手塚治虫

1967年、「COM」創刊時に手塚治虫がどのような存在だったか、ということは没後20年以上が過ぎたいまとなってはかなりわかりにくいものがある。
1962年に長年の夢だったアニメ制作スタジオ、虫プロダクションを創立、1963年に放映開始した同社制作の国産初の30分ものテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」が大ヒット、手塚治虫はあきらかにキャリア的なピークにあった。
「W3」、「ジャングル大帝」、「悟空の大冒険」、「リボンの騎士」などの手塚原作、虫プロ制作のアニメシリーズが続々とテレビ放映。「ビッグX」、「マグマ大使」、「どろろ」、「バンパイヤ」などの少年まんが誌、学年誌、児童誌でのストーリーまんが連載、読み切りの発表。他にも新聞やおとなまんが誌での連載や読み切り、「展覧会の絵」などの実験的な短編アニメーションの制作もしている。雑誌、新聞掲載のインタビューやエッセイなども多数あり、いったいどうやってすべてをこなしていたか想像もつかないが、そういう嵐のような状況の中で手塚は「COM」を創刊し「火の鳥」を連載。1968年には虫プロまんが部を独立させてまんが制作プロダクション「手塚プロダクション」を設立、「ビッグコミック」などで青年向けストーリーまんがにまで手を広げていくことになる。
この時期の手塚は対外的には名実ともに一人の作家を超えた「まんが界の顔」であり、藤子不二雄や石森章太郎などのトキワ荘世代以降のまんが家たちにとっては後見人、まんが界のゴッドファーザーのような存在だった。つまり、対外的にもまんが業界内でもすでにこの時期の手塚治虫は「まんがの神様」として語られる存在になりかけていたといえる。しかし、いっぽうでその旺盛な創作意欲と実際の作品生産量を見れば手塚本人は飽くまで現役の最前線にいるつもりだっただろうし、現実に最前線にいた。
そのようなある意味矛盾する二つの立場に引き裂かれつつある手塚から読者へ直接呼びかけるような「創刊のことば」によって「COM」は幕を開けることになる。

「鉄腕アトムクラブ」

「鉄腕アトム」のヒットにより創設された虫プロダクションの公式ファンクラブ「虫プロダクション友の会」の会誌。
書店での一般販売はされず、友の会会員に郵送で頒布された。先行する郵送による直販の児童誌としては60年にリーダーズダイジェスト日本支社から創刊された「ディズニーの国」があり、ディズニーファンクラブの運営などを含め、こうしたディズニーの活動は手塚のイメージソースになっていたかもしれない。
1966年にTVアニメ「鉄腕アトム」が放映終了。友の会を運営していた虫プロ出版部が版権部とともに独立して虫プロ商事が創立されることになったため、友の会を解散、「鉄腕アトムクラブ」は休刊することになった。この「鉄腕アトムクラブ」休刊号で一般書店向けのまんが雑誌として創刊される後継誌として予告されたのが「COM」である。
「鉄腕アトムクラブ」自体は1963年に創設された日本SF作家クラブ人脈をフル動員した児童向けSF雑誌のような内容で「COM」への継続性は希薄だが、尾崎秀樹の「わんぱくまんが月評」など記事ページの一部の構成・テイストは「COM」に引き継がれている。
「鉄腕アトムクラブ」1964年8月号~1966年11月号、全28冊

「COM」創刊

 COM--それはCOMICS(まんが)の略。
 COM--それはCOMPANION(仲間・友だち)の略。
 そしてCOMMUNICATION(伝えること・報道)の略。
 つまり、まんがを愛する仲間たちに、まんが家のほんとうの心を伝える新しいコミック・マガジン--そんなことを考えて、わたしたちはこの雑誌のタイトルを「COM」ときめた。
(手塚治虫、「創刊のことば」、「COM」1967年1月号)

手塚治虫によるこの「創刊のことば」はあまりにも有名なものだが、ここでも書かれているように「COM」創刊当時は「まんがを愛する仲間たち」、まんがの読者共同体が顕在化し注目されはじめた時期だった。そうしたものへの共感や違和感を含め、1950年代の貸本劇画ブーム以降、ヤングアダルト層より上へとまんが読者が広がり、1964年に「ガロ」が創刊。少年まんが誌への劇画作家の進出、青年まんが誌の創刊など「まんがブーム」と呼ばれる当時の状況に対する手塚のメッセージが特に初期の「COM」には色濃く出ている。

