『日本沈没』日本版書籍1

小説としての『日本沈没』の書籍には様々なバージョンが存在する。R001からR003までには、日本で出版された書籍のバージョンを展示してある。
このR001のケースには、最初に刊行された光文社カッパ・ノベルス版をはじめ、光文社から出版された書籍を展示。カッパ・ノベルス版『日本沈没』は、1973年春に上下巻が同時刊行され、 年内には380万部以上の売り上げを記録、カッパ・ノベルス最大のヒット作となった。この作品のヒットは新書ノベルスブームを盛り上げ、スターウォーズ以降のSFブームを準備するものだったといえる。
光文社からは他に、ハードカバーの定本版(1975年)、光文社文庫版上下巻(1995年)が刊行されている。

『日本沈没』日本版書籍2

光文社は1984年に光文社文庫を創刊するまで文庫レーベルを持っていなかった。このため『日本沈没』の文庫化は初版の版元である光文社ではなく、まず別な出版社によっておこなわれている。
1978年に文春文庫版が上下巻で刊行、1983年には当時SF出版に力をいれていた徳間書店から徳間文庫版上下巻が発売。光文社文庫創刊後に発売されたものとしては、日本推理作家協会賞受賞作全作を文庫化する企画として1996年に双葉社から発売された「日本推理作家協会賞受賞作全集」版上下巻、2006年の再映画化と第二部出版にあわせるかたちで出版された小学館文庫版上下巻がある。
出版社の違うバージョンがこれだけ出ているということが、この作品が話題作であり人気作であることの証であるといえよう。

『日本沈没』日本版書籍3(コミックス)

70年代日本における最大のベストセラーのひとつである『日本沈没』は映画化、ドラマ化だけではなく、マンガ化もされている。このケースにはマンガ版『日本沈没』の単行本各種を集めた。小説版の発表年に連載開始されたさいとう・プロダクション作品は社会現象的なベストセラーをいち早くマンガ化したもので、基本的に原作に忠実なコミカライズである。2006年版の映画制作開始にあわせ小学館『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で連載がはじまった(2009年まで)一色登希彦作品は、現代版としてかなり大胆なアレンジがなされている。
さいとう・プロダクション版は秋田書店チャンピオン コミックス全4巻(1973‐74年)の刊行後、講談社全3巻(1992年)、講談社文庫(1995年)、講談社プラチナコミックス全5巻(2003年)、講談社コミッククリエイト上下巻、リイド社全4巻(2006年)、リイド社SPコミックス(2011年)、講談社新装版(2012年)と何度も出版しなおされている。ケースにはその全8バージョンのうち、7バージョン分を入れた。一色版は単行本全15巻(2006‐09年)が小学館ビッグコミックスから発売されている。

『日本以外全部沈没』

社会現象的なヒットとなった『日本沈没』は、テレビのコントなどでパロディ化された事例も多い。中でも小松の盟友、筒井康隆による短編小説『日本以外全部沈没』は『日本沈没』出版と同年に発表され、1974年に第五回星雲賞をオリジナルと同時受賞し、原作者を嘆かせるという快挙(?)を成し遂げた。この作品の基本アイディアの提供と命名は、やはり小松の盟友であり、小松・筒井とあわせて当時SF御三家と呼ばれた星新一だといわれている。その後、この作品は2006年の『日本沈没』再映画化に便乗するかたちで河崎実監督により映画化。この映画には『日本沈没』1973年版映画の主演俳優である藤岡弘、1974年テレビドラマ版の主演俳優、村野武範が揃って出演している。ケース内は同作を表題とする筒井の短編集と映画版パンフレット及びDVD。

