R001
「別マまんがスクール」の成立と変遷

「別マまんがスクール」のはじまり

本展の表題にある「別マまんがスクール」は、1966年9月号から開始された「別冊マーガレット少女まんがスクール」の略称で、現在はその略称が正式名称になっている。初期は隔月で賞の発表が行われていた。それまでも石森章太郎の『少年のためのマンガ家入門』(65年)のような、まんが家が描いた入門書の傑作は存在し、雑誌にも、4コマまんがやキャラクターの模写など、投稿を募ってまんが指南をするという読者サービス的なページや、年に一度投稿作を評価する賞はあったが、自誌を担うまんが家を継続的に養成することに本気で取り組むようなコーナーは稀有だった。結果的に「別マまんがスクール」は、自社の作家だけでなく、いろいろな場所で活躍する大勢の少女まんが家を世に出している。まんが家を養成するシステムを成立させ、まんが界全体に貢献したのである。

展示品
第1回「別冊マーガレット 少女まんがスクール」掲載号
『別冊マーガレット』1966年9月号

R002
「別マまんがスクール」の成立と変遷

スクール開始までの足取り

第1回のスクールに先だって、『週刊マーガレット』の売れっ子作家であった女性まんが家・わたなべまさこによって描かれた指南まんが「まんが家早道法」掲載号。
わたなべは1967年いっぱい「別マまんがスクール」の指導者として名前を出している。

展示品
わたなべまさこ「まんが家早道法」掲載号
『別冊マーガレット』1966年2月号

R003
「別マまんがスクール」の成立と変遷

「別マまんがスクール」の刷新

「別マまんがスクール」は、開始から3回目で投稿が100を超えた。「ぜんぶ読み切り!」が方針だった当時の別マには、いくら新しい作品があっても足りず、スクール開始から3年目、展示の70年3月号から、受賞者発表が毎月になり、項目ごとの採点制度を導入している。この前後に、佳作以上の投稿者への批評用紙返却が正式になされるようになり、また、切り抜いて原稿用紙に貼る定型の応募券制が導入され、賞金も上がるなど、制度の刷新とシステム化が進んだ。この頃までには他の少女まんが誌でもスクール制度が開始されており、各誌影響しあいつつ新人まんが家の育成が盛り上がっていった。

展示品
第22回 スクール刷新号
『別冊マーガレット』1970年3月号

R004
「別マまんがスクール」の成立と変遷

「鈴木光明、選者になる」

鈴木光明がスクール投稿作の正式な選者になったのは、当時のスクールへの投稿者宛の鈴木の手紙などによって、1971年1月号からであったことがほぼ確定している。鈴木が入る前までに毎月発表、点数制の導入、批評用紙の返信など基本的なシステムは固まっていた。70年代前半の刷新で、投稿原稿の返却にも応じるようになり、70年代後半の誌面には「原稿返却、批評は、かなり時間がかかります」といったおことわりが度々入るようになっている。まんが制作に対してより専門的なアドバイスができ、丁寧にかつ誠実に指導することをいとわない人材が必要となり、それに応える人材として選ばれたのが鈴木光明だった。

展示品
鈴木光明が選者になった号
『別冊マーガレット』1971年1月号

R005
「別マまんがスクール」の成立と変遷

「選者・鈴木光明、主任審査委員・鈴木光明」

この1972年2月号座談会で、選者としての鈴木の名が初めて誌面に載る。座談会の出席者は鈴木の他に、スクール出身のまんが家・美内すずえ、河あきら、田中雅子、鈴木の愛弟子ですでにプロとして活動していた山田ミネコ、やはり愛弟子で別マからデビューし頭角を現し始めていた和田慎二、別マ編集部からは小長井編集長を含む3名であった。
まだ名前は載っていなかったとはいえ、71年に鈴木が参加して以降のスクール誌面は、レイアウトやあおりが身近な感じになる一方、批評の言葉は厳しく、また、描き手への目線がより具体的になり、選外クラスの投稿者への細やかな目くばりが見られる。73年4月号より、鈴木光明の名はスクールの主任審査委員として誌面に必ず入るようになる。