「COM」の周辺(同時代の雑誌)

R004~R005のケースで「COM」が創刊された1960年代後半に発行された雑誌群を紹介する。
「ガロ」は、1964年に貸本まんがの出版を営んでいた、長井勝一により創刊されたまんが月刊誌。
一説には「COM」は「ガロ」に対抗するために創刊されたともいわれている。当初は白土三平傑作選集として白土作品を主軸に刊行されていた。誌名の「ガロ」は同氏のまんがに登場する忍者「大摩のガロ」からの借用。1964年12月号から白土三平の「カムイ伝」が連載開始、全共闘世代の学生達に熱烈な支持を受けた。
新人の発掘や、市場の衰退により行き場のなくなった貸本まんが家の作品発表の場としても機能し、また可能な限りまんが家と作品に干渉しないという方針で、つげ義春などの新人を多数輩出する。だが1971年「カムイ伝」連載終了とともに発行は下降線をたどり、1996年、長井勝一が死去、翌1997年に一度休刊している。

「COM」の周辺(同時代の雑誌)

「ワイルド」はかつて少年誌の花形であった絵物語の作者山川惣治自らが創刊、絵物語の復活を目指すが短命に終わる。
「小学一年生」は1925年から2012年現在まで発行されている小学館の学習雑誌。週刊少年まんが誌は「少年マガジン」、「少年サンデー」、「少年キング」。
後発で1968年創刊「少年ジャンプ」、1969年創刊「少年チャンピオン」。週刊少女まんが誌は「少女フレンド」「マーガレット」。「なかよし」、「りぼん」、1968年創刊の「少女コミック」などの月刊誌。青年誌「ヤングコミック」、「漫画アクション」、「プレイコミック」、それよりも大人向けの「漫画サンデー」、「漫画読本」、「ビッグコミック」など。

「COM」の周辺(「COM」増刊号・ふろく)

B6判の「罪と罰」はCOMの1968年新年号に本誌の付録として、1953年に東光堂から単行本として発行された作品を再録したもの。
「火の鳥 黎明編」、「ノアをさがして 矢代まさこ特集」、「性蝕記 宮谷一彦」、「クレオパトラ 坂口尚」は本誌の増刊号。「きりひと讃歌」、「人間昆虫記」は「COM」ではなく「COMコミックス」の増刊。
「COMまんが手帳 1969年度版」(販売物)は、当時のまんがに関するデータを収録したまんが家志望者やマニア向けのガイドブック。

「COM」の周辺(虫プロ発行の雑誌、単行本)  

虫プロ商事が発行した「COM」以外の様々なまんが雑誌やまんが出版物。「COMコミックス」は「COM」の後を継いだ青年向け劇画誌。
「ファニー」は、十代後半以上の女性が対象のいまでいうレディースコミック誌。
他に幼年向け児童まんが誌の「月刊てづかマガジン れお」、手塚治虫や他のまんが家作品の再録中心の「ベストコミック」。単行本の「虫コミックス」はカバー裏にもまんがなどが印刷されていた。単行本としては「COM」本誌に連載され、第13回小学館漫画賞を受賞した石森章太郎作「ジュン」の箱入り上製本のような当時としては珍しいハードカバーのものもある。

「COM」の変貌

「COM」は1971年5・6合併号にてリニューアルされた。表紙も和田誠のイラストから、毎号交代のまんが家によるものに変更された。
対象読者の年齢層を引き下げ、よりわかりやすい少年まんが誌を目指すためのものであった。
これは手塚治虫や編集部の意向ではなく、当時経営的に切迫していた虫プロ商事および、虫プロダクションからの要請だった可能性が高い。
表紙の謳い文句も「まんがエリートのためのまんが専門誌」から「たのしくて おもしろい きみのための月刊コミック・マガジン」に代わったが、それもむなしくこの年の12月号をもって「COM」は休刊となる。