『日本沈没 第二部』

もともと『日本沈没』という小説は日本が沈没し、国土を持たない民族として日本人が世界中に散っていく物語として構想されていた。出版社の働きかけにより、その前半部分を独立した小説として発表したのが『日本沈没』であり、当初の構想にあった後半部分も、初版版元の光文社によって続編『日本漂流』として刊行予告されていた。しかし、現実の社会情勢や地球環境の変化もあり、長らく執筆が棚上げになってしまう。その後共同プロジェクトでの執筆が検討され、2003年に森下一仁を中心にプロジェクトチームが発足。実際の執筆者として海外経験の豊富な谷甲州を迎えて、2006年に出版されたのがこの第二部である。プロットそのものは小松の当初の構想に沿っており、クレジットとしては小松と谷の共著のかたちになっている。
ケース奥のパネルは、最初の『日本沈没』の時から協力を仰いでいる海洋地質学者、奈須紀幸氏に第二部に関するレクチャーを受けた際の様子。右の文書は、国土を失って国家が法的に成立するか、法学者の岡野佑子氏に問合わせた際の返信。手前の写真2点はスーパーコンピューター「地球シミュレータ」見学のときのもの。 

『日本沈没』海外版書籍1

小松左京は70年代から80年代にかけて日本の知識人に見られた「リベラルな国際主義」を象徴する作家である。1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰し、日英をはじめとする西側諸国とソ連に代表される東側の代表的なSF作家を集め「SFを通じた国際交流」を図ろうとしていた。作品の翻訳もロシア語をはじめとする東欧諸語への翻訳が多く、安部公房と並んでもっとも共産圏に紹介された日本人作家のひとりだろう。『日本沈没』はその著書の中でももっとも多く翻訳が出版された作品である。1973年に公開された東宝映画『日本沈没』の配給権がロジャー・コーマンによって買い取られ、新たに撮影したシーンを追加したハリウッド版『Tidal Wave』が1975年に公開されたこともあり、1976年の英語版『Japan Sinks』をはじめ、欧米、アジア、中南米諸国など幅広い国で翻訳版が刊行されている。また、アメリカやフランスなどでは阪神淡路大震災後、この震災を受けて再刊された。
【展示品リスト】
英語版 JAPAN SINKS 1976年
英語版 "THE DEATH OF THE DRAGON(JAPAN SINKS!)" 1978年

英語版 JAPAN SINKS 1995年
フランス語版 La submersion du Japon 1977年
フランス語版 La Submersion du Japon 1996年

『日本沈没』海外版書籍2

【展示作品リスト】
ドイツ語版 Japan sinkt 1979年
スペイン語版 JAPON SE HUNDE 1978年
ロシア語版 ГИБЕЛЬ ДРАКОНА 1977年
ポーランド語版  Zatonięcie Japonii 1989年
ドイツ語版 Japan sinkt 1991年
ドイツ語版 Wenn Japan versinkt 1979年

『日本沈没』海外版書籍3

【展示作品リスト】
中国語簡体字版 日本沉没 Ⅱ 2008年
中国語簡体字版 日本沉没 上、下 2005年
ハンガリー語版 A Sárkány halála Ⅰ,Ⅱ 1985年
ブルガリア語版 Потъването на Япония 1983年

『日本沈没』直筆原稿1-1

『日本沈没』の直筆原稿は、全部で1225枚だったが、現存するのは1196枚である。その貴重な直筆原稿から、未来へのヴィジョンを感じさせる3つの場面を抜粋し、R009からR016の8ケースに各1枚づつ計8枚並べて展示した。
R009からR010には、アメリカの測地学会が、日本の沈没をいち早く報じたシーンを選んだ。この発表の日付が「3月11日」である。特に意図や意味のない純粋な偶然なのだが、SFというフィクションが、時に未来の現実を予見することがあることや、小松の全生涯を通じての大規模災害を考える仕事の大きさを思うと、象徴的であり感慨深くもある。

『日本沈没』直筆原稿1-2

『日本沈没』直筆原稿1-3

『日本沈没』直筆原稿2-1

R012からR013にかけては、アメリカ発表に少し遅れて、日本の沈没を国会演説として発表する首相の様子を視聴しながら、主要な登場人物のうちの二人、中田と 幸長が、政治について会話する場面である。その内容が1990年代半ばの阪神・淡路大震災以降の日本の政治の混迷を予見するかのようだ。
ここで小松は、自然環境などに目を向け、大きく世界をとらえるべき政治家は、今後も人を動かすことに奔走するに違いないこと。それが民主主義であり、そこを効率よくやりすぎようとすれば独裁制に向かうことを喝破している。これを善し悪しではなく、政治を巨視的に見たうえで捉え原稿に落とし込めるところに、小松の凄味がある。