展示品
「まんがスクール座談会」掲載号
『別冊マーガレット』1972年2月号

R006
「別マまんがスクール」の成立と変遷

1973年8月号では、スクール第50回を記念して、2大新企画が行われる。ひとつは若い投稿者向けの「特別クラス」を設けること、もうひとつは「地方出張指導」である。
「特別クラス」は、小学生・中学生対象のものと、高校生対象の2クラス。当時は長く続かなかったようだが、現在の「別マまんがスクール」にある「Jr.ベスト賞」(中学生対象)の前身といえる。また、出張指導は「まんがスクール大会」という名で今も続いている。
賞金額もアップし、金賞が5万円となった。
ちなみに金賞賞金額は、第1回・2000円(66年9月号)、第5回・5000円(67年5月号)、第15回・1万円(69年1月号)、第24回・2万円(70年5月号)、第35回・3万円(71年4月号)、第50回・5万円(73年8月号)、第79回・10万円(75年1月号)と推移し、70年代後半には副賞などがつくようになる。79年には金賞が30万円になり、2014年9月現在は100万円である。
☆壁下段パネル参照

展示品
「第50回」記念号
『別冊マーガレット』1972年8月号

R007
「別マまんがスクール」の成立と変遷

「日本一150万部突破!」の文字が表紙に踊る。表紙に名前が印刷されているまんが家、市川ジュン、河あきら、美内すずえ、和田慎二、田中雅子らはみな「別マまんがスクール」出身で、同誌生え抜きの作家陣である。この事実は、当時の『別冊マーガレット』の成功が、新人育成の成果によることを示しているといえよう。

展示品
150万部突破記念号
『別冊マーガレット』1973年9月号

R008
「別マまんがスクール」の成立と変遷

別マまんがスクールは、1976年10月号で、ついに100回を迎えた。100回記念として特別対談企画などを掲載。目を引くのは、数号前のお祝いムードからはじまった「8点スタンプ制」だ。選外A・B・Cクラスに、投稿のたびにポイントを与え、8点たまったらスクリーントーンや枠入り原稿用紙(プロの使用するもの)などをプレゼントするのである。この頃の作品の評価は「金賞・銀賞・佳作・ハッスル賞・努力賞・期待賞・A・B・Cクラス」の順。すべての投稿作品がこのランクのいずれかに評価され、その月の一番よい作品にベスト賞、初投稿で佳作以上に入賞すると新人賞が加わる、という形に整理される。この頃までには、さまざまな試みを繰り返し、スクールとしての形が整った。翌1977年末、鈴木光明は「別マまんがスクール」の主任審査員の座を下りたようである。

展示品
「第100回」記念号
『別冊マーガレット』1976年10月号

R009
「別マまんがスクール」とは

1966年9月号から始まった「別マまんがスクール」は、本格的に読者をプロのマンガ家へと育てようとする先駆的試みだった。それに先立ち、2月号ではわたなべまさこの指導による「まんが家早道法」の掲載、7月号では読者の質問に答えるという形でまんが作品を投稿するように促すなど、準備期間があったことがうかがえる。
「まんがスクール」が始まって1年もたたないうちに、忠津陽子、美内すずえが相次いで金賞を受賞。68年4月号の「新人と卵」特集のページには、忠津、美内の他、すでに高橋京子、こやのかずこ、井上洋子の名前も見える。
いずれも年若い作家たちであり、この時期に少女まんがの描き手は、男性から若い女性作家に、一気に置き換わっていった。
71年からは鈴木光明の指導も加わり、「別マまんがスクール」はまさに「最高の権威と実績」というにふさわしい新人育成システムとなっていったのである。

R010
「別マまんがスクール」出身まんが家
忠津陽子

「コーラ」で1967年7月号(第6回)金賞を受賞。翌月、「夏の日のコーラ」と改題して掲載され、デビュー。「別マまんがスクール」で受賞即デビューとなった最初の例である。その後も11月号で第2作、68年1月号で第3作、2月号で第4作…以後毎月順調に作品を発表。その才能をかわれて『週刊マーガレット』でも連載し、「美人はいかが?」「お金ためます!」等のヒットを飛ばす一方、『別冊マーガレット』でも楽しい読切作品を多数発表している。

