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明治大学校歌

明大校歌誕生の周辺 〔中村 雄二郎〕

明大校歌原符と、後年、記念館で指揮をとる山田耕筰

校歌「白雲なびく駿河台」(作詞児玉花外・作曲山田耕筰)は、数ある校歌のなかでも屈指の、大学校歌らしい歌として知られ、明大関係者はもちろんのこと、世の中の多くの人々に親しまれている。こうなるともう、国民の貴重な共有財産である。それに、歌詞にも曲にもロマンがあって、いかにも明治大学にふさわしい。
だから、スムーズに、らくに生まれたと思われがちであるが、実は誕生までに今ではちょっと想像もつかないような 紆余曲折があった。断片的な伝聞としては古くからいろいろなことが知られていたが、その全貌が明らかになったのは、『明治大学百年史・第三巻』「通史編I」の編集・執筆の過程であった。(この簡所の担当は歴史編纂事務室の波辺俊子氏。)ここでは、その過程で掘り起こされた多くの興味深い事実のなかから、いくつかをかい摘まんでお伝えすることにしよう。

最初に校歌募集が行われたのは、今から80数年以前の明治40(1907)年のことである。4年後にせまる創立30周年 を前にして愛校心が高まってきた最中であった。しかし、応募作品が量質ともに思うにまかせず、結局のところ選考関 係者の田能村梅士(校友、読売新聞記者)と当時学生だった藤沢衛彦(後に文学部教授、民俗学者)の手によって作ら れた。これが最初の校歌「とよさか昇る…」である。しかしこの歌は、学内外の評価が芳しくなく、間もなくあまり歌 わなくなってしまった。一時校歌の代わりに、イェール大学の軽快なカレッジ・ソング「楡の木の下」の替歌「進みて 止まさる 我日の本の…」が歌われたこともあった。

学生たちが進んで歌うに足る校歌がまだないときに、その代わりに歌われたもう一つは、大正初年に〈自由〉〈平 等〉をスローガンにした学生グループ「青年白熱党」がつくった「白熱党歌」である。「ニコライの鐘塵に染み 茗渓 俗に濁るとも…」で始まるこの歌の作詞には、佐々木味津三(後の『右門捕物帳』の作者)も加わっている。その後 も、大学の手で再度校歌の募集が行われたものの、誰もが満足できる作品が得られなかった。

そういうなかで、学生の主導下に校歌の本格的な作成が始められたの は、大正9年のことであり、そのきっかけになったのは、当時の花形スポ ーツ〈隅田川端艇レース〉の対抗試合に応援歌が必要だったことであっ た。ここに盛り上がった学生たちの声は春の予科の大会で「校歌制定」の 決議となってあらわれた。実際に校歌の作成に尽力したのは、当時学生だ った武田孟(後の総長)、牛尾哲造、越智七五三吉の3人である。武田たちは木下校長と談判して大学側の全面的バックアップを取り付け、教授だった笹川臨風の紹介で、熱血詩人として活躍していた児玉花外を訪ねて作 詞を依頼し、快諾の返事を得た。

それから4ヶ月後に会心の作をもらった武田たちは、鳩首凝義の上牛尾 の意見で、作曲を、国際的にも活躍する作曲界のホープ山田耕筰に頼むこ とにした。山田は、多忙な仕事のなかにも牛尾の熱意にほだされて引き受 けたものの、原詩のままでは自分の曲が乗らないことに気がつき、苦慮し た。そこで、花外の了解を得て練達の詩人西条八十に加筆を依頼した。と ころが、出来上がってきた歌詞にも山田は満足がいかなかった。その結果、さらに、大家の三木露風に相談して歌詞に手を入れ、ここにようやく 定稿が得られたのである。

(花外の原詩では、三番が「白雲湧ける駿河台…」からはじまっていた。 それを山田が一番の頭にもってきた上で、「白雲なびく駿河台…」に変え たものである。)

この容易に妥協しない山田の仕事ぶりはさすがであるが、その上に感動的なのは、山田が応援団の校歌の練習にまで乗り出し、みずから指揮棒を とって歌唱指導まで行ったことである。このように、多くの人の熱意と苦心によって、はじめて今日の校歌は誕生した。この校歌が最初に社会的に公表されたのは、大正9(1920)年11月にハーモニカの第一人者川口章吾を迎えて青年会館で開かれた「明大ハーモニカ・ソサエティ」結成演奏会のときであった。熱狂的なアンコールの声に応えて10回以上も演奏された、という。

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