントを盛会へと導いてくださった石山友美氏、佛願広樹氏、脇本竜太郎氏、田中洋美氏、南後由和氏にこの場を借りてお礼申し上げる。

資料映像上映会「女性法曹界の道を拓いた人々-明治大学専門部女子部の足跡-」



【主催】情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター、情報コミュニケーション学部
【後援】法科大学院ジェンダー法センター/学長室/大学史資料センター
【日時】2014年5月30日(金)17:00~19:00
【会場】明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント1階 グローバルホール
【参加人数】約30名
【上映後のコメント】吉田恵子氏(元情報コミュニケーション学部教授・前ジェンダーセンター長)
報 告:細野はるみ(情報コミュニケーション学部教授)
 女性の社会参加が非常に制限されていた昭和初期の1929(昭和4)年、明治大学は将来の女性の活躍を見すえて法科と商科からなる「専門部女子部」(以下、「女子部」と略称)を開設し、そこからは法曹界をはじめ専門職に就く優れた女性たちを輩出した。このことは本学部ジェンダーセンター発足に至る経緯を説明する時に必ず触れる明治大学の女子教育の歴史だが、それを過去の話として埋もれさせずに今後の学生にもわかりやすく伝えていくことを積年の課題とし、そのための資料を収集して来られた初代ジェンダーセンター長の吉田恵子先生が資料映像としてまとめられ、2014年3月のご退職から一月ほど後に完成した。資料映像作成に当たっては、ジェンダー関連の研究・教育を支援する明治大学シモーヌ・ヴェイユ基金の援助も受けることができた。
 映像では専門部女子部誕生前夜の大正末期の社会情勢から説き起こしている。第一次世界大戦後の大戦景気に伴い工場やデパートの傭員、バスガール、タイピスト等の様々な職種の職業婦人が増加していくさま、多くは良妻賢母教育を旨とした当時の女学校の女学生の風景、大正デモクラシーと普通選挙法の成立、それが男子のみであったために女性にも政治参加の機会を開こうとする「新婦人協会」「婦人参政同盟」などの婦人運動の興隆、そして女性にも弁護士への門戸を開こうという弁護士法の改正運動を背景に、昭和4年に明治大学に法科・商科からなる専門部女子部が開校した。女性が政治や社会に参加するには、まず良妻賢母教育ではない、職業に必要な法律や政治・経済などの基礎知識を学ぶことのできる高等教育がなされなければならないという趣旨で、明治大学の3人の教授たち、横田秀雄・穂積重遠・松本重敏らの尽力で開校にこぎつけた。その設立趣意書全文が資料中に掲載されているが、このことがいかに時代を先取りした取り組みであったかということが十分にうかがわれる。
 次いで、開校当初以降の入学者の顔写真台帳と、その後の活躍に伴っての写真映像をもとに、各期の卒業生の各分野での活躍の群像が描かれる。後に明治大学短期大学の教員になった高窪静江、明治大学初の女性学部教員(法学部)であり女性初の法学博士の立石芳枝、以下、女性初の代議士、女性初の税理士、等々、各分野で「女性初の」と冠される人材が続く。極めつけは1938(昭和13)年の司法科試験(当時は高等文官試験司法科)に久米愛・三淵嘉子・中田正子の3名の卒業生が合格し、これが日本で女性の初の弁護士の誕生となったことだった。実はこの頃女子部の入学者は減少を続け、あわや廃校かとの危機にあったが、これに刺激を受けて、戦前・戦中の困難な時代にもかかわらずその後も法曹界を目指す女子学生が入学、司法科試験や行政科試験の合格者のほとんどを女子部から出し続けた。
 戦後は大々的な教育システムの改変があり、女子部もいくつかのプロセスを経て明治大学短期大学と改められた。4年制の大学に女性が受け入れられるようになった後にも女子の進学先として2年制の短期大学への入学希望は多く、法律科・経済科ともに社会科学の専門教育を受けられるユニークな短期大学としての需要は大きかった。短期大学終了後も関連の4年制学部に進学し、更に職業人として活躍する女性を多く生み出していった。
 現在、社会全体で男女共同参画の必要性が叫ばれ、女性の社会参加を促す施策が諸方で展開されているが、明治大学専門部女子部の目指したところはまさにこのことの先取りであったといっていいだろう。女性の社会進出を促すにはそれを準備する教育の必要なことや、職業社会の多数者である男性の理解と後押しが必須であることを現実的に証明した。しかも、一時的に一人の特異な有能な人材を出すことにとどまらず、教育機関として継続してその予備軍を育て続けたことは、今後の男女共同参画の実現に向けての大きなモデルとなるであろう。
 その後、女子の高等教育の機会が増えるにつれ短期大学の需要は減り続け、2003年度をもって入学試験を停止、2004年には新しく男女共学の情報コミュニケーション学部が誕生した。短期大学と情報コミュニケーション学部は組織として直結しているわけではないが、新学部は時代のキーワードを負ってまた別の意味で時代を先取りする教育・研究を展開する学部と目されている。併せて女子だけの教育機関が明治大学から姿を消すことになり、女子部の歴史的意義が次第に忘れられていってしまうことを危惧して、ジェンダーを核とし、多様性への洞察と理解を深めるよう、さらに次の時代を見越した研究・教育・社会連携を目指す「情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター」が開設された。
 資料映像上映後は吉田恵子先生により、関係者の高齢化を考慮してインタビューを急がねばならなかったことなど、映像制作にまつわるお話が披露された。
 上映会後のアンケートのコメントで多かったのは、宣伝が行き届かず参加者が少なくて残念だったということだった。主催者としても同感で、今後の課題としたい。資料映像はくり返し上映することができるので、10月19日のホームカミングデーで卒業生対象に2度の上映を行った。さらに、明治大学が女性研究者研究活動支援に採択されて大学全体に男女共同参画の機運が高まってきているので、今後も上映の機会を設定し実施していきたい。