R011
「別マまんがスクール」出身まんが家
美内すずえ

第6回の忠津陽子に続き、第7回別マまんがスクール(1967年9月号)で「山の月と子だぬきと」で金賞を受賞。これが翌月別マに掲載され、デビュー。
第2作は1968年5月号。以後、ほぼ毎月読切を発表し、68年11月号に、のちの『ガラスの仮面』の原型となる「ナオは光の中で」を掲載。70年5~6月号に「赤い女神」、同年9~11月号に「燃える虹」を発表し、余人の追随を許さない骨太なストーリー展開で別マを牽引していった。
当時「すべて読切」がうたい文句だった別マの中で、『はるかなる風と光』(73年開始)は、1本だけ例外とされた連載作品である。

R012
「別マまんがスクール」出身まんが家
川崎ひろこ

中学生の頃から別マに投稿。69年から選外優秀者として何度か名前が掲載され、24回・30回・34回に佳作入選。
第48回別マまんがスクール(72年6月号)で、「ひとりぼっちのアヒル」が銀賞を受賞。この作品が別マ72年7月号に、"今月号の新人まんが"として掲載され、デビュー。
その後、「さよなら、ベイビー」が第59回金賞を受賞。〝第2回特別指導作品"として73年5月号に、詳しい評ととともに掲載された。のちレディス誌に移って描かれた代表作「衣ものがたり」をはじめ、着物を題材にした和の物語に定評がある。

R013
「別マまんがスクール」出身まんが家
槇村さとる

72年3月号に選外優秀者として名前が載った1年後、「白い追憶」が第57回別マまんがスクール(73年3月号)で銀賞を受賞。"第1回特別指導作品"として73年5月号に、詳しい評ととともに掲載され、デビュー。
その後、「光太郎ちゃん愛してる!」が第73回金賞を受賞(74年7月号)、デビューコーナーに作品掲載。それから、「愛のアランフェス」「ダンシング・ゼネレーション」「N★Yバード」「白のファルーカ」などの連載で、別マの看板作家としての活躍が始まる。
☆11月28日(金)より初期作品の全原画を展示予定

R014
「別マまんがスクール」出身まんが家
魔夜峰央

第62回(73年8月号)で佳作受賞。翌63回の佳作に入った「見知らぬ訪問者」が、『デラックスマーガレット』73年秋の号に掲載され、デビュー。 その後も投稿を続け、第67回「タロット」、第69回「魔界」で銀賞を受賞。ケースに展示されている「魔界」は、プロのマンガ家に混じって、投稿者に送るお手本の複製原画に選ばれたことが、第71回の佳作受賞作「ヴァンコラン」(74年5月号)の選評に書かれている。
数年後「パタリロ!」(78年)で大ヒットまんが家になることは皆の知るところであろう。

R015
「別マまんがスクール」出身まんが家
三原順

「はみだしっ子」で読む者に深い感銘与えた三原順は、第38・43・47・51回佳作入賞。「はろぉ・あいらぶ・ゆう」で第49回銀賞受賞。第56回、「ぼくらのお見合い」で金賞をとってデビュー(73年3月号に掲載)。それまでの評では、「とにかくストーリーがわかりにくく、ひとりよがりである」という注意が多く、徹底してわかりやすくしたことで金賞受賞・デビューとなった。
白泉社文庫『三原順傑作選'70s』の和田慎二による解説にこういう一節がある。「…だが彼女の投稿作を目にする機会に恵まれた常連投稿者にとっては、いやおうなしに意識せざるを得ない作家であった。この時期にファンと敵(ライバル)を作っていったことを彼女自身は知るまい」。 1995年、42歳で病没。

R016
この人も「別マまんがスクール」

別マまんがスクールの出身者はここでは紹介しきれない。河あきら、沖倉利津子、亜月裕、大谷博子など別マを担った作家たちなど、ケースの中になるべく大勢の作家名がみえるよう並べるのが精一杯である。本ケース左側面にも注目してほしい。そこに並ぶ作家はみな投稿者であった。萩尾望都のように金賞受賞者ではあったがデビューは他の雑誌であるものもいれば、木原敏江のようにデビュー後同誌に作品を発表しつつも、活動場所を移動していった作家もいる。例として萩尾望都(第11回1968年5月号)と、木原としえ(第15回1969年1月号)の金賞受賞の選評ページを開いて展示した。