「COM」のまんが(1)(前期)

R009~R016のケースで「COM」掲載のまんがの紹介をする。
「カムイ伝」が「ガロ」の看板作品であったように、「COM」の看板作品は「火の鳥」であった。手塚治虫自身がライフワークと認めたこの大河シリーズは最初「漫画少年」に「黎明編」が連載(1954~1955年)され、「少女クラブ」での「エジプト編」「ギリシャ編」「ローマ編」を経て、「COM」では構想を新たにした「黎明編」から開始された。古代日本の「邪馬台国」を舞台にしたこの物語に続いて、次の「未来編」では35世紀に舞台が移り、そのように過去と未来を行き戻りしつつ、最後には現代の日本に行き着くという壮大な構想の元に描かれたシリーズだったが、「COM」の休刊後は他誌で描き継がれ、ついには手塚治虫の死去によって未完に終わっている。
歴史ロマン、SF、パロディ、時代劇など様々なスタイルをもって描き分けられたこのシリーズでは謎の不死鳥・火の鳥が狂言回しとなってすべての物語をつなぎ、手塚治虫の世界がまさしく絢爛豪華に展開している。

「COM」のまんが(2)(前期)

「火の鳥」と共に初期の「COM」を代表する三大連載作品が「章太郎のファンタジーワールド ジュン」(石森章太郎)と、「シリーズ黄色い涙・青春残酷物語」(永島慎二)であった。
「ジュン」は作者のイメージを自在に描き綴った実験作品としてまんがマニアを刮目させ、「青春残酷物語」は1960年代後半の若者の心性に迫った叙情的な青春ドラマとして、読者の心を射ぬくことになった。
とりわけ「青春残酷物語」の中核をなす「フーテン」は、作者の体験を虚実織りまぜながら描いた同時代性が他の作品と一線を画し、永島慎二の人気はつかのま、若者たちの教祖としてまつり上げられたほどであった。
以後、永島作品の影響を受けて岡田史子、宮谷一彦ら大型新人がデビューしたこともあり、「COM」には元祖「青年まんが誌」の横顔を見ることができることも忘れてはならない。

「COM」のまんが(3)(前期)

創刊後まもなくから新人作品投稿欄の「まんが予備校」で一コマと4コマの作品の投稿を呼びかけた「COM」は、決してストーリーまんがだけの雑誌ではなかった。
1967年4月号からは表紙裏で「漫画・マンガ・MANGA」の連載を始め、毎月交代で一コマまんが家やイラストレーター、絵本作家にまでその門戸を開いたように、いわばオールレンジで「まんが」に目配りした雑誌だったともいえるだろう。
そこから方倉陽二を筆頭とする新人が輩出され、やがて「まんが予備校」投稿者であったいしいひさいちが未曾有の4コマまんがブームを起こすにあたっては、そこにも「COM」の影響を見ることができるかもしれない。反対に石井いさみのような当時の人気ストーリーまんが家が、「愛のスケッチ」のようなイラスト・ポエムを連載することができたのも、「COM」であればこそだったろう。

「COM」のまんが(4)(前期)

巻頭に「火の鳥」という大河作品を据えて人気を集めながら、それ以外に読者を魅了したのは「ゲストまんがシリーズ」のような読み切り作品や、一人の作家による読み切り連作のシリーズであった。
なかでも当時、貸本まんがで頭角を現していた矢代まさこやみやわき心太郎のような知られざる実力派の起用は、その垢抜けた作風と作画で、「ガロ」とは異なる独自の読み切りまんがの世界を「COM」に築いたといっていい。
矢代まさこの「短編シリーズ」、そしてみやわき心太郎の「ハートコレクション」は読み切り連作の一つ一つがずば抜けた完成度を示し、どれもが珠玉作として読者の心を揺さぶった。
しかし、まんが雑誌が作品人気を持続しやすい長編連載に次第に比重を傾けていくなかで、そのような「連載に不向きな」読みきり中心作家の需要もまた先細りしていくことになるのである

「COM」のまんが(5)(前期)

