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論壇「不可視の大学」

文学部長 合田 正人

パリがざわついているようだ。どの記事を見ても、Mai 68〔1968年5月革命〕のことが記されている。パリ第10大学での学生たちの運動が発端であった(中村雄二郎著『言語・理性・狂気』晶文社を参照)。因みに、現フランス大統領マクロンは同大学哲学科の卒業生で、後に同大学名誉教授で哲学者のポール・リクールの執筆を補佐することになる。5月革命を経たフランスの国民教育相エドガー・フォールは「積極的参加」「自治」「学際性」を理念とする実験的大学の新設を推進した。かくしてヴァンセンヌの森に生まれたのがパリ第8大学である。フォールは66年、教育調査の目的で訪日し、日本の教育について、“選抜が過度に重視されている”“「合意と協力」ではなく「権力と威圧」に拠っている”“大学を頂点とするピラミッド構造が顕著である”と指摘し、国際化の必要性を訴えた。パリ第8大学の実験は日本視察と無縁ではなかったかもしれないのだ。同大学の哲学科にはドゥルーズ、リオタール、バデュら錚々たる顔ぶれが集まった。精神分析、映画、造形芸術に関する新たな学科が作られ、教師の身分的序列が廃止され、教師と学生との対話集会が義務づけられた。黒人、アラブ人留学生、大学入学資格を持たない者にも門戸が開かれ、単位取得の方法も刷新された。ところが、この実験は失敗の烙印を押され、1980年にはパリ市長シラクによって校舎は破壊されてしまう。跡形もなく。教育学で「アンラーニング(unlearning)」と言うように、大学は「アンドゥーイング(undoing)」された。

しかし、それは単に否定的な意味での破壊ではなかった。パリ初代司教サンドゥニが斬首された後、自分の首を持って歩き遂に力尽きた場所、そこに建立されたのがサンドゥニ大聖堂(バジリカ)である。フランスの国王たちが葬られている。そしてこの町が、パリから追放されたパリ第8大学を引き受けたのだ。設備は全く整っていない。講義はしばしば粗末なプレハブ小屋でなされた。犬を連れてくる学生もいた。実際、シェパード犬と一緒に講義を聴いたことがある。教師は軍事クーデターでパリに亡命した人物で無一物。そんな大学に、例えばドゥルーズの講義を聴くために世界中から学生が集まっていたのだ。小教室は満員。先生が入れないほどだった。

その後、大学は次第に「正常化」されたようだ。サンドゥニの町も生まれ変わった。そこには移民用の集合住宅が林立し、1998年にはFIFAワールドカップのためにスタジアムが建設された。数十年かけて、2015年11月の出来事が醸成されていったのだろう。

20年後、いや10年後でもいい、わが国の大学をめぐる状況はどのようなものになっているのか。当事者でありながら想像できない。偶像(イドル)の禁止。けれども、不可視の教会ならぬ不可視の大学の野戦は津々浦々で疾うに始まっている。
(文学部教授)