R017
「三日月会」

鈴木光明と「三日月会」

「三日月会」は鈴木光明門下生の会である。初めのころは毎月3日が集会日だったためこの会名がついた。後に売れっ子まんが家となる山田ミネコらがメンバーであった「アトリエ赤と黒」および、やはり売れっ子まんが家となるいまいかおる、和田慎二らがメンバーであった「J3」があわさって始まったようだ。1971年に鈴木が「別マまんがスクール」の選者となってからは、関東近隣の投稿者に参加を呼びかけ、横浜の大桟橋で集会を開き直接指導をした。鈴木は同じまんが家を目指す者同士の交流の場があることの大切さもよく口にしていた。1974~75年に三日月会が主宰して開いた「まんがフェスティバル」の流れから開校した、「鈴木光明の少女漫画教室」に移行する形で会は解消されるに至ったようである。

【展示品】
・奥イラストボード:1973年の「三日月会グループ展」で展示された、当時高校生だったくらもちふさこのイラスト(展示以外では未発表)
・クリスマスカード:1973年「三日月会クリスマス会」でプレゼント交換用に作成された、市川ジュンのカード
・手前と右壁は1974年と75年に開催された「まんがフェスティバル」の申込用紙と当日配布されたパンフレット。フェスティバルには錚々たるゲスト少女まんが家も参加していた
・『三日月怪』:1975年の「まんがフェスティバル」の際、限定販売された青焼きのコピー誌。もくじをみると当時のメンバーがわかる

R018
「三日月会」出身まんが家
山田ミネコ

1969年末ごろ、ヒロ書房貸本まんが誌『学園カレンダー』に「春の歌」でデビュー。横浜在住で鈴木光明と家が近かったため、『若草』の主宰グループ「新児童少女漫画界」の選抜チームで作るストーリーマンガの肉筆回覧誌に批評をもらいにいったのが、鈴木との出会いだったという。その後自作を描き上げるたび鈴木のもとに通い、その成果が、卒業制作ともなったデビュー作「春の歌」。別のサークルから、自分と同じように鈴木のもとに通ったメンバーが和田慎二といまいかおる(代表作「ふーちゃん」は、別マで10年以上続いたほのぼのまんが)である。山田は「この3人がデビューし成功したことが鈴木を後進指導に向かわせたのではないか」とも述べる。「三日月会」の最古参の一人。ライフワークの「最終戦争シリーズ」を作風を変えず息長く描き続けており根強いファンが多い。

R019
「三日月会」出身まんが家
和田慎二

「洋子の海」で第39回(71年8月号)金賞受賞。翌9月号、受賞第1作「パパ!」でデビュー。
鈴木光明が主宰していた三日月会の常連で、「洋子の海」が金賞を受賞した時の評「非常に有望で期待がもてます。これからは、ストーリーを、よりスケールの大きいものに発展させていくように」というアドバイス通り、その後、「銀色の髪の亜里沙」「超少女明日香」シリーズなど、美内すずえと並ぶ骨太のストーリーで別マを牽引していく。『花とゆめ』での代表作「スケバン刑事」もこの流れにある。
もう一つのストーリーラインである「パパとケーコ」シリーズにもファンが多かった。

R020
「三日月会」出身まんが家
くらもちふさこ

高校生の時から「別マまんがスクール」へ投稿しており、中学生でやはり投稿していた妹・倉持知子(代表作『ぶ~け』掲載「青になれ!」)とともに鈴木光明から「三日月会」に誘われ参加するようになる。1972年49回・51回別マまんがスクールで佳作受賞(投稿時のPNは倉持房子)。52回、「メガネちゃんのひとりごと」で銀賞受賞、"今月号の新人まんが"として掲載されデビュー。80年代からの別マを背負ってたつ看板作家になった。鈴木光明はくらもちの作品に対し、丁寧な感想の手紙を何度も送っており、自身のイラストも贈っている。
☆10月3日(金)-10月27日(月)
 鈴木光明原画を本ケース内展示
 10月31日(金)以降「メガネちゃんのひとりごと」扉をケース内展示

R021
「三日月会」出身まんが家
市川ジュン・柴田昌弘

市川ジュン
投稿作をみた鈴木に誘われ、初期のころから「三日月会」のメンバーになった。
1970年から投稿をはじめ、佳作を二回、銀賞を二回受賞したのち、第46回「白い花の涙」(1972年4月号)で金賞受賞、翌月掲載されデビュー作となる。当時から「南風のなかで」など教師を主人公にした社会性のある作品を描いていた。レディス誌に場所を移したのちは「陽の末裔」など女性の視点で歴史を描いた作品に定評がある。