まんが家デビュー後にSFミステリを得意としていた山上たつひこ、そして本格SFへの指向を顕著にしつつあった松本零士のような新人・中堅作家に、月刊誌として活躍の場を与えたのも「COM」であった。
山上たつひこは大人向けのセンス・オブ・ワンダーに満ちた「人類戦記」を連載し、松本零士は「四次元世界シリーズ」を始めとするSFファンタジーの読み切り連作を発表して、SFファンからの密やかであれ強い支持を集めた。
そして「COM」での活躍を踏み台として、後に山上は「光る風」で、松本は「男おいどん」を経て「銀河鉄道999」で、広く世に知られることになるのである。
この時期「人類戦記」や「四次元世界シリーズ」を掲載してくれるほかの雑誌があったかどうかを考えると、そのような青年向けSF作品を揺籃できた「COM」の懐の深さが、いかに貴重なものであったかがわかるだろう。

「COM」のまんが(6)(前期)

「COM」は紋切り型の言い方をすれば、いわゆる「異色作家」の宝庫であった。
その裏には作家への原稿料でメジャー誌に劣るマイナー誌の弱みがあり、知名度の低い新人や異色作家を起用せざるを得ないという事情があったが、そのなかから優れた作家を抽出できたのは、まさしく「COM」編集者の「目利き」によるものであったろう。
出崎統が起用されたのは親会社の虫プロつながりだったと思われるが、テレビアニメ「悟空の大冒険」(1967年)の作画監督&演出家みずからによるそのコミカライズは「静止画によるアニメーション」として、「COM」最初期の優れた「異色作」たりえている。また「ガロ」で注目されていた池上遼一の「COM」への作品寄稿は一度だけだったものの、「野犬」にはその圧倒的な画力のなかに、デビューまもない時期の野生的なペンタッチを見て取ることができる。

「COM」のまんが(7)(前期)

新人や異色作家の意欲的な起用により、「COM」の読者に改めてその筆力を示した作家も少なくなかった。当時新進の樋口太郎はそのポップアート調の絵柄が印象的で、読み切り作品を18作も執筆。知られざる常連作家として、「COM」のイメージの一端を担い続けたといっていいだろう。また当時は少女まんが家のイメージが強かったあすなひろしの名を、まんがマニアに広く知らしめたのも「COM」であった。
画力の高さにはすでに定評があったものの、「COM」デビューを飾った「300,000km./sec.(秒速30万キロ)」はSFとしての着想といい、哀感あふれるストーリーといい、非の打ち所のない傑作として読者を驚かせることになった。以後も5作が掲載されたが、その評価の高さは他誌への発表作も合わせたあすなひろし選集「サマーフィールド」が、1970年に虫プロ商事から刊行されたことからもうかがうことができる。

「COM」のまんが(8)(前期)

女性作家の活躍の場がまだ少女まんが誌か貸本しか与えられていなかった時代に、積極的に新たな活躍の場を与えたのも「COM」であった。
少女まんがの枠にとらわれない作品の発表が許された作家たちは水を得た魚のごとくその才能を開花させ、「COM」は女性作家=少女まんが家のイメージを打ち砕くことにも貢献したのである。すでに「怪盗こうもり男爵」などの作品でユニークな作風が認められていた飛鳥幸子は、シニカルなコメディを3作寄稿した後に「エルシノア城奇談」を発表。知的なトリビアを散りばめたナンセンス・コミックであるだけに留まらず、まんがによる本格的な「シャーロック・ホームズ」へのオマージュ作品としてホームズ・ファンを狂喜させることになった。
また当時、少女まんがの頂点へと上り詰めていた水野英子も、男性を主人公とした「旅」を寄稿し、男性作家に勝るそのダイナミックなペンタッチを存分に読者に見せつけたのである。

「COM」の記事(対談1)  

「COM」の記事(対談2)