『日本沈没』直筆原稿2-2

『日本沈没』直筆原稿2-3

『日本沈没』直筆原稿3-1

R015とR016のケースには、政府をも動かす百歳超の渡老人が、日本の沈没をいち早く察して奔走した田所博士に向かって、日本民族の行く末について語る物語終盤の名シーンが入っている。ここでの老人の言葉は、渡老人の口を借りた、小松自身の日本人へのメッセージといえるだろう。今もなお、というか今だからこそ響く、『日本沈没』の核となる一言一句である。

『日本沈没』直筆原稿3-2

『日本沈没』の原点 マンガ家小松左京による『ぼくらの地球』

小松左京はまだ京都大学在籍中だった1940年代後半、モリ・ミノル、もりみのる、小松みのるといった複数の名義でマンガ単行本を何冊か出版していた。この小松のマンガ作品は若き日の手塚治虫に 「すごい新人があらわれた」と言わしめたという。
ここで紹介する『ぼくらの地球』も小松によるマンガ作品のひとつだが、当時の新聞広告で出版社による宣伝記事がみつかっているにもかかわらず、印刷された単行本が一冊も発見されておらず、原画だけが残っているといういわくつきの作品。地質学への関心、特にヴェゲナー(ウェゲネル)の「大陸移動説」にかなり詳しく触れており、『日本沈没』の原点的作品であるといえる。ケース内は、その貴重な原画と、小学館クリエイティブから出版されている小松のマンガ家時代の作品の復刻本である。

『ぼくらの地球』と大陸移動説

『ぼくらの地球』の原画から、大陸移動説に触れたシーンを展示した。小松が『日本沈没』を思いついたのは、地球物理学者の竹内均による『地球の科学』(NHKブックス、1964年)で、ヴェゲナーの大陸移動説が見直され、当時最新のマントル対流説を知ったからであった。大陸移動説自体を知ったのは若いころ親しんでいた、H・G・ウェルズの『世界文化史体系』からであり、『ぼくらの地球』にはこの説が詳細に紹介されている。
同時に展示した書籍は、竹内の『地球の科学』と『世界文化史体系』。『世界文化史体系』は、いくつかのバージョンのうち、おそらくこれが小松が参考にしたものだろうと考えられる、大阪の大鐙社より1941年に出版されたもの。全4巻のうち大陸移動説が紹介されている第1巻である。

マンガ化された『日本沈没』 さいとう・プロダクション(1973年) 原画1

R019とR020のケースには、『日本沈没』の小説がヒットして間もないころ『週刊少年チャンピオン』で連載開始された、さいとう・プロダクション版『日本沈没』(1973-74年)の原画を展示した。日本沈没の極秘情報を早くに知った若き潜航艇乗り小野寺が、兄を慮るシーンである。
この作品は、早いうちからマンガの分業による制作を提唱していたさいとう・たかをが、その理想とする「プロダクション制」によって作成したものだ。このため、単行本には必ず、監修:さいとう・たかを、構成:K・元美津、構図:石川フミヤス、武本サブロー、甲良幹二郎、そのあと に作画スタッフがズラリと並ぶ映画のような制作スタッフ表が入っている。作画スタッフとしてもさいとう・たかをが 入っているあたりにもさいとうの考える「プロダクション制」のあり方が見える。

マンガ化された『日本沈没』 さいとう・プロダクション(1973年) 原画2

マンガ化された『日本沈没』 鶴田謙二『日本ふるさと沈没』原画

『日本ふるさと沈没』は、2006年徳間書店から出版された『日本沈没』にインスパイアされたパスティーシュ/パロディマンガのアンソロジーである。21人のマンガ家が、自分のふるさとが沈没するという設定で短編を描いている。企画のきっかけはマンガ家、鶴田謙二が「『日本沈没』をマンガ化したい」と希望したことから。ケース内の原画は鶴田謙二「沈没ラプソディー」より。この鶴田版における小野寺は女性として描かれている。
参加メンバーは、吾妻ひでお、あさり よしとお、唐沢なをき、遠藤浩輝、伊藤 伸平、西島大介、 鶴田謙二、恋緒みなと、米村孝一郎、ひさうちみちお、トニーたけざき、空ヲ、いしいひさいち、寺田克也、TONO、宮尾岳、安永航一郎、ヒロモト森一、幸田朋弘、ロマのフ比嘉、とり・みき。