特別講演会「ジェンダーの脱植民地化を目指して —世界規模で考える男性性、女性性、ジェンダー関係」Decolonising gender: understanding masculinities, femininities and gender relations on world scale(2014年7月21日実施)



【主催】情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター,情報コミュニケーション学部
【後援】国際ジェンダー学会、ジェンダー史学会、日本スポーツとジェンダー学会
【協力】明治大学セクシュアルマイノリティサークル Arco Iris
【日時】2014年7月21日(月)17時~19時30分
【会場】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー1階 リバティホール
【参加人数】148名
【コーディネーター】田中洋美(情報コミュニケーション学部准教授),高峰修(政経学部准教授)
講師略歴 レイウィン・コンネル教授(シドニー大学)
オーストラリアを代表する社会学者・ジェンダー研究者。著書は18 カ国語に翻訳され、国際的に最も知られるジェンダー研究者のひとりである。近著に、欧米を中心に形成されてきた近代社会科学を批判的に検討した『Southern Theory』(2007年)、ジェンダー研究の優れた入門書として版を重ねている『Gender: In World Perspective』(2015年、初版は『ジェンダー学の最前線』として邦訳が世界思想社より刊行)、社会科学と政治について論じた『Confronting Equality』(2009年)がある。その他の主要著書に『Masculinities』、『Schools & Social Justice』、『Ruling Class Ruling Culture』、『Gender & Power』(邦訳『ジェンダーと権力』三交社)、『Making the Difference』等がある。
報 告:田中洋美(明治大学情報コミュニケーション学部准教授)
 レイウィン・コンネル教授は、今日のジェンダー研究において最も著名な研究者のひとりである。とりわけ社会学的なジェンダー理論の形成に大きく寄与し、今日のジェンダー研究において主要概念となっているジェンダー秩序や覇権的マスキュリニティといった用語の普及に大きな役割を果たした人物である。またオーストラリア国内においては労働運動にも積極的に参加してきた「理論と実践」の人でもある。
 コンネル教授の研究は多岐に及ぶが、理論的には次の3テーマについての論考が知られている。ジェンダー関係構造 、複数の男性性(マスキュリニティ) 、「知」の生産 である。このたびの講演会では、氏が近年特に関心を持って取り組んでおられる3つ目のテーマを取り上げ、ジェンダーに関する「知」をめぐる諸問題について講演いただいた。
 「知」とは、端的にいえば、我々が知っていることを指す。自らが知っていることを我々はいかにして知るようになったのか、またそれは誰によりいかにして作られたのか、という問いに答えることは、知の形成における権力関係を問うことに他ならない。人類史において科学ないし学術の世界における「知」の形成には長らく女性が関わってこなかった。このことに気づき、問題化したのがフェミニストたちであった。このような「知」のあり方をめぐるジェンダー問題に介入するという意味においてはジェンダー研究の登場とその後の展開は革命的であった。しかし、こうした革命は限定付きのものとなっている。なぜなら現在、ジェンダー研究においてもまた同様の問題が存在しているからである。ジェンダーに関する研究における知の生産には北米や西欧といった「北」の圧倒的優位が認められる。このことを批判的に論じることが、本講演会の目的であった。
 コンネル教授は、ジェンダー研究を地球的視点から眺めると理論形成の「北」、データ収集の「南」という分業が見られることを指摘した(大まかに「北」とは北米や西欧を指し、「南」とはそれ以外を指す)。このような分業においては、「北」で生み出される理論と「北」の言語(英語)の圧倒的優位の下、「南」について集められたデータは北の理論に当てはめて論じられ、それにより生み出された「知」というものは英語という言語を通して拡がるというパターンがある。これはジェンダー研究に限ったことではないが、コンネル教授は西アフリカの哲学者Paulin J. Hountondjiの研究を参照しながらジェンダー研究に焦点を当てこの問題について論じた。
 ジェンダー知の形成にみられるこのような構造的問題が認識されるようになった背景には、「南」にいる研究者 や欧米諸国における「南」出身の研究者 がこうした問題について論じ始め、それが注目されるようになったことが挙げられる。
 とはいうものの、ジェンダーに関する「知」はいまも往々にして上記のような不均衡な南北関係を軸に産み出されている。コンネル教授は講演で我々に課された課題として次の二点を挙げた。
