『徳川幕府刑事図譜』のこと
1 『徳川幕府刑事図譜』の意義
これは,1893(明治26)年に刊行された作品で,江戸の罪と罰の世界を迫真の筆で描いています。徳川政権のもとで250年以上続き,今日ではうかがい知ることさえ困難な刑政を告発するために,63枚の図版を掲載しています。
勧善懲悪的なストーリーが,紙芝居のように展開し,倒幕後の文明開化の図と対比して,見る人に時代の変革を印象づける構成となっています。『図譜』は,まさに江戸時代の刑罰史の生き証人ともいえる作品です。明治大学博物館所蔵の資料として,出版報道で数多く利用されてきましたが,その全貌はまだ十分に知られていませんでした。
2 原作者の制作意図
この作品の原作者は,疾風怒濤の幕末,安政の大獄を回想し,国難に立ち向かい非命に斃れた勤皇愛国の志士を哀惜する心情から,他とまったく異質な一枚の図を挿入しています。「安政年間 勤王志士憂憤の図」を見るとき,もしも
吉田松陰や坂本龍馬ら前途有為な青年たちが存命したなら,近代日本はまた別の道を歩んだだろうという思いを強くします。
しかしながら『図譜』は,明治政府の近代化政策を手放しで称賛するものでもありません。王政復古の欺瞞に気づき始めた同時代人の視線をたくみに取り込み,犯罪と刑罰は,近代社会でも市民に身近な問題だったことを気づかせてくれます。
3 混迷する現代社会で
さて,安政の大獄から150年,明治維新から140年,『図譜』出版から115年を超えて,改めて日本の姿を見ると,深刻な混迷の時代を迎えていることに慄然となります。
なぜなら,かつて我が国は,世界でもっとも安全な法治国家といわれました。けれども昨今では,凶悪犯罪が続発し,安全神話は完全な昔話と化しました。のみならず,イジメや家庭内暴力は,社会に暗い影を投げかけています。これらの急を告げる事態を思うとき,我が国は,いま新たな国難に直面しているといっても過言ではありません。
4 人権尊重の願いをこめて
こうした時代環境の中で,私たちはこれまで以上に犯罪・刑罰について関心を持ち,社会秩序を維持する精神を育んでゆくことが必要といえます。一人ひとりが法意識を高め,次の世代に暮らしやすい世の中を継承してゆくために,自覚と責任感をもって行動することが要請されているのです。
明治大学博物館は,万人に開かれた「知」のアーカイブスとして,80年近くにわたってさまざまな学術資源を収集し,国民共有の文化遺産としてそれらの資料を保存し公開してきました。
この作品で,江戸の刑政にふれていただき,罪と罰を再生産してきた過去を率直に振り返るとともに,人間理解を深め現代社会のあり方を見直すきっかけとしてくださるよう念願してやみません。
おことわり
『図譜』には,差別的あるいは不適切な表現が用いられていることがあります。これらの表現は,今日から見れば明らかに不当であり,人道上決して許されるべきではありません。しかし差別解消,人権擁護の立場から,歴史史料としてありのまま掲載しています。
差別的あるいは不適切な表現の不当性を正しく認識していただき,人権尊重に一層のご理解をお願い致します。