柴田昌弘
第59回(1973年5月号)で佳作を受賞し、三日月会に誘われ参加するようになった。翌6月号で、第60回(1973年6月号)銀賞を受賞。受賞作の「白薔薇の散る海」が第3回特別指導作品として同号に掲載され、デビュー作となる。「狼少女ラン」のシリーズなど、当時の少女誌には珍しい硬質なアクションやサスペンスストーリーを展開し、人気を呼ぶ。『花とゆめ』を経て、青年誌にも活躍の場を増やしていった。

R022
この人も「三日月会」

このケースには、紹介しきれなかった「三日月会」メンバーの作品を集めた。ジャンルも活動場所も様々なメンバーが鈴木の指導をうけていたことがわかる。名香智子、長岡良子ほか殆どのメンバーが別マ投稿者でもあった。スクール講評の誌面を展示した原ちえこや、あさぎり夕も別マ投稿者から、のちに『なかよし』のスターになる作家たちである。原は別マに4回投稿しそのうち3回は銀賞受賞。デビューは1972年、別マの同一編集部が出していた季刊誌『デラックスマーガレット』掲載「シークレットドア101号」である。あさぎり夕は別マに、中学時代から5年間で22作も投稿しながらも、デビューは1976年『なかよし』であった。この経験の甲斐あってか、デビュー時から完成度の高さで読者を驚かせた。他、ケース内の多士済々な顔ぶれもご覧いただきたい。

R023
鈴木光明の漫画教室

「鈴木光明の少女漫画教室」は、鈴木光明が直接指導を行った教室である。1976年に第1回を横浜で、第2回以降は青山の「花の館」ビルで開催された。90年代には「まんがスクール」と教室名を少し変えている。いろいろなコースがあったが、土日の1日を3カ月で全12回、それぞれ40人2クラスを1日3回まわすのが基本だったようである。常連講師として参加していたメンバーに、市川ジュン、木原敏江、柴田昌弘、萩尾望都、魔夜峰央、美内すずえ、安彦良和、山田ミネコなどがおり、鈴木の人脈による講師の豪華さが目を引く。生徒たちはどんなに厳しい指導でも、「講師の先生のようになれるのならば」と思えたようである。
今回原画を展示している酒井美羽はこの鈴木の教室の第1回に参加し、第3回には講師とした来ていたという。展示の原画は白泉社1977年アテナ大賞第2席受賞作「ロリオン」。この受賞をきっかけに、酒井は1978年『花とゆめ』9号掲載の「2年の春」でデビューした。
教室は、1993年ごろ鈴木が体調を崩してしばらく休んだが、95・6年に再開し2000年ごろまで続いていたようである。その後の病気療養中も、北鎌倉の自宅で少数の生徒の指導を亡くなる少し前まで続けていたという。
教室の出身生徒には、明石路代、野間美由紀、唐沢千晶などがいる。ケースに展示している単行本は教室出身の生徒の作品。

R024
鈴木光明の少女まんが入門書

誌面でのまんがスクール、三日月会や教室での直接指導の他に、鈴木光明は、別マに引き続いて新人の指導にあたった白泉社で、3冊の少女まんが入門書と、大判の描き込み式の実践ドリルを出版している。
『少女まんが入門』(1979)、『少女まんがの描き方専科』(1982)、『続少女まんが入門』(1984)の3冊は、いずれも、たんなる入門書ではなく、「本気でプロになりたい人たちのために『プロの常識』を教える」という立場で貫かれていた。
吹き出しの中のネームの量を測るためのしおりが付録についていることに象徴される通り、内容は非常に実践的で、「この本に出会わなかったら、まんが家にはならなかった」「なれても5年は遅れただろう」という女性作家は驚くほど多い。本の中で作例として紹介されている少女まんが家たちの豪華な顔ぶれをみても、鈴木がいかに作家たちから信頼されていたかがわかる。
もう1冊、奥に展示した大判の『少女まんが家入門 特訓ドリル』(1986)は、鈴木の実践を形にしたものだと言える。とくに、ケース左壁に展示している付録「特訓べんりスケール」「スクリーントーン・イメージボード」はそれを象徴するものである。