 第一に、我々の使っているジェンダーに関する理論や概念の持つ歴史性、とりわけ過去500年もの歴史において形成された権力関係やジェンダー関係が孕んでいる植民地性との関連性について認識することである。例えば、コンネル教授は、過去の植民地主義が植民地化された地域のジェンダー関係の形成に大きな影響を与えたことに触れるとともに、今日的な植民地主義としてグローバルな資本主義を捉え、ある地域でのジェンダー問題を理解するには、例えば多国籍企業やトランスナショナルエリート(スクレア)による世界各地の人的資源の管理といったような、トランスナショナルな社会過程や実践の把握が必要であると唱えた。
 第二に、「南」の経験を踏まえてジェンダー研究のアジェンダを再設定することである。例えばジェンダー暴力について、ヨーロッパでは家庭内暴力など少数者が経験する問題として論じられる傾向があるが、南アフリカのようにかつて植民地であった社会では社会全体を特徴づける歴史的な問題である。また別の例を挙げると、国家という概念も「北」の理論で想定されている以上に「南」の社会では重要である 。
 これらの点を踏まえ、コンネル教授はジェンダーに関する「知」の今後のあり方として「モザイク・エピステモロジー」を提案した。これは、南北のヒエラルキーではなく様々な文化や地域がモザイクを構成するひとつひとつのタイルのように平面に並んでいる様子をイメージしたものである。モザイクの欠片ひとつひとつは、それぞれの独自性を保っているが、同時に隣接する欠片との接点も持つ。そして、この「接点」は、単にくっついているようにみえるが、より適切に表現するならば、オーストラリアのジェンダー研究者Chilla Bulbeckのいう「編みこみ」(braiding)であるとコンネル教授は述べた 。
 このモザイク・エピステモロジーが実際にどのように機能するのか、あるいはどこまで効果的に機能するのかについては議論の余地があろう。しかし、とりわけ資本主義のグローバル化が進み、マクドナル化(リッツア)や文化帝国主義(トムリンソン)が危惧される中、それぞれの地域や文化がその独自性を失うことなく、しかし「他者」や自らにとって異質なものから孤立しているのではなく、むしろ積極的に関わりながら新しい「知」を生み出していく。そのような営みを構想する試みとしてコンネル教授の講演は示唆に富んでいた。
 では「北」の圧倒的覇権によって特徴づけられた「知」の生産に我々はいかに介入すべきか、あるいはそもそも介入できるのか。フロアからは、英語で発表された論考を用いずにジェンダーの理論を形成していくことがそもそも可能なのかどうか、現状を変えるためにアジアの研究者に何ができるのか、といった質問が寄せられた。例えば、日本語を母語とし、日本を拠点に活動する研究者にとって、英語という外国語を用いて「北」出身の研究者らが作り上げた「知」の産出システムに介入していくことは容易ではない。コンネル教授は、それでも関わっていくことを提案した。それは学術雑誌の査読プロセスにおいて、あるいは海外の研究者とのやりとりにおいてかもしれない。いずれにせよ、何かがおかしいと感じたときにはおかしいと異議申し立てする。そのような小さな行動の積み重ねによって、少しずつではあるが、何かを変えていくことができるはずとのことであった。
 ところでこのたびコンネル教授をお招きした理由のひとつに、教授がオーストラリアという周縁から「北」に関わってこられた研究者のひとりであるということもあった。これは英語圏におけるオーストラリアの周縁性についてということだけではない。コンネル教授は、そのようなオーストラリアの周縁性とも関連しているオーストラリア社会内部における植民地性の問題、とりわけ支配と抑圧、暴力と破壊の歴史が持つ今日的意味にも向き合ってこられた研究者でもある。その取り組みにおける葛藤が、本講演のテーマとなったグローバルなジェンダー知の生産についてコンネル教授が関心を寄せる背景にはあったのである。日本とオーストラリアは地理的にも文化的にも歴史的にも大きく異なるが、日本もまた社会内部に植民地性の問題を抱えている。ジェンダー知の産出において日本は「南」の一部かもしれないが、別の局面においては「北」に位置付けられることもあるだろう。かつて植民地において日本語使用政策を導入した歴史を持つ日本に生きる我々にとって、英語の使用を否応無く求められる現代社会のありようについて考えることにはいろいろな意味があるはずだ。このような問題関心からもこの度の講演会を企画した次第である。
 なお本公演の質疑応答ではたくさんの質問とコメントを聴衆の方々にから頂戴した。当日は時間の関係から全てを取り上げることはできなかったが、コンネル氏たっての希望で質問とコメントのコピーをお渡させていただいた。また、日本についてもっと知りたいということで、お薦めの文献を尋ねられたが、英語で出版されているものとなると非常に限られてしまうのが残念であった。英語で研究活動をすることは大変であるが、英語が英語圏・非英語圏の多くの研究者との交流を可能にしてくれる面もある。これは有意義なことである。その意味においても、「北」の優位を放置せずに何らかの形で関わっていくことが求められているといえよう。その第一歩として、こういう問題について考える機会を提供してくれたコンネル教授とその問題に関心を持って講演会に足を運んでくださった聴衆の皆様にお礼を申し上げたい。

