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校友会東京都南部支部「明治大学発祥の地・記念碑祭」開催

「草創期明治法律学校の経営状況」をテーマに村上教授が記念講演 母校のますますの発展を祈念して、フレー!フレー!メイジー!

校友会東京都南部支部(米山耕右支部長)は1月12日、明治大学発祥の地である東京都千代田区有楽町で「明治大学発祥の地・記念碑祭」を開催。日髙憲三理事長、福宮賢一学長をはじめ大学役員・役職者および校友ら約80人が参列した。

これは、明治大学開学の起源に触れて、母校のますますの発展を祈念する行事として、明大発祥の地の記念碑がある校友会東京都南部支部が主催し、創立記念日である1月17日の前後で催されているもの。

今回は式典に先立ち、法学部の村上一博教授が「草創期明治法律学校の経営状況」と題して特別講演を行った。村上教授は、明大の1881年(明治14年)の創設時から約6年間の草創期は、岸本辰雄先生、宮城浩蔵先生、矢代操先生の創立者3人を中心にした、個人的な借金によって経営資金が賄われていたと、資料を基に説明。当時の14件の「貸金催促」訴訟(1つを除きすべて敗訴)から、創立者らが巨額の借金に追われ、苦労していたことが分かると解説した。また、当時の決算報告などから、経営が安定したのは、1887年(明治20年)9月で、講法会が設立され(校外生制度の導入)、岸本先生の発案によって、通信教育の教材として講義録が販売されるようになってからということが読み解けるなどと講義した。
続く懇親会の冒頭あいさつに立った日髙理事長は、「今後20年で人口は8000万人に減少し、私立大学は半分になるという厳しい予測もある」とした上で、「困難な時代でも質を高め、経営を柔軟に、借金をせずに明大をさらに発展させる」と決意を漲らせた。

引き続いてあいさつした福宮学長は、「大学を強くする秘策はない。地道な努力を続けるだけ」と述べ、校友らのさらなる支援に期待を寄せた。

乾杯の音頭をとった向殿政男校友会長は「発祥の地で、母校創立を祝う会が持ち続けられることは本当にありがたい。原点に返るということは大切なことだ」とした上で、「大学の発展を支えているのは、間違いなく校友、皆さんの活躍です」と語り、ますますの支援と活躍を祈念してグラスを掲げた。

和やかな歓談の合間には、10月5日(土)に大分県の別府ビーコンプラザで開催される第49回明治大学全国校友大会のPRが、大分県支部の矢野博久支部長からあり、「大分、別府らしい校友大会を企画している。奥様孝行も兼ねて参加して欲しい」と呼びかけるとともに、「湯~わく、味わく、明治わく!」の名キャッチコピーが踊るチラシを配布した。

会は参加者らによる記念撮影が行われた後、世界の明治大学となる母校の姿に想いを馳せつつ、東京都南部支部の木村克一幹事のリードによる、スクラムを組んでの校歌斉唱の後、お開きとなった。

明治大学発祥の地・記念碑









同記念碑は、1995年11月2日、建学の精神を顕彰し教育の近代化の道標を明らかにする趣旨で、明治大学発祥の地(有楽町マリオン前、数寄屋橋交差点のニュートーキョービル前にある公園、千代田区有楽町2-2)に建立して、千代田区に寄付したもの。

現在は、千代田区の観光名所として、同区観光協会ホームページでも紹介されている。

明治法律学校、のちの明治大学は岸本辰雄先生、宮城浩蔵先生、矢代操先生によって創立された。岸本先生は鳥取藩、宮城先生は天童藩、矢代先生は鯖江藩といったように3人とも地方、それもかなり江戸から隔てた藩内で、しかも禄高が低い士族の家に、嘉永年間に生まれ育った。やがて、彼らは幕末維新の動乱と変革の中、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として上京した。そして彼らが出会ったところは明法寮(のちに司法省法学校)であった。同校は司法省が設立したものであり、司法官僚を速成することが目的であった。この学校で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、それぞれの道を歩んだ。

岸本先生はフランスに留学し、帰国後は判事に、また宮城先生も同国に留学し、帰国後は検事になった。矢代先生は元老院に就職し、その傍ら法律私塾の講法学社(北畠道竜設立)等の経営と教育に当たった。

司法省法学校在学以来、きわめて親しい間柄の創立者3人は、本務は異なりながらも、常に最新、かつ本格的な法律教育をすることが脳裏にあった。

一方、講法学社の設置者の経営姿勢に不満をもっていた学生らは退学し、その内、10数人は神田小川町の長屋で自主学習をしていた。彼らはやがて、以前、同社で講師をしていた岸本先生、宮城先生に新しい法律学校の開校を願った。岸本先生らは友人であり、講法学社において学生に慕われていた矢代先生を誘い、東京府に私立法律学校設置願いを提出した。そして、ついに1881(明治14)年1月17日、麹町区の数寄屋橋の一角(現在の有楽町・数寄屋橋交差点近く)・島原藩邸跡に法学校を開校した。時あたかも自由民権の風潮の真っ只中、明治法律学校は「権利自由」を校訓とし、フランス法を中心として教育に当たっていった。

明治大学ホームページ→「大学案内」→「明治大学の成り立ちと創立者たち」より抜粋。

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