R017~R024のケースでは「COM」掲載記事の紹介をする。
「COM」はまんが雑誌であると同時にジャーナリスティックな批評誌としての性格を持った奇妙な雑誌だった。この雑誌の初期にそうした側面を象徴しリードしていたのが、大衆文学研究者の尾崎秀樹を司会に毎号違ったテーマ、メンバーでおこなわれる座談会連載「まんが月評」だった。読者、まんが家、編集者、批評家など有名無名を問わない参加者によるリベラルな議論が特徴的な同欄は、いま見ると当時の雰囲気や状況が垣間見える一級の風俗史料である。毎回司会の尾崎によるまとめ的な「寸評」が付されているのもいいアクセントになっている。
連載企画としての「まんが月評」終了後も特集企画などと連動した座談会、対談企画は「COM」の特色であり続けた。

「COM」の記事(評論)

尾崎秀樹、峠あかねをはじめとして「COM」は積極的に批評家を紙面に登用した雑誌だった。
それぞれのちに単著としてまとめられることになった批評連載を持っていた尾崎と草森紳一、時評を担当した児童文化研究者の佐野美津男と斎藤次郎、「海外まんが紹介」を長期連載した小野耕世といったレギュラー陣に加え、映画評論家の佐藤忠男や「ガロ」で活躍していた石子順造らも座談会などでゲスト的に登場している。
このようにまんが雑誌としては奇妙なほど批評と高い親和性を持っていた「COM」だが、じつは初期の号では手塚治虫本人がある意味もっともラディカルな批評(?)をおこなっていた。批評家も編集者もまんが家も読者もほぼ全方位で切り捨てていく初期「COM」掲載の手塚のエッセイ群はたぶん現在の手塚のイメージを大きく裏切るものだ。特に石子順造への公開質問状のかたちで書かれたテキストはそれに対する石子の返答も含めたいへんインパクトの強いものなので一読をお勧めしたい。

「COM」の記事(読者投稿欄)

「COM」の読者投稿欄「ぐらこんロビー」には「COM」がまんが専門誌であることから、毎号のように読者からの熱い意見が掲載された。
時には長文の投稿も全文掲載され、次の号にはその意見に対する別の読者の反論が掲載されるといった具合で、論争が繰り広げられることもあった。
また「COM」に執筆した作家(「ぐら・こん」入選作家を含む)の投稿すら掲載されることがあり、1971年の5・6月合併号ではその号にまんがの投稿作品が掲載されたたむろ未知の意見投稿が、同号の「ぐら・こんロビー」に取り上げられたこともある。このようにオープンな形で活用され、編集部や編集方針への批判も拒まれずに掲載された「ぐら・こんロビー」の存在も、読者がCOMに信頼を寄せるささやかな理由となっていた。またCOMが休刊に至る1971年には、編集者の飯田耕一郎がみずから情報欄「風のうわさ話」を開設して読者に呼びかけるなど、読者と編集者との距離が近いこともCOMの大きな魅力であった。

「COM」の記事(企画記事1)

R021~R024のケースで「COM」を特徴づけた企画記事の紹介をする。
1971年5・6月合併号でのリニューアル以降、批評やデータ系の記事の充実度はある程度維持しつつ、「COM」はより「まんが雑誌色」を強め、特集の紙面での位置づけ、コンセプトもそれ以前から変化している。
テーマ設定がジャーナリスティックなものから「SF」、「学園」、「少女」、「時代」、「ファンタジー」といったまんがのジャンル単位になり、同時掲載される読み切り作品と記事がより有機的に連動するかたちになった。このリニューアルは当時の読者からはかなり批判を受けたようだが、全体的にコンセプトがはっきりした紙面になったぶん、まんが誌としてはより読みやすくなったともいえる。

「COM」の記事(企画記事2)

「COM」の記事(企画記事3)

「COM」は毎号のように当時のまんがを取り巻く状況をジャーナリスティックな視点で切り取った特集を組んでいた。。
この流れは創刊号の「まんが月評」座談会で当時一般的なものとして定着しつつあった新書版単行本を取りあげていたのにはじまり、劇画やテレビアニメ、怪獣ブームなどの(当時の)ホットトピック、まんがに関する作家やジャンルの状況をチャート化して整理した「まんが火山連峰」シリーズやアンケートなどを駆使したベストテンなどの調査企画、アシスタントや編集者、プロダクションなどあまり語られることのないまんが制作の裏方たちへの取材記事など多岐に渡っている。

「COM」の記事(企画記事4)