特別講演会『近代社会の再封建化:社会構造・ジェンダー・経済』(Die Refeudalisierung der modern Gesellschaft: Sozialstruktur, Gender, Ökonomie)(2014年7月18日実施)



【主催】情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター,
    情報コミュニケーション学部
【共催】明治大学現代社会研究所、日本社会学理論学会、明治大学専任教授連合会
【日時】2014年7月18日(金)17:30〜20:00
【会場】明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント1Fグローバルホール
【参加人数】55名
【コーディネーター】宮本真也(明治大学情報コミュニケーション学部准教授,出口剛司(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)【通訳】三島憲一(大阪大学名誉教授)
講師略歴 ジークハルト・ネッケル氏
ジークハルト・ネッケル教授は、ビーレフェルト大学、ベルリン自由大学で社会学、法律学、哲学などを学び、1997年にドイツ連邦共和国ジーゲン大学の社会学及び経験的社会調査の教授に就任した。その後、ヴッパータール大学、ギーセン大学、ヴィーン大学教授を経て、2011/12年冬学期から、ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン大学社会学研究科教授を勤める。また、2004年以降は、フランクフルト社会研究所の年報である『ヴェスト・エンドー新社会研究誌』の編集にも携わっている。ネッケル教授の主な研究テーマは、社会的不平等の象徴的秩序、経済的なものの社会学、文化社会学、感情社会学、政治社会学である。方法として彼は、知識社会学やエスノグラフィといった手法を取っている。2011年にゲーテ大学に招聘されて以来、ネッケル教授は社会学研究科と社会研究所の二つの研究組織において精力的に活動を行っている。ホルクハイマー、ベンヤミン、アドルノ、フロム、マルクーゼに代表される、いわゆるフランクフルト学派の批判理論が形成された場所で、彼が現在目指しているのは、批判的社会学の構築と発展である。本特別講演会のテーマである「近代社会の再封建化」のテーゼは、この課題において重要な鍵をなしている。
主な業績:Neckel, Sighard 2010: Kapitalistischer Realismus. Von der Kunstaktion zur Gesellschaftskritik. Frankfurt a. M. und New York: Campus. /Neckel, Sighard 2008: Flucht nach vorn. Die Erfolgskultur der Marktgesellschaft, Frankfurt a. M. und New York: Campus. /Neckel, Sighard und Hans-Georg Soeffner (Hg.) 2008: Mittendrin im Abseits. Ethnische Gruppenbeziehungen im lokalen Kontext. Wiesbaden: VS Verlag. /Neckel, Sighard 2000 [1993]: Die Macht der Unterscheidung. Essays zur Kultursoziologie der modernen Gesellschaft. Frankfurt a. M. und New York: Campus.
Neckel, Sighard 1991: Status und Scham. Zur symbolischen Reproduktion sozialer Ungleichheit, Frankfurt a. M. und New York: Campus.(法政大学出版局から『地位と恥辱─社会的不平等の象徴的再生産』(岡原正之訳、1999年)として出版されている)
報告:宮本 真也(情報コミュニケーション学部准教授)
 2015年になってT・ピケティと彼の著書である『21世紀の資本』が話題となり、各種メディアでも頻繁に現代の資本主義社会と不平等、そして再分配の問題がアベノミクスとの関係から言及されている。とはいうものの、この問題設定はピケティに独自なものではないことは、本特別講演でジークハルト・ネッケル教授が選んだテーマからも明らかである。今回、世界社会学会議横浜大会をきっかけに来日したネッケル教授にとって、資本主義的近代化という運動そのものと、そこに生きる人びと、特にグローバル・エリートたちの生態は、目下の重要な関心事である。そして、批判理論の伝統を継いで批判的社会学を構想するうえでも不可避の問題なのである。以下、ネッケル教授の講演内容を要約したい。
 金融市場資本主義は、欧州諸国を巨大な金融危機および債務危機に引きずり込んだ。それ以降、金融市場および信用市場での投機に対する公共圏での批判に賛意が集まっている。国家の破局的負債で民間の投機が儲かること、金融市場の富の崩壊およびそれと同時に起きている社会の貧困、社会的不平等の激化、こうした現状への批判が向かうところは、同じなのである。つまり、現代資本主義は、もう過去のこととされていた封建的な諸構造、身分制的特権、さらには上層貴族階層の時代へと現代社会を引き戻そうとしている、ということである。
 【ポスト・デモクラシーと再封建化】 金融市場資本主義は、実際には富裕で特別待遇を受ける人々から成るニュー封建制へとわれわれの世界を逆戻りさせている、というのが公共圏での批判である。社会科学として、この批判を展開したのは、英国の政治学者C・クラウチである。「ポスト・デモクラシーの到来」というテーゼを立てて彼は、デモクラシーの過程が、抛物線的な発展の終点に到達していると論じている。この抛物線のはじまりには、同権に依拠した参加を求める闘争があり、その頂点が組織された福祉国家であり、その下降には「デモクラシーの実質の喪失」が位置しているという。「デモクラシーの生活曲線」のこうした下降で重要な役割を演じているのは、経済制度としての市場である。そして、この市場の規則が、政治動向をより強く決定するのである。ポスト・デモクラシーにあってはまるで経済市場であるかのように、政党は票のために市民の歓心を奪い合い、市民たちの側は政党に対して顧客のように振る舞う。この「政治的コミュニケーションの退廃」に応じて社会過程においては、制御不能な私的権力が増大し、同時に、それ以外の一般国民は断片化している。グローバルな経済エリートは彼らの私的な経済的利害によって、国家のような政治的共同体の諸制度に影響力を及ぼす。反対に、大部分の社会集団にあっては、参加権が削り取られ、政治的には無力となり、経済的な不安定さが広がっているのである。
 ポスト・デモクラシーに関するこの分析は他方で、驚くべきことに、50年前にJ・ハーバーマスが『公共性の構造転換』で展開した社会批判の概念との近さを示しつつも、いかなる理論的なつながりもない。当時ハーバーマスは「再封建化」という概念をもちいて、公共の議論の場を例にしながら、公共圏の基礎的なもろもろの制度の変容とともに、かつての市民的なコミュニケーション形式が逆向きの変容を蒙ったことを論じた。その分析の中心にあるのは、社会のさまざまな領域が、商業化と政治的正統性の調達という二つの圧力を受けてプライベート化して行く様子であった。そこで市民的公共圏は、経済的利害とメディアによる政治的影響力行使のための手段になってしまっている。それゆえ、ハーバーマスによると、市民社会の成立のために不可欠だった公的問題と私人の利害という領域の区別が消失している。それは、クラウチが現在、経済エリートは政治的空間と国家の諸制度を利益重視の企業に類したものにしてしまった、と指摘している事態に匹敵するほど重要なことである。