R025
「別マまんがスクール」以外の新人育成

『若草』

『若草』は、1961年7月に刊行されはじめた、新人少女まんが家を養成するための機関誌であった。発行は「新児童少女漫画界」。草野ヒカル、美鈴紅二の二人が主宰し、新人指導をしていた。二人が、当時隆盛を極めた貸本少女まんが出版社・若木書房の作家であったことから、『若草』は高階良子、角田マキコ、大岡まちこなど、若木書房を支える多くの少女まんが家を輩出した。時代が貸本から大手出版社の出す雑誌へと移るにしたがって、『少女フレンド』『りぼん』などにも『若草』から作家を紹介したが、雑誌でのスクール制度の流行とともに1971年、その役割を終えた。全部で72号刊行されている。雑誌での新人指導がはじまる前に、通信教育制でまんが指導を行っており、少女まんが家の新人育成システムを考える上でとても重要な存在である。
【展示品】
奥右: 『若草』第72号:裏表紙・山田ミネコ
奥中:『若草』第71号:表紙・池内つゆ子、曽根まさこ
奥左: 『若草』第65号:表紙・すずき真弓
中央右:『若草』第62号:表紙・灘しげみ
中央中:『若草』第66号:表紙・菅沼美子
中央左:『若草』第69号:表紙・小室しげ子
前:『若草』第68号:カットコンクールページ
右壁内側:『若草』第67号: 「マンガの描き方(ヒト編)」掲載ページ
右壁外側:『若草』第61号:表紙・角田マキコ、桜井ヒロミ合作
左壁内側:『若草』第60号:マンガ珍かぞえうた掲載ページ
左壁外側:『若草』第70号:表紙・城みどり

R026
「別マまんがスクール」以外の新人育成

『漫画少年』と『COM』

1947年創刊の『漫画少年』には読者の投稿欄があり、優秀な作品は誌上で紹介され、毎月優秀な投稿者の名前が発表された。投稿は4コマ程度の短いもの中心だったが、手塚治虫が「漫画教室」の連載(52年4月号~54年10月号)の中で読者の作品を取り上げて講評したこともある。また1954年3月号からは寺田ヒロオが「漫画つうしんぼ」として読者の作品の講評を行った。これらはマンガ家を志す当時の少年たちの励みとなり、そこから「トキワ荘」をはじめとする、マンガ家志望者のコミュニティの萌芽とも言えるつながりが形成されていく。
手塚治虫が1967年に創刊した『C0M』では、それを発展させた形として、創刊号から、誌上の読者コミュニティ「ぐら・こん」の中の「まんが予備校」としてストーリーマンガの投稿をつのり、①コマわり、②ペンいれ、③構図のとりかた、④テーマ、⑤ストーリー、⑥キャラクター、と細かい採点を行っていた。これは新人漫画家の養成を積極的に行おうとした試みとしては、一足早くはじまった『別冊マーガレット』同様先駆的なものである。

R027
「別マまんがスクール」以外の新人育成

『少年ジャンプ』

『サンデー』『マガジン』に遅れること10年近く、三大少年週刊誌の中でいちばん後発だった『少年ジャンプ』は、既存の有名作家の名前で売ることができず、「新人漫画家で勝負」せざるを得なかった。巻頭も新人作家の作品で、かくして『少年ジャンプ』は、1968年の創刊号から「新人漫画」を大募集する。編集長の長野規は「新人に期待する」と題してこう述べる。「読者にいちばん近い年令の、若いきみが、全力でかきあげた漫画こそ、読者が待ち望んでいるものです。」
当時ジャンプの編集者だった西村繁男はこれを「少年雑誌では初めて」の『新人漫画賞』であったと回想するが、事実、この時代、新人育成に関しては、『別マ』をはじめとする少女まんが誌の方が先行していた。
とくに鈴木光明が加わってからの『別マまんがスクール』の指導は細かく具体的で、当時別マ編集長だった小長井信昌は、この頃、『週刊少年ジャンプ』副編集長が腰を低くして、別マの添削用プリント(中央ガラスケースに展示)を参考にもらいに来たと明かしている。
今も隆盛を続ける集英社の新人育成システムの基礎はこうして築かれたのである。

