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大学史の散歩道 / 明治ですから!
杉村虎一に宛てたボワソナードの手紙
明治大学史資料センター委員 村上 一博(法学部教授)
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 本学中央図書館に、ボワソナードから杉村虎一(すぎむら・こいち)に宛てた61通の手紙が所蔵されている。手紙の差出人であるボワソナードは、明治政府の御雇い法律顧問として著名な人物だが、受取人の杉村については、少し説明が必要かもしれない。

 杉村虎一は、安政4(1857)年に金沢で生まれた。兄の寛正は、民権結社の「忠告社」を組織した民権運動家として、また弟の文一は、大久保利通暗殺事件に加担して斬刑に処されたことで知られている。虎一は、東京外国語学校を経て、明治8年9月、司法省法学校の欠員募集に応じた。本学創立者の3人とは、磯部四郎を交えて、「明法寮の五人組」と呼ばれたほど親しかったようである。同校卒業後は司法省に出仕、その傍らで明治法律学校の教壇にたった(明治14年12月から)。明治17年に外交官に転じ、フランス・ロシア・オーストリア公使館の書記官や、メキシコ・スウェーデン特命全権公使、ドイツ駐箚特命全権大使などを歴任したが、その間にも、明治大学の理事や名誉顧問・商議員などの役職を務めた(昭和13年2月10日死去)。杉村は、ボワソナードの教え子の一人であるとともに、創立期から本学の教育と経営に深くかかわった人物なのである。

 さて、本題に戻ろう。

 手紙の発信地の大半(49通)は、帰仏後にボワソナードが隠棲した南仏コートダジュールの小都市アンチーヴであり、受信地は、杉村の赴任地を反映して、ペテルブルグ(25通)・ウイーン(17通)・ベルン(6通)・東京(3通)・リマ(2通)など様々である。

 手紙が書かれた日付は明治26年3月から明治39年7月まで、およそ、日清戦争の終結から、日本とロシアの対立が次第に激化して日露戦争が勃発、日本の勝利に至る時期にあたる。明治30年末の手紙で日露戦争を予見していたボワソナードは、その後も、日本における「好戦的感情」の台頭を憂慮し続けていたが、伊藤博文の日露協定交渉が失敗し、日英同盟協約が締結されると、戦争回避への願いをいっそう強くする。明治37年の日露戦争勃発に強い衝撃を受け、日本の勝利に終わったときには、これを祝福しつつ、ポーツマス条約で日本が賠償金を獲得できなかったことに触れて、「日本政府が、人間と金銭の新たな犠牲に直面して、後込みした」と言えなくもないが、「人道と英知」の賜物だと高く評価している。

 手紙には、プライベートな記述も多い。ボワソナードは、帰仏した明治28年の末に、娘ルイーズとともに、パリからアンチーヴに移り住み、翌年の夏から秋にかけて、岬地区に新築なったベルヴュ別荘(Villa Bellevue)に入居、大理石の階段手摺りやベランダの取り付けなどに精を出している。転居後の健康状態は良好で、持病である喘息の発作も治まっていたが、明治37年(79歳)、重いインフルエンザから肺炎を併発、この頃から喘息が再発するようになり、安眠できない苦しみを訴えることが多くなる。明治39年7月23日付けの最後の手紙(封筒・便箋ともに黒枠付き)は、5月2日に夫人がパリで死去した旨を、杉村に伝えたものである。

 ボワソナード自身がもっとも親愛の情を抱いた日本人だと言う、その杉村に送った61通の手紙には、ボワソナードの率直な心情が吐露されており、アンチーヴでの晩年の暮らし振りや日本への思いを知ることができる貴重な史料となっている。近々、拙訳を予定している (Meiji Law Journal vol. 8・9, 2001-2002 参照)。



 



▲ 晩年のボワソナード
(1825-1910年)





▲ 最初の手紙





▲ 杉村虎一
(1857-1938年)




M-style No.044(2011年7月10日発行)『大学史の散歩道』より



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