 【女性の家事労働の再封建化】 現代の社会分析においては、「再封建化」という考え方を目にすることは少ない。例えば、多くは女性から成る家事労働者はグローバルに移動して、グローバル化した中心的都市の多くで家事労働者として働いている。こうした女性労働者のグローバルな移動に関する研究では、その分野で契約の平等性がまったく欠如していることが分かる。そこではミグレーション労働者の家事労働に「再封建化」ではないかという疑いが生じてくるのである。この考え方によれば、グローバル化した労働市場で家事労働を提供しようと動く人々は、まったくの個人的従属状況にあり、かつての市民的=近代的な区別、すなわち公的と私的の区別、仕事の場所と住むところの区別、賃金と個人的好意の区別などが無意味になっている。平行して、そこには搾取環境がある。またこうした女性たちが労働する諸国に不法滞在していない場合でも、滞在権はさまざまに限定されている。それゆえそこでの労働は往々にして雇用者の私的空間でもなされている。特にグローバル・ケア・チェーンと言われる巨大な労働分野においては、女性たちは豊かな国々で介護労働や家事労働に従事している。そして、権利の配分という点では、現代社会における歴史的進歩の以前の時代状況に退化し、女性たちはニュー封建制ともいうべき従属関係に陥っているのである。
 【社会構造の再封建化】 最後に、現代の社会構造をめぐる議論で「再封建化」の概念が用いられるのは、どういう家族に由来するのか、また今日の下層階級と上層階級の社会的位置がどう遺伝されていくのかについてである。例えばドイツで高級サラリーマンの子供たちの社会的上昇の可能性を未熟練労働者の子供たちのそれと比較してみると、前者は、企業で上の方の地位に上がって行くチャンスが後者に対し40倍も高い。世界的なオキュパイ・ウォール・ストリート運動のキャッチフレーズだった「私たちは99% だ」という表現ですら、きれいごとに過ぎないのである。資本主義的市場経済の運動規則では、もはや物質的分配のこれほどの不平等は説明できない。グローバルな労働市場での受容と供給のメカニズムだけが収入配分の度合いを決めるものなら、現在における労働市場で最良の資格と能力を供給できる人々が、富の増大から最大の利益を得ておかしくない。だが、実際にはそれに代って、高度な能力を持った知的労働者であっても非常にしばしば残りの99%に属している。
 こうした分配秩序のもとで、富める寡占支配層が市場の幸運からではなく、金融商品の所有と、それのもたらす権力のみによって利益を得て、結果として市民的な競争秩序はもはや言い訳にもならない。再封建化とはしたがって、両極分解した二つの社会グループのあいだの地位をめぐる競争もなく、両グループとも比較不能な生活状況へと閉じこもることになる事態である。つまり身分制的に硬直した静的な社会構造のことである。その点では、モダンな社会に特徴的なダイナミックな社会的モビリティ(流動性)というプロセスの正反対である。
 【近代化の逆説】 この点で理論的に展望を開くためには、再封建化とポスト・デモクラシーが生み出される運動の様態を観察する必要がある。資本主義的近代化は自らのうちに自らの進行と反対の動きを宿しているかに見える。つまり、「再封建化」とは、歴史的に過去の時代が再来することでも、大昔の時代への逆行でもない。特に重要なのは、再封建化はある特定状態のことではなく、あるプロセスを指すということである。つまり、一定の閾値に至って逆転現象が起きること、つまり社会の諸制度が、それが歴史的に発生したときの特徴だった規範的特性を失ってしまうというプロセスである。近代化の進捗につれて社会の機能システムがかつてその発生の理由となった市民的な性格を失い得るということでもある。再封建化とはそれゆえ、資本主義と市民社会における逆説的近代化をさすカテゴリーなのであり、市民的社会秩序のもろもろの基準から離反するように仕向けるダイナミズムのことである。再封建化という分析モデルには、社会学的に見て別々の時間地平が絡まり合っている。つまり、新しい事態が単に一方的方向を持った近代化の帰結として生じるのではない。むしろ、これまで知られていなかった社会変動が、経済と社会における伝来の社会秩序のパターンを新たなかたちで実現させることで、古いものが新しく生まれてくるのである。今日、再封建化においては、経済を金融市場資本主義という構造へと近代化させたおなじ社会的プロセスが、収入、権力、社会的承認[名声や評判]の分配に関する社会形式において、元来は近代以前にあった社会秩序のパターンをふたたび顕在化させている。富の巨大な増大を約束してくれるそのおなじ経済的発展プロセスが結果として、ますます多くの人々がこうした富から排除されるという帰結を産み出している。
 【現代社会の再封建化】 ポスト・デモクラシーにおけるデモクラシーのさまざまな制度の空洞化を論じる場合であれ、あるいは、現代の金融市場における経済的なニュー封建制について論じる場合であれ、社会変動の考察にとって、資本主義的近代の「再封建化」という分析資格は、社会発展のパラドクシカルなモデルとして多くの点で有効である。
 以上の分析にしたがうと、今日の社会秩序において再封建化のプロセスは少なくとも次の四つの次元に認めることができる。第一は、社会構造および社会的不平等の変化に関してである。調整不能な社会的状況という両極化のメルクマールに、また出自が身分制的に固定化されてきていることに、封建化の明白な徴候を見ることができる。第二は、経済プロセスの組織化および金融市場において支配的な経済的最上層グループのニュー封建制的なステータスに関してである。第三には規範的側面、つまり、価値の再封建化と金融市場資本主義の正統化の秩序に関してである。これはその核心においては能力原理が、能力と無縁な、相続された位置や財産や所有証券によって取って替わられることであり、また名声や承認の再封建化である。ここでは能力原理・努力原理が共有され、要求され手はいるものの、実際には社会における自らの地位や階層を高めるには、それほど効力を持ってはいないという意味で空洞化してしまっているのである。第四には福祉国家の再封建化である。これによって国による社会政策は資金援助というかたちで再民間化され、社会政策を受ける市民の権利は、民間の慈善事業に依存するかたちへと変貌してしまうのである。
 経済と社会構造、価値および能力主義・成果主義、国家の諸制度および社会政策、こうしたいっさいが再封建化しているわけであるが、それによって現代資本主義の組織原則や文化がそのかつての規範的基礎からいかに切り離されてしまったかが分かる。資本主義と市民性の歴史的結びつきは21世紀において終結したように見える。資本主義と市民社会はもはや相互依存関係にはなく、むしろ対立する。この逆説的な帰結は市民性なき現代資本主義の成立である。おそらくこの非市民的なありようこそ、21世紀において、資本主義がグローバルな勝利の道を進み始めた文化的前提なのである。
 講演ののちには、資本主義に対するネッケル教授個人の理想化の疑惑、理想的な市民的公共圏の今後の可能性、特にジェンダーとの関連でEU内の労働市場でのケア労働などについても質問が出された。また、日本における貧富の差、格差社会のあり方などにも言及され、資本主義的近代における「再封建化」テーゼの有効性、普遍性について、議論が及んだ。質疑応答は予定時間を越えて行われ、ネッケル教授にはそのつど学術的に示唆に富む回答をいただいた。
 ネッケル教授の準備段階から当日までの誠実で丁寧なご対応と、三島憲一大阪大学名誉教授のまさに職人芸というべき通訳・司会がなければ、本講演会はこれほど充実したものとはなりえなかっただろう。ここに記して深く感謝の意を表したい。

