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【情報コミュニケーション学部】小田ゼミナールが福島原発事故被災地で復興課題を調査

2013年10月03日
明治大学 情報コミュニケーション学部

校庭に設置された「モニタリングポスト」校庭に設置された「モニタリングポスト」

帰宅困難区域との境目帰宅困難区域との境目

アスファルトを突き破る雑草アスファルトを突き破る雑草

2年前に大破したまま放置された自家用車2年前に大破したまま放置された自家用車

JR常磐線富岡駅の様子JR常磐線富岡駅の様子

小田ゼミナールは同志社大社会学部メディア学科の小黒ゼミナールと9月18日から20日までの2泊3日、福島県川内村で合同合宿を行い、原発事故被災地の現状調査を行いました。川内村は福島第一原発から30キロ圏内にあり、2011年3月の東電福島第一原発事故後は全村避難を余儀なくされました。地理的な要因などから、現在は幸い放射能被害が少なく、今年1月に「帰村宣言」をして住民の帰還が始まっています。放射線量は村役場付近で毎時0.1マイクロシーベルト以下と東京都内と同程度です。また、村の平坦部の除染が進み今年から稲作が再開されました。国の復興策の一環として、大阪の蛍光タイルメーカーなどの企業進出もあります。ただ、若い世帯の帰還はあまり進まず、小学校などでの教育面で課題もあります。

合宿1日目はJR郡山駅に集合して、この近くにある川内村住民が被災後2年半たったいまでも生活する仮設住宅を見学しました。ここからバスに乗り、1時間ほどで川内村に到着しました。山に囲まれ、稲穂が揺れる「何も無いところがいい」(村の商工会長)といった風情です。次に、村唯一の小学校「川内小学校」で教育長と副校長に教育課題の説明を受けて、校内を見学しました。この日は東京大学による子供たちへの「放射能教育」が行われていました。教室の棚には放射能関連の絵本が並んでいました。校庭には線量を計測する「モニタリングポスト」が設置されていたのが印象的でした。最後に帰村宣言後に進出した企業を見学しました。このひとつ「野菜工場」ではLED光を使って外気に触れることなく水耕栽培で野菜を栽培していました。

2日目は今年8月まで「警戒区域」に指定され、立ち入りが禁止されていた富岡町内へと向かいました。川内村から東へバスで約30分の距離にあります。途中、見晴らしのいい峠から事故を起こした福島第一原発が見えました。現在も放射線量が非常に高く、町の3割の地域が今後4年以上は帰れない「帰還困難区域」に指定されています。昼間は立ち入りが許可されている町内に着いたのですが、人影はまったくなく、雑草がアスファルトを突き破り、イノブタがあちらこちらで闊歩している現状は、被害が想像以上であることを実感しました。これは被災地に実際に行かねば分からないことだと思います。

地方の町には不釣合いなほど豪華な町役場や文芸会館、そして原発PR館は廃墟のようになっていました。震災前に商店街や住宅があったJR常磐線の富岡駅付近は津波被害で雑草が生い茂る更地になっていました。かろうじて取り残された商店や住宅は2年前のままです。震災・原発事故から2年半経った今でも、そこは時が止まっていました。この光景を目の当たりにし、僕たちは言葉を失いました。この近くで牛やダチョウを保護している農家を訪ねました。エサ不足でこの冬を越えられるかどうかと悩んでいました。

この晩、村の人々と交流会をしました。現在、川内村の放射線量は健康に影響が出るレベルではないといいます。ただし、原発から至近距離にあるという事実や風評被害があり、また郡山という大都市の生活に慣れてしまったからか、避難している住民の帰還は予想を下回っています。すでにこの村では過疎が大きな問題になっています。ただし、川内村にとって、単に住民の帰村が復興といえるのかは疑問です。

最終日には僕らが考えた村の復興策について村役場の人たちにプレゼンテーションをしました。村を大学の合宿地にする、SNSなどネット・メディアをもっと活用して村をアピールするなど大学生ならではのアイデアを披露できたと思います。原発事故はまだ収束していません。これからも、村と原発の関係なども含め、さまざまな角度から「復興」について考えていく必要がありそうです。

(文・情報コミュニケーション学部3年 矢野翔悟)