3人+αの原画:おざわゆき

おざわゆき(1964年〜)


「凍りの掌」(2008〜2010年)

投降した日本軍捕虜ら約60万人が、終戦後も、ソ連によって、主にシベリアで強制労働をさせられていた、いわゆるシベリア抑留。本作は、その過酷な経験を生き抜いた作者の父親の話をもとに描かれた。氷点下30度以下の極寒の世界で、いつ終わるともわからない労働の日々の中、次々と死んでいく仲間たち。そうしたことを淡々と話す父に、作者は、「あきらめの向こうにある絶望感」を見出したと語っている。もともとは同人誌として描き下ろされた。


「あとかたの街」(2014〜2015年)

太平洋戦争末期は、本土でも大都市を中心に大規模な空襲に見舞われた。その一つ、名古屋を舞台に、戦時下の日常を生きる家族を、一人の少女の目を通して描く。父親のシベリア抑留の体験をもとに「凍りの掌」を描いた作者が、今度は、名古屋大空襲を生き延びた母親をモデルに、実際に体験していない戦争の記憶を、受け継ぎ、伝える、ということに再び挑む。今回、テーブルケースに展示されているテキストは、作者が母親へのインタビューの文字おこし。本作が持つリアリティーを支える秘密の一端である。


壁面全体

「凍りの掌」原画

「あとかたの街」原画
「あとかたの街」はデジタルデータが完成原稿である。
手描き原画と完成原稿とを比較してみて欲しい。





「凍りの掌」原画













暖かく、やさしいタッチの
マンガ表現なのに
そこには「シベリア抑留」という
氷点下の地獄図が
深く、リアルに、静かに
語られている。
日本人が決して忘れてはいけない
暗く悲しい六十六年前の真実。
次代を担う若者たちには
何としても読んで貰いたい
衝撃の一冊。

『凍りの掌』刊行に寄せて
ちばてつや

『凍りの掌』より(2012年7月24日刊)

テーブルケース
おざわゆき「あとかたの街」原画

「あとかたの街」を作るにあたって、作者のおざわゆきは母親にインタビューをしている。
その文字おこしの一部をご紹介したい。

母の証言 矢場町
[略]
思い出したら泣けてきた。辛いというよりもよくみんな助かったな〜って……
がああ〜っと必死だわね、わたしらも夏子さんも。
火藁っていうとねえ、紙に火がついたやつがねえ、足元を風がいく。
真暗、煙でね。夏子が火より下駄はいて素足で出てくるもんでね「あちい〜!あちい〜」って走ってた。
わたしは運動靴だけ、熱くないけどね。
姉は足袋裸足で、白足袋。お位牌だけちゃんと持って、逃げるときに飛び込んでってつかんできた。
[略]
商工会議所。もう紙ばかり、紙が火ついたまま舞っている。あっちもこっちも燃えてて。火が出ると風がものすごく起こる。しゃーーーーっと足元も煙やら燃えとるもんやら、夏子が「あちいい〜」っと言ってたのは忘れない。
ああなってくると母親も「ああしよこうしよ」って怒鳴らない。
いつもはきょうだいげんかやるとようしかられて。女の子だから叩かれたりはしないけど。
ただただ乳母車にくっついて、私らは一緒に走るだけ。

火が足元をはう、火の粉。子どもだったら結構距離があるかも。
鶴舞への前の道は一緒のひろさ。メインの通りで広かった。電車が走ってた、真ん中を。
鶴舞の入り口はいまと一緒、ガードも一緒。
本当にうちらだけだった、走っていたのは。後から来たのかもしれないけど。
その時は焼夷弾は降ってたと思う。だけど全然頭のことは覚えてない。
後から聞くと直撃で亡くなった人もいたって聞くから降ってたんだろうねえ。
空も真っ黒だし、下の方が赤いし、飛行機だって見えないやん。
バラバラと落としとったかもわからんけど、回りがすごくて覚えがない。
だって、いっぺんに来てばああっと落とすんでしょ、チョロチョロ2〜3 機で落としてそれが連続していつまでもいつまでも続く。
ピカピカの飛行機が来るの、南から。
目の感覚のところで落とすと命中する。まんしたで落とさないでしょ。おお〜あぶないぞ〜って感じ。
真上だと向こうにいっちゃう。
そりゃキレイなもんだよ。ピッカピカの飛行機がね。
昼間だと上のほうでね、すごくキレイに編隊組んでくるわね。夜は低いところだわね、わりかた。もう味方の飛行機なんて全然来ないもんね。
[略]
焼死体がころがってたのはどの辺だろうか。
この辺歩くと、もう手を合わさないでおれない、思い出して。
そこに「木曽路」があってよく来るんだけど「お父さんちょっと待って、私お祈りするから」と。

一緒にいたのにみんな死んじゃったがね。
本当に真ん中に墓標でも立てたいくらい。
昨日見せてもらったのは生のこげてない死んだ人だけど、わたしが見た黒こげの死んだ人はこの辺で集めて燃やしたって後から聞いた。
[略]