特別講義・上映会 2013年度

2013年度実施分特別講義・上映会の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2013年度』(2014年3月31日発行)からもご覧になれます。(PDFデータにリンク)

特別講演会『テクスチュアル・ハラスメント』(2013年12月13日実施)



【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2013年12月13日(金)18:00~20:00
【場所】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー16階(1166教室)
【参加人数】約20名
【講演者】小谷真理
講師略歴 小谷真理
明治大学情報コミュニケーション学部客員教授。SF & ファンタジー評論家。1991年に共訳書ダナ・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』で第二回日本翻訳大賞思想部門を、1994年に著書『女性状無意識』で第15回日本SF大賞を受賞。小説、マンガ、アニメ、ゲーム、映画とメディアを問わないSF作品のフェミニズム批評による読解で知られる。2001年にティプトリー賞の姉妹賞である日本センス・オブ・ジェンダー賞を創設し、ジェンダーに視点を向けたSF・ファンタジー作品に光を当てる活動にも貢献する。
報告:小谷 真理(明治大学情報コミュニケーション学部客員教授)
 クリエーターが女性であった場合、作品評価に作者の性差は反映されるものだろうか? つまり、その作品が、男が作ったものか、それとも女が作ったものかで、作品評価が変化するものだろうか?
 通常、評価とは作品に向けられるものであるから、それがどんな作者の手になるものであろうと関係がないはずだ。ましてや、その作者が男か女かなどという性差的言説からは自由であると考えるのが普通であろう。しかしながら、いまもなお、作品評価をめぐって、性差から完全に逃れる事は出来ないらしい。しかも、そこに性差別的偏向という問題が含まれる。
 本講演の演題であるテクスチュアル・ハラスメントとは、1982年にイギリスのフェミニスト文学批評家メアリ・ジャコウバスが作ったタームであり、第一義的には「文章上の性的嫌がらせ」のことをさす。基本的には、女性作家の作品を評価するのに、「あの作品は(女性が書いているから)よいものではない」と作品の価値判断に性差観が混入したり、「あの作品は(女性である)本人の手によるものではない」と女性作家自体の作家的アイデンティティを矮小化したりする、紋切型の表現である。本質は単純だが、さまざまなバリエーションがあり、その量が膨大であるため、女性クリエーターのイメージ全体の低下、転じては風評被害につながっている。
 講演者がこの問題に興味を抱くことになったのは、1997年に講演者自身に、まさにこの問題が降りかかってきたからであった。
 1997年10月に刊行されたサブカルチャーの事典『オルタカルチャー』に、講演者の名が夫の名前の筆名と書かれ、男性と断定された。そして、この事件は、講演者自身を原告として裁判に発展した(平成10年(ワ)1182号民事訴訟)。女性が著作を発表したとき、それが女性の手によるものではない、身近な男性の手になるものである……これはまさに女性差別の典型表現であり、けして珍しいものではない。しかしながら、裁判中にそれを証明するべく、国内の文学的研究をリサーチしたところ、そうした研究はまだ存在しなかった。このため、裁判所には、アメリカの女性作家ジョアナ・ラスの批評書 How to Suppress Women’s Writings 「女の書き物を抑圧する方法」(テキサス大学出版局、 1983年)の第三章を訳出して提出した。
 同書は、古今東西の女性作家と作品を緻密に調べ上げ、女性表現者たちがどのように貶められてきたかを、次の八項目にわたって類型化する画期的な批評書である。
 次の文言は、表紙に刷られている項目だ。
1. 彼女は(自分自身で)書いてなかった。(書いたのは明らかに、彼女なのに)。
2. 彼女は書くべきではなかった。(政治的、性的、男性的、フェミニスト的な著作だ、などの理由で)。
3. 何を書いたか見てみろ! (女性特有の話題しか扱ってないじゃないかというニュアンスで。女性特有の話題を特に強調しているものも含まれる。たとえば、寝室、台所、家庭、女そのものといったことをテーマにしている)。
4. 彼女は一発屋だ。(例『ジェーン・エア』、哀れなことに一生にその一作だけだった、というような評価)。
5. 彼女は本当の芸術家ではないし、作品も本物の芸術ではない。(スリラー、ロマンス、児童文学、それにSFといったサブジャンルの作家じゃないか、とラベリング)。
6. 手伝ってもらって書いた。(ロバート・ブラウニング、ブランウェル・ブロンテら身内の男の助けがあったとして、評価を貶められた例。一人ではなにもできない、というニュアンスで)。
7. 彼女だけは特別だ。例外的人物だ。(他の女性とは違うという二ュアンスで。例としてはヴァージニア・ウルフ、ただし夫レオナルドの助力はあったと言及されることあり)。
8. その他 (彼女は書いたが、しかし! とその後に一人では何もできないなど暗示するなにがしかの理由がくるもの)。
 同裁判で扱われた事例は一番目に該当する。裁判自体は2001年12月に原告勝利をもって終結したが、こうした嫌がらせが現代においてもなお頻発しており、慣習のなかで見過ごされかねない事情、あるいは泣き寝入りせざるをえない事情があることを知った。これらの問題が頻発しているにもかかわらず表面化しにくいのは、そうした差別意識を男性も女性も内面化し、これが嫌がらせの類型表現であることに気づかないためではなかろうか。それを明らかにしていく必要があるのではないか、と考えたのである。
 メアリ・ジャコウバスが作ったテクスチュアル・ハラスメント(文章上の性的嫌がらせ)というタームは 1982年、ラスの著作に先行して登場したものだ。ジャコウバスは、アメリカの文学批評家スタンリー・フィッシュ『このクラスにテクストはありますか』(1980年)から、このことばを思いついたという。フィッシュは、解釈共同体理論を提唱する批評家であるが、ジャコウバスは、解釈共同体理論を論争的に繰り出すフィッシュが、同論考のなかで、無意識に女子学生を「教師という上位の男性の言葉を鵜呑みにし、洗脳されたただの信者、つまりフィッシュという男に(頭を)犯された女」とみなしているところから、フィッシュの言い方自体を「文章上の性的嫌がらせ」と批判し、同時にフィッシュの理論を援用して、テクハラの背後に(性差別的)認識を共有する男性たちの解釈共同体がある、と指摘したのである。ジャコウバスの書いた「このテクストに女はいますか? 」という論考は、ジョアナ・ラスの著作と共鳴している。
 それでは、ジャコウバスやラスの指摘する「テクスチュアル・ハラスメント」は、わが国の文学ではどれほど見られるのだろう。裁判の過程で、女性のクリエーター約500人を対象にアンケート調査をし、ラスのまとめた類型を見たこと、あるいは体験したことがあるか、あった場合その具体的な内容はなにかと尋ねたところ、約 80件の回答があった。
 なかでも顕著な実例が、明治末期の俳諧で起きた「沢田はぎ女事件(はぎ女架空説)」である。明治の俳壇にまだ女性が登場していなかった頃、「はぎ女」と名乗る女性俳人が突然彗星のように現れ、短い期間に夥しい量の俳句の傑作をものにするも、有名になり始めたそのとき、彼女の俳句は夫の手になるものだという噂がたち、しばらくして夫婦ともふっつりと姿を消してしまった、という事件である。昭和なかばに女性俳人の研究をしていた池上不二子が、ふとしたことからはぎ女架空説に強く疑問を持ち、徹底的に調査し『俳句に見せられたをんな』(1957年)に一章をさいて書いたところ、なんとまだ生きていた本人から連絡があり、架空説自体が虚偽である事が発覚した。のちに吉屋信子が「はぎ女事件」(1965年)にその顛末を詳しく書いている。
 今後、テクスチュアル・ハラスメントを是正して行くにはどうしたらよいのだろう。前渇ジャコウバスは、フィッシュの解釈共同体理論を応用して、テクスチュアル・ハラスメントを共有する男性中心的価値観の解釈共同体の存在を指摘した。テクスチュアル・ハラスメントは、この解釈共同体があるかぎりなくなるとは思えないが、女性らの解釈共同体による対抗言説を張る事により、テクスチュアル・ハラスメントとはどういうものかを理解し討議し、文脈を変えて行く事はできるのではないだろうか。そうした言説空間の構築が、21世紀の今日では必要なのである。