参考文献
『さらば、わが青春の『少年ジャンプ』』
西村繁男(飛鳥新社/1994年)

『わたしの少女マンガ史 -別マから花ゆめ、LaLaへ』小長井信昌(西田書店/2011年)

R028
「別マまんがスクール」以外の新人育成

同時代・少女まんが誌の新人賞とスクール

月例のスクールではないが、1964年に行われた「講談社少年少女漫画作品の懸賞募集」で16歳の里中満智子が「ピアの肖像」で入選しデビュー。この頃から、少女まんがの描き手は、年若い新人の女性作家へと置き換わっていく。1967年末には「第1回りぼん新人まんが賞」の発表が行われ、一条ゆかり(藤本典子)・弓月光が准入選、もりたじゅんが佳作を受賞した。
「まんがスクール」の形式もしだいに他誌に広がっていき、『少女コミック』は創刊号(1968年4月号)から「新人まんが家大募集」を行い、『週刊少女フレンド』も、1969年42号から「フレンドまんがスクール」を開始。
『週刊マーガレット』は1967年から年1回の新人まんが賞の発表を始め、1969年5月から実質的な「まんがスクール」である「マーガレットまんが研究生」の募集を開始。「これは、有望な新人の方にプロのまんが家になっていただくための、もっとも手早い、確実な方法です」とあり、同誌の意気込みがうかがわれる。
第1回の発表は69年30号。入賞者である中森清子の作品は、「新人まんがけっさく特集号」と銘打たれた同年夏の臨時増刊に掲載された。この号の表紙が忠津陽子なのも象徴的だ。

R029
まんが家鈴木光明

少年誌での活躍

まんが家としての鈴木光明のデビューは1952年、日昭館書店から描き下ろし単行本として出版された『江戸大変録』だが、1955年に手塚治虫の推薦で月刊少年まんが誌『おもしろブック』(集英社)で「くろがね力士」を発表。以降はまんが雑誌へと活動の主軸を移している。
少年まんがにおける鈴木は『おもしろブック』をはじめ、『幼年ブック』(集英社)、『ぼくら』(講談社)、『冒険王』(秋田書店)、『少年』(光文社)など、おもに月刊少年まんが誌で作品を発表し、学年誌での作品なども含め、50年代から70年代にかけて児童まんがのラインで多彩な活躍をした作家といえる。

R030
まんが家鈴木光明

少女誌での活躍

1955年9月の『りぼん』創刊号に寄稿していた鈴木は、戦後の少女まんが草創期を支えたパイオニアのひとりだったといえる。『りぼん』や『なかよし』で少女向けの作品を実際に執筆していた男性作家である鈴木が、その後公私に渡る新人まんが家の育成にたずさわるなかで多くの女性作家を育て「女性の表現」としての戦後少女まんがの確立に大きな役割を果たしていったことは示唆的であり、興味深い。 R030-031には鈴木の少女まんがの代表作である「もも子探偵長」の原画類を展示した。

R031
まんが家鈴木光明

少女誌での活躍

R032
鈴木光明と手塚治虫

鈴木光明は1952年に単行本でデビューし、本格的にまんが家になろうと決意した矢先に、手塚治虫の紹介で、『おもしろブック』及川均編集長から原稿の依頼があり、雑誌デビューを果たす。
実は、1955年3月号に掲載された雑誌デビュー作と同じ号に付録でついていた手塚治虫の「丹下左善 乾雲坤竜の巻」も、鈴木光明が永島慎二と一緒に代筆していた。困っている手塚の依頼を断れなかったのである。これをきっかけに永島慎二とは生涯親友であったという。
この後、手塚のもとに4年ほど足しげくかよい、手塚も、編集者などから隠れている宿泊先を不思議と教えてくれたりしたとのこと。
鈴木が後進指導に力を注いだ裏には、自分にまんが家の道を開いてくれた手塚の恩に報いたいという気持ちがあった。展示のパネルにある通り、「何か恩返しをしたい」という鈴木に、手塚が「後進の人たちにやさしくしてあげて下さい」、と述べたことが、鈴木が後進のまんが家の育成に力を注いだことの原点にあったのである。

参考文献
『マンガの神様! -追想の手塚治虫先生』
鈴木光明(白泉社/1995年)