マンガ化された『日本沈没』一色登希彦版1

R022からR024までは、一色登希彦版のマンガ『日本沈没』(2006-09年)のケースである。一色版は映画公開にあわせて2006年に『週刊ビックコミックスピリッツ』で連載開始した。2006年には第二部、映画、アンソロジー版、一色版、映画版『日本以外全部沈没』などが発表され、さながら『日本沈没』イヤーだった。一色版は2009年まで連載が続き、原作、新旧の映画、テレビ、マンガ、第二部の要素までをも呑みこんで、全15巻で完結した。
一色版の原稿は基本的にデータ原稿である。このケースではR023、R024、単行本11巻表紙の制作過程を画像データでみせる。単行本11巻は、人物は一色、背景の効果は2006年版の映画監督・樋口真嗣の協力によって、映画の美術監督丹治匠が担当したコラボレーション作品である。

マンガ化された『日本沈没』一色登希彦版2

R023-R024には、一色版の『日本沈没』の中から、このケースの上段2ケース(R015-R016)に対応する、物語終盤の渡老人の登場シーンを抜粋した。
原作では日本から脱出しない渡老人と 田所博士とのやりとりなのだが、一色版では、日本に残る渡老人と日本を脱出する若い小野寺とのやりとりになっている。原作にある「おとな民族」の「おとな」とは何かに、一色なりの答えを提示しており、1970年代の小松と2000年代の一色との、時代を超えたやりとりを見るようでもある。

マンガ化された『日本沈没』一色登希彦版3

『日本沈没』発売当時の新聞広告など1

『日本沈没』の小説と映画の成功は、1975年公開のハリウッド映画『ジョーズ』 (原作ピーター・ベンチリー)にはじまるメディアミックス型ブロックバスター映画のヒット形態の、日本における「はしり」のようなものだったといえる。
ここに挙げた新聞広告に見られる刊行後の部数の上昇と話題の拡がりからは、そうしたメディアの拡大以前に、水俣病や四日市ぜんそくなど公害病の顕在化や1973年の浅間山の噴火といった「新しい社会不安」としての環境問題、米ソ冷戦を背景とした核の恐怖からくる終末ブームなどといった当時の不安な世相が『日本沈没』ヒットの背景にあったことがわかる。
ケース内のパネルは、小松家で作られていたスクラップ帳から、部数の伸びの分かるものを選んだ。

『日本沈没』発売当時の新聞広告など2

『日本沈没』1973年版映画

製作、配給 東宝
本編監督 森谷司郎
特撮監督 中野昭慶
脚本 橋本忍
出演 藤岡弘、いしだあゆみ、小林桂樹 他
  1973年12月公開。カッパ・ノベルスでの小説刊行前から田中友幸プロデューサーによって東宝での映画化企画は進められていた。その後のTVドラマ化も決定しており、映画とドラマの撮影は同時に進められたものだという。この映画版は国内では配収16億4000万円をあげる大ヒットとなり、その後ドイツ、アメリカをはじめ、世界各国で公開された。原作の小松左京だけでなく、『日本沈没』執筆のきっかけをつくった地球物理学者、竹内均も劇中にカメオ出演している。
ケース内は劇場パンフレット、特集が組まれた『キネマ旬報』1973年12月下旬号、サントラEPジャケット、台本、DVD。

『日本沈没』テレビ版、ラジオ版

"空前のベストセラーとなった『日本沈没』は、映画・マンガだけでなく、ラジオやテレビなど多様なメディアでコンテンツ展開されたメディアミックス作品だった。1973年10月からはNRN系列でラジオドラマ(主演:江守徹、太地喜和子、全130回)の放送が開始され、1974年10月からはTBS系列で映画と同時に撮影のはじまったテレビドラマ版(主演:村野武範、由美かおる、全26回)の放映がはじまっている。このテレビドラマ版は1996年LD-BOX化、2001年には全9巻でDVD化されるなどソフト化もされている。また、1980年にはNHK-FMで再度ラジオドラマ化(主演:鹿賀丈史、島村佳江、全10回)された。
ケース右にあるのはイメージソングとテレビ版主題歌のEPレコードジャケット。右側の台本がテレビ版最終話のもの、左側の台本が1980年版ラジオドラマ第1話から第3話の合本。