<テクスチュアル・ハラスメントを知るための参考文献>
・ジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』小谷真理編・訳(インスクリプト、2001年、3600円)。
・小谷真理「一五年目のテクスチュアル・ハラスメント」<現代思想>2013年11月号、136-143.

ドキュメンタリー映画「カタロゥガン!ロラたちに正義を!』上映会(2013年6月14日実施)



【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2013年6月14日(金)18:15~20:15 
【会場】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー地下1階(1001教室)
【参加人数】約60名
【コーディネータ・司会】平川景子(文学部准教授)
【上映後のレクチャー】竹見智恵子氏(映画監督)
報告:情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
<映画の概要>
 太平洋戦争が始まった時、フィリピンはアメリカの植民地だったため、否応なく日米の戦争に巻き込また。日本軍が侵攻してくると、長年植民地支配に苦しんできた人々は、新たな侵略者である日本軍への抵抗運動を組織して立ち上がった。日本軍はこうした人々の動きをゲリラの蜂起と見なし、激しい弾圧を加えた。こうした中で、若い女性や少女たちが次々と捕らえられて「慰安婦」にされたり、ゲリラへの報復として集団レイプを受けるなど、日本軍による激しい性暴力が吹き荒れた。ドキュメンタリー映画「カタロゥガン!ロラたちに正義を!」は、太平洋戦争時に日本軍による「慰安婦」被害を受け、戦後60余年、心身の傷と差別に長く苦しんだ、フィリピンのロラ(おばあさん)たちのドキュメントとして、高齢を迎えたロラたちの証言を記録に残すこと、現地に残る史跡を映像に残すことを目的に作られた。ドキュメンタリーは、性暴力を受けたフィリピン各地のロラたちの声、日本兵によるゲリラ弾圧の現場の生々しい目撃談、慰安所を管轄していた日本兵の証言を追い、その中で日本軍がフィリピンの民間人に行ったすさまじい暴力の実態が浮き彫りにされる。ロラたちは「カタロゥガン!(正義を)」を合言葉に街頭デモを行い、今日もなかまたちとともに正義の回復を求めて闘いを続けている。

<上映後のレクチャー>
 映画の上映後に、監督の竹見智恵子氏によるレクチャーが行われ、フィリピンのロラを取材して撮影した経緯や、ドキュメンタリーに登場したロラたちの証言の細部などが語られた。レクチャーの後の質疑応答では、参加者から監督に活発に質問が投げかけられるなどの場面が見られた。
 終了後のアンケートでは、参加者から、フィリピン住民への日本軍の弾圧や慰安婦問題といったこれまで日本ではほとんど伝えられてこなかった事実を知り、歴史認識を新たにしたという声が多数寄せられた。

