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『米沢嘉博と本・明治大学・コミックマーケット』
対談:米沢英子×間宮勇(学長室専門員長・法学部教授)

オブザーバ参加
・安田かほる(コミックマーケット準備会・共同代表)
・藤本由香里(国際日本学部准教授)
・森川嘉一郎(国際日本学部准教授)


第2章 米沢と明大
●本の街神保町に憧れたはずが……。
米沢 米沢は1953(昭和28)年3月生まれ、学年的には1952(昭和27)年度になります。明大には一浪して入ったのですが、東京の大学というか神保町に憧れていたようです。それと非常に仲の良い友人が明大の政治経済学部にいたこともあって、同じ大学を受けたと思います。
間宮 神保町に憧れていたというお話ですけど、米沢さんは工学部ですよね?
米沢 ええ、実はほとんど下調べをしていなかったらしく、ともかく明大と言えば全部が神保町の近くと思っていたらしいです(笑)。入学願書の提出で本部に来て、そうしたら「ここではなくて生田ですよ」と言われたわけですが、熊本の人間が生田の場所を知っているはずもなく、あわてて場所を聞いて向かったそうです。しかも、それが願書受付の締めきり一時間前ぐらいで……。
間宮 工学部の学生ということは、ずっと生田に通っていたわけですね。
米沢 ええ、生田のSF研究会に所属していたのですけど、よく駿河台まで遠征していったそうです。
間宮 マンガ関係というか文化的な活動は学生時代からかなりやっていらした?
米沢 そうですね、高校時代から映画研究会などの活動をやっていたそうです、それから時代的に学生運動の影響があって、高校生の頃はそういうことでも飛び回っていたようです。
間宮 大学に入って学部でどういう勉強をするかというのではなく、大学というのは色々な文化的な活動をするための場所だったということですか?
米沢 ともかく東京に来て、本が沢山読めて(笑)、音楽や演劇や色々な物に触れたかったのでしょう。
間宮 その後、具体的に様々な評論活動をしていくわけですが、卒業後の主要な活動の場というのはどういったことになるんでしょうか?
米沢 卒業はしなかった、と言いますかできなかった(苦笑)。月曜日の一時間目が体育の授業だったそうで、その前の日曜日には必ずコミケなどの集会があって、それがお開きになると必ず米沢の自宅で集まって朝までしゃべるという流れができていたので。何しろ本人は友人に帰れと言えない性格だったので……。
●サークル<迷宮>での活動
間宮 学生時代のそういった活動をそのままずっと続けていくことになったのですか? そのままずっと自分のやりたいことを続けていけるのか、それともどこかで断念するのかというのは、今でも沢山の若い人たちにも関わることです。
米沢 当時知り合った方とか、やっていた編集のバイトなどがその後の基盤になっていきます。彼にとって<迷宮>という評論サークルに関わったのが大きなことでした。当時の漫画大会というイベントや雑誌「COM」の流れがある中で、米沢も含めた3人で<迷宮>いうマンガ評論の場を作ったことが、コミケを作ることにもつながっていきました。
間宮 そういう『場』を創るのには相当エネルギーが必要ですよね。熱心にやる人たちが集まって、ある程度継続して、ようやくそれが形になっていくと思うのですが。
米沢 3人の中では亜庭じゅんさんという方が、精力的にマンガ評論をされていたので、それにかなり影響を受けていました。米沢が一番若く学生だったということもあり、当時は相当夢中だったのでしょう。
間宮 影響の受け方ですが、いろんな形があると思います。若いうちだとその人たちにどんどん影響を受けていって染まっていったり、また単にこの人たちについて行こうというというケースもありますよね。
米沢 <迷宮>の場合、原田央男さんと亜庭さん、米沢の3人とも、方向性が違いました。その中で、米沢はサブの立場で両方の間に立って手伝っていました。
間宮 自分の経験からすると、グループが作られると、普通、何らかの共通の意識ができて、何か一緒にやっていこうという仲間意識が生まれて、一体感のようなものを作りたがることになりませんか?ところが、今のお話しをうかがっていると、常に同じ方向に向かっているという意識やある種同志的な結合をもたらすようなことは、無かったのかなと感じられます。そういうグループがどういう形で動いていくのか、興味があります。