「COM」が読者へのアプローチを重視した背景には、愛読者に「COM」の定期購読を促し、経営を安定させるという目論見も実はあった。だからといってあからさまな勧誘などはなく、読者との接触に当たって編集者は、それぞれ誠意を持って対応した。。

その成果の一つが1968年4月号から連載された企画記事「まんが風土記」で、担当編集者が各県に出向いては現地のまんが事情をルポルタージュし、さらに「COM」愛読者との交流を重ねている。労作であり、さしずめ「まんが草の根活動」とでも呼べそうな、まんが関連の貴重な資料かつ報告となっていたといえるだろう。ほかにも「COM」は1970年11月号で「COM読者白書」を特集し、内部資料を明かす形でアンケートによる「COM」の読者像を提示している。また読者ばかりでなく、当時の著名人にもまんがについてのエッセイを依頼し、「まんがと私」のタイトルで毎号掲載。
浅川マキ、稲垣足穂ら、まんがに関心がないと思われていた文化人や歌手、タレントからの寄稿は、まんがが文化として定着しつつあることを密かに示して、読者の「まんがコンプレックス」を解消することにもなった。)

「ぐら・こん」以前

「COM」は新人育成に力を注いでいた。その育成の支えとなっていたのが「ぐら・こん」である。「COM」以前にも誌上に投稿欄を設け、まんが家志望者のまんが投稿を受け付けていた雑誌はあった。中でも「漫画少年」は石森章太郎、藤子不二雄、松本零士など巨匠となったまんが家たちが軒並み投稿していたことで有名である。。
「COM」と関係の深いものとしては、貸本短編誌「街」の投稿欄も真崎守、矢代まさこ、バロン吉元、アニメーションの世界で大成した出崎統などを輩出し、直接的に「COM」につながる人材の供給源となっていた。「COM」の「まんが予備校」はこれらの投稿欄をモデルにしており、編集者と並んで先輩作家による丁寧な選評がつく形式もこれらの先行例に倣ったものである。。
ケース内の「街」29号ではみやわき心太郎がデビュー。辰巳ヨシヒロによる選評が掲載されている。同39号ではもりまさき(真崎守)がデビュー。2作品と選評を掲載。当時真崎が主宰していた同人グループが「グランド・コンパニオン」であり、同45号掲載のもりまさき作品の扉にグループ名が記されている。この号は荒木伸吾が入選、選評が掲載されている。「燃えてスッ飛べ」巻末では、同人グループ「グランド・コンパニオン」の紹介されている。

「ぐら・こん」

「ぐら・こん」とは「グランド・コンパニオン」の略で、「COM」読者のために設けられた雑誌内の記事コーナー。1968年5月号から12月号までは同じ「ぐら・こん」の名を冠した別冊ふろくがつき、「COM」誌上での呼びかけによって結成されたまんがファン交流組織の名称も「ぐら・こん」であるため、たいへんまぎらわしい。
記事ページ「ぐら・こん」内のまんが投稿欄である「まんが予備校」(のちに「コミックスクール」に改称)は新人まんが家育成のための企画であり、実際にプロ作家を多数輩出したため、当時のまんが家志望者の心の支えとなった。また記事ページや創作同人グループとしての「ぐら・こん」を通して全国のまんがファンが相互に交流を図ることとなり、後のコミックマーケットを生みだすきっかけとなった。

峠あかね/真崎守

「COM」の「ぐら・こん」コーナーの新人作品投稿欄において、その仕掛け人であり選者、評者ともなった「峠あかね」の功績は多大なものがあった。
峠あかねとはまんが家・真崎守の別名であり、実は「ぐら・こん」の名称自体も同名の肉筆同人誌発行に関わり、さらに貸本まんが誌での創作活動でグループ名を「グランド・コンパニオン」と自称した、真崎自身の提案によるものであった。
峠あかねは編集者と共に「ぐら・こん」コーナーのスタイルを作り、時には匿名で読者に「ぐら・こん」への参加を呼びかけ、さらには投稿作品への熱心で具体的な選評やアドバイスを行なって新人育成に心を砕いた。当時はまんが雑誌が新人投稿を受け付けることがまだ珍しかった時代で、「ぐら・こん」は先駆的な試みとして、その後まんが誌が「投稿作品募集」を広く始めるきっかけともなったのである。
「COM」の初期以降、峠あかねと「ぐら・こん」との関わりは減っていったが、それでも「まんが月評」などを執筆すると共に、真崎守の名で「こみっきすと列伝」などを「COM」に発表。他誌でも「ジロがゆく」などの代表作を執筆した後、虫プロでのアニメ演出家のキャリアを生かし、1980年代以降は再びアニメ作品の演出家として活躍することになった。