深海潜水艇 わだつみ

わだつみは、10万mを潜れるという設定の有人深海潜水艇。『日本沈没』の序盤を支える人気メカである。小松の『物体O』(1964年)にすでに登場していた。映像 化の際、デザインのモデルになったのは実際の深海潜水艇、初代の「しんかい」(1969年完成/最大深度600m)であった。 初代しんかいは赤いボディだが、わだつみは白いボディ。しんかいの後継艇も白いボディになっており、架空のSFメカと現実の技術に影響関係がみられる。
ケース内中央は、2009年発売のガレージキットによる模型のわだつみ。右は初代しんかいの模型。奥の写真は映画撮影中のスナップで、映っているのは小松と 森谷司郎監督。左の写真は第二回SFショー(1974年)時に、映画の撮影に使用されたわだつみの模型が貸し出された際のスナップ。

『日本沈没』2006年版映画、幻の1999年版映画

配給 東宝
製作 「日本沈没」製作委員会
監督 樋口真嗣
脚本 成島出、加藤正人
出演 草彅剛、柴咲コウ、豊川悦司 他
1973年公開の映画『日本沈没』が大ヒットしたため、同年末には早くも続編映画の公開が予告されていたが、予定されていた小説続編が出版されなかったこともあり、この企画はけっきょく流れている。阪神・淡路大震災後の1998年、映画監督の大森一樹と小松のあいだで松竹での映画版リメイク企画が立ち上がるが、これは松竹側の製作費調達の行き詰まりから中止された。その後、TBSや小学館などの出資による製作委員会方式をとって実現したのが2006年版リメイクである。興行収入53億4000万円、アジア圏を中心に海外公開もされている。
ケース手前にある台本は松竹版のもの。模型は2006年版に登場する「わだつみ6500」のモデルとなった「しんかい6500」の、2012年発売のプラスチックモデル(バンダイ)。松竹版台本には「しんかい6500」が実名で登場している。奥は2006年版のDVDとそのジャケット。

『震災'95』

小松が、自身も被災した阪神・淡路大震災を記録したのが『大震災'95』(1995-96年)である。毎日新聞土曜版連載、全53回。
ケースには連載の中から「中途階座屈」に関する箇所を入れた。ケース右パネルは、連載序盤の第9回、被災したビルの中途階のみがつぶれる現象に小松が目をとめたが、いくら調査しても原因がわからなかったことが記された記事。ケース中央とその奥は、しばらくして、その現象を以前から研究していた学者・那谷晴一郎から便りがきたことがきっかけで、原因が解明されていく連載終盤の50回目。那谷からの便りのいきさつが記された小松の直筆原稿と、同回の新聞切抜き。左パネルは中途階座屈現象を扱う最後である連載第51回の記事である。

小松左京 地上からの最後のメッセージ

小松が地上から去った2011年には、東日本大震災が起こった。
1995年の阪神・淡路大震災時には『震災'95』をはじめ多くのエッセイや取材記事を書いている小松だが、2011年の東日本大震災時には、老齢であったこともあり、ほぼ一切取材を受けていなかった。だが、同年6月ごろ、この震災に関わる二つの仕事を受けた。 ひとつは『毎日小学生新聞』へのインタビューを受ける形で。これは7月16日・23日・30日の三回にわけて掲載されている。もうひとつはSF作家たちによる評論集『3・11未来――日本・SF・創造力』(作品社)の序文。これは、長年小松のマネージャーを勤めていた乙部順子が聞き書きし、小松のチェックを受けまとめできたものだという。
つまり、小松は子どもと若い創作者、つまり未来を担う人たちに向けてのメッセージを残して、地上から去った。 ケースには、毎日新聞の該当号の切り抜きと、『3・11の未来』の書籍を展示した。受付壁の横に、これらメッセージを読める形でパネル化してあるので、よく読みたい方はそちらをご覧いただきたい。