米沢 <迷宮>の成り立ちにも関係してくるのですが、亜庭さんは当時のマンガ評論の同人誌の世界では第一人者的存在で、その人が就職で東京に出てくるので、3人とも自分たちが書きたかったことをまとめて、その時点での最高の少女マンガ評論やろうということでできた。サークルを作るのが目的なのではなく、各自の評論はそれぞれ評価するけれど、関連性を保ちながらも個々人での評論をやろうということです。
間宮 皆さんが評論活動を展開していく中で、少女マンガというのはどういった意味をもったのでしょう?私自身は小学生高学年の頃、マンガは何でも好きで、少年誌を読んだ後は横にあった少女マンガも読んでいたので、少女マンガというのを全然知らないわけではないのですが、当時の少女マンガには独特の意味があるようですね。
米沢 それまでは乙女ちっくなものが主流でしたけど、1970年代の萩尾望都さん、大島弓子さん、竹宮惠子さんを中心にした新しい少女マンガでは、精神的な事柄を題材にしたものなどが現れてきて、少女マンガの中でいろいろなジャンルが増えていきました。ともかくありとあらゆるものが出てきて、色々な人たちが様々なジャンルを描きだして、少女マンガという言葉では括れない本当に多様な表現が現れて、そういうことに受け手の側もうまく重なっていったんだと思います。
間宮 それまでと違う少女マンガということですが、それこそレベルが違うというか次元が変るジャンプがあったのでしょうか、それとも徐々に入れ替わったのですか?
米沢 60年代後半くらいから、若い世代の描き手が一斉に登場してくるんですね。それまでは、少女マンガでも男性マンガ家主導だったところに、若い作家が同じ世代の女の子たちに語るという形で出てくる。とくに、萩尾・竹宮・大島という、いわゆる「花の24年組」と呼ばれる作家たちが、内面に深く踏み込んだテーマ設定といい、「少年」を主人公にしたことといい、またコマ割り等の表現の形式の変化といい、まったく新しいタイプの少女マンガを作り出した。それが、今までの青年マンガや少年マンガにはない新しい可能性を広げたということです。米沢さんたち<迷宮>の人たちは、その可能性にいち早く注目していました。
間宮 手塚治虫さんとか石ノ森章太郎さんといった人たちが、最初に少女マンガを描いていたというのを何かで読んだ記憶があるのですが、そういうことと70年代の少女マンガの可能性が広がったことには何か関係があるのでしょうか?
藤本 少女マンガは新しい分野だったので実験が可能でした。60年代に特に石ノ森さんが「少女クラブ」でかなり実験的なことを描かれているのですが、そういう下地があったので、新しい人たちが出てきた時に非常に新しい表現ができたとも言えます。
米沢 当時の新しい描き手たちは、少女マンガだけでなく、少年マンガも見て育っています。どちらかというと、少年マンガのほうが好きだという人も多いんです。
間宮 実験というのは具体的にはどういう試みだったのですか?
藤本 コマ割りなども、それまでの規則的なコマ割りとは全然違いますし、いわゆる24年組以降の少女マンガでは、客観的な物語から主観的な物語へ、つまり内面を語るために物語がある、という流れが強く出てきますよね。
米沢 昔の少女マンガの主人公は運命に流されていくことが多かったのですが、主人公が自立しているんです。
間宮 それは時代背景が影響している?
米沢 そういう影響があったと思います。
間宮 その後、米沢さんはずっと様々な評論活動などに携われてきたわけですが、特別力を入れていたことはあったのでしょうか?
米沢 彼はともかく何でも興味があったし、何でも好きだったし、基本的には何でも吸収したいタイプでした。そして、とにかく「これが一番」というのは絶対言わない。がんばって「選ぶんだったら、その中ではこれが好きかな」くらいですか。どのマンガが一番好きかとか、どのマンガ家さんが一番好きかという質問が一番苦手だって言っていましたね。
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