「COM」のうらがわ(編集者1)  

「COM」のうらがわ(編集者2)

このケースにあるパネルは、1971年ごろの「COM」の進行表を、当時の資料や聞き取りをもとに再現したものである。ここにあるのは一号分だが、資料を細かく検証すると、毎月〆切日が変更されたり、発売日が不確定であった様子がわかり、休刊に近づく時期の混乱がかいまみえる。
R029のケースには、編集者であった鶴野久男氏の、当時の記録が残る貴重な手帳を収めた。開かれたページにはR021に入っている「少女マンガ特集」制作の段取りが記されている。展示ケース内にある、「COMの青春」は元「COM」編集者である秋山満によるドキュメント小説。他に「COMIC AGAIN」1979年5月の「COM」特集などにも、同誌編集者による証言が掲載されている。

「COM」のうらがわ(虫プロダクション)

手塚治虫がアニメーション制作のために設立した会社が虫プロダクションである。
ただ、「鉄腕アトムクラブ」での記述を見る限りでは設立当初の同社は手塚のまんが制作プロダクションを兼ねていたようだ。真崎守、永島慎二、坂口尚、村野守美など虫プロ本体でアニメーション制作に従事したのち、まんが家として「COM」に関わった作家も多い。アニメ製作会社としては日本初の30分ものテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」、初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」を制作した「テレビアニメのパイオニア」のイメージが強いが、実験的な短編アニメーションや劇場用アニメ映画の制作など多面的な活動をしており、テレビアニメも手塚原作の作品だけを作っていたわけではない。資金繰りの悪化から1973年に倒産するが、その端緒となったのは子会社である虫プロ商事の労働争議と倒産だとされている。
日本独自のテレビアニメのスタイルと製作方式の基礎を築き、以後のアニメ界に多様な人材を輩出しているなど、日本のアニメ史を語る上で欠くことのできない製作会社である。)

「COM」以降(雑誌)

「COM」以降、「COM」を意識して編集されたと思われる雑誌が断続的に創刊されていた。
「ごん」(1968年)は「ガロ」と「COM」を合わせて目指した雑誌といわれている。「COMIC AGAIN」(1979年)は「Peke」(1978~1979年)に続いて、元「COM」編集者の鈴木清澄が「COM」のような雑誌を目指して創刊したまんが専門誌。「マンガ少年」(1976~1981年)は手塚の「火の鳥」連載再開を目的に創刊された。「マンガ奇想天外」(1980~1982年)、「SFマンガ競作大全集」はSF系のまんが専門誌。
「ぱふ」(1979~2011年)は同人誌情報をまめに掲載し、年に1度まんが界の総括特集をするなど、全体的に「COM」の「情報コーナー」を1冊にまとめたような雑誌。いずれもまんがマニアに向けてつくられた、「COM」の流れをくむ雑誌である。

「COM」以降(特集本)

「COM」を特集した雑誌を集めた。

1979年

「月刊Peke」
特集:幻の雑誌COM

1979年

「ぱふ」
特集:COMの時代

1979年

「COMIC AGAIN」
特集:ビバ!COM世代漫画家

1999年

「COMIC GON!」
連載:COMと70’sまんがとぼくたちの失敗
(掲載誌休載により2回で中断)

2009年~

「SPECTATOR」
連載:「COM」の時代:あるマンガ雑誌の回想 1966-1973

1970年代から現代に至るまで断続的にどこかで特集されているのがわかる。「COM」が、休刊後も当時の読者の心に残り、まんがファンの基礎教養とされ、伝説の雑誌として語り継がれていることは、これら休刊後の特集誌からも伝わってくる。