特別講義・上映会 2011年度

2011年度実施分特別講義の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2011年度』(2012年3月31日発行)をご参照ください。(PDFデータにリンク) 

特別講演会~情報コミュニケーション学部国際交流活動推進の一環として~『タイの社会・経済状況と女性』(2011年11月4日実施)



【主催】 明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】 2011年11月4日(金)15:00 ~ 17:00
【会場】 明治大学駿河台キャンパスリバティタワー7階1074教室
【参加人数】 約80名
【コーディネータ】 細野はるみ(情報コミュニケーション学部教授)
講師略歴 レヌー スカロマナ氏(Dr. Renu Sukharomana)
シーナカリンウィロート大学経済公共政策学部准教授・学部長。
米国ネブラスカ大学リンカーン校にて農業経済学分野の博士号を取得。
講師略歴 チョンプヌッ ゴサラゴン パームプーンウィワット氏(Dr. Chompoonuh K. Permpoonwiwat)
シーナカリンウィロート大学経済公共政策学部准教授・副学部長。
米国ユタ大学にて経済学修士号・博士号を取得。
プログラム
15:00 ~ 趣旨説明(ジェンダーセンター長 吉田恵子)
15:05 ~ 開会挨拶(情報コミュニケーション学部長 細野はるみ)
15:10 ~ チョンプヌッ・ゴサラゴン・パームプーンウィワット
        「タイの女性:社会経済的側面について」
        "Socio-Economic Aspects of Thai Women"
16:30 ~ レヌー・スカロマナ
        「グッド・ガバナンスおよび工業開発が労働およびコミュニティ・ヘルスに与える影響」
        "Good Governance and Impacts of Industrial Development on Labor and Community Health"
17:30 ~ 質疑応答
18:00    閉会

特別講義・上映会 2010年度

2010年度実施分特別講義の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2010年度』(2011年3月31日発行)をご参照ください。(PDFデータにリンク) 

連続特別講義『情報社会の諸相—生・性・聖—』(全5回)

連続特別講義『情報社会の諸相—生・性・聖—』

 【主催】 明治大学情報コミュニケーション研究科
 【協賛】 情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター

第1回「サイエンスとしての男性学の方法と課題」 渡辺恒夫氏(2010年10月13日実施)

講師略歴 渡辺恒夫氏
京都大学文学部で哲学を、同大学院文学研究科で心理学を専攻。博士(学術)。高知大学人文学部を経て、現在、東邦大学理学部生命環境科学科教授。専門は生涯発達心理学(自我論)、科学基礎論、環境心理学と、多岐にわたる。ブログ「夢日記・思索幻想日記」で、夢の現象学を実践している。2010年度質的心理学会学会賞(優秀論文賞)受賞。 

第2回「パノプティコン・ショッピングセンター・介護保険—情報社会と規準化を体現するものー」 柴田邦臣氏(2010年10月18日実施)

講師略歴 柴田邦臣氏
1973年生まれ。専門は、福祉情報論、ICTメディア研究、社会情報学。2003年3月、博士後期課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)、東北文化学園大学医療福祉学部非常勤講師(保健福祉情報論)を経て、大妻女子大学社会情報学部准教授(現職)。 

第3回「臨床のコミュニケーションと看取り :緩和医療の視点から」 的場和子氏(2010年10月10日実施)

講師略歴 的場和子氏
厚生連長岡中央総合病院緩和ケア科医師,緩和ケアコンサルタント。 

第4回「サイボーグ・フェミニズム」 小谷真理氏(2010年10月28日実施)

講師略歴 小谷真理氏
日本のSF&ファンタジー評論家、日本SF作家クラブ会員、日本ペンクラブ女性作家委員会委員長、ヒロイック・ファンタジー&ファンタジーのファンクラブ「ローラリアス」副会長。「ジェンダーSF研究会」発起人。日本におけるコスプレイヤーの元祖としても知られる。 

第5回「場所の記憶と怪異の想起—喰違見附を中心に考える—」 北條勝貴氏(2010年11月11日実施)

講師略歴 北條勝貴氏
 上智大学文学部専任講師。日本古代史を専門とするが、既存の学問領域に限定せず、哲学・社会学への関心も強い。日本古代史に限定せず、日本社会における穢れ・怪異・異域などの問題を専門に研究している。 

「ジェンダー・マネジメントⅠ」特別講義 白河桃子氏(2010年6月7日実施)

講師略歴 白河桃子氏

白河桃子氏

 東京生まれ。
慶應義塾大学文学部卒業。
ジャーナリスト&ライター。
「プレジデント」、「シュシュ」、「ジンジャー」、「日経」アソシエオンライン、「日経」新聞サイト、その他婦人公論など多数女性誌に執筆。女性の年代別ライフスタイル、未婚、晩婚、少子化などに関するインタビューがテーマで、その膨大な取材量には定評がある。

『婚活時代から見える女性の生き方』

『婚活時代から見える女性の生き方』

情報コミュニケーション学部牛尾奈緒美先生の「ジェンダー・マネジメントⅠ」の 授業にて、ジャーナリスト兼ライターの白河桃子さんをお招きし「婚活時代から見える女性の生き方」特別講座を開催いたしました。
白河桃子さんは、山田昌弘中央大学教授とともに「婚活(結婚活動)」を提唱し、共著の「婚活時代」(ディスカヴァー21刊)が19万部の大ヒットとなり、「婚活」は2008年度に続き2009年度も流行語大賞にノミネートされるほど世の中に影響力を持つワードとなり、今日も注目されています。
そんな白河桃子さんの特別講座ということで当日会場は大盛り上がりでした。
今回は学部生対象の講座でしたが、近日中にこの講座の模様を配信予定です。お楽しみに!