考古部門

考古部門 Archaeology

展示内容

考古学は人類の過去を探り、その時の生活や文化を再構成する学問です。そのため考古学者は遺跡を発掘し、過去を復元する証拠を探すのです。明治大学では1950年に文学部考古学専攻ができて以来、旧石器時代から古墳時代にいたる各時代の遺跡を調査研究してきました。その中には現在、出土資料が重要文化財に指定されている群馬県岩宿遺跡・埼玉県砂川遺跡・神奈川県夏島貝塚・栃木県出流原遺跡などが含まれています。
考古部門では、50年以上にわたるそうした調査研究の成果を公開しています。いずれも戦後日本の考古学の発展を促した重要資料なのです。

展示内容

旧石器時代
石器時代は、旧石器時代と新石器時代に大きく二分されます。そのうち旧石器時代は、ふつう前期・中期・後期の三時代に区分されます。
岩宿遺跡の発掘による「原史世界の拡張」以後、列島で発見された旧石器時代遺跡のほとんど全ては、約3万5千年前から約 1万2千年前に遡る後期旧石器時代に相当し、今なお前期・中期に相当する最古の列島人類文化の探求がつづいています。
岩宿遺跡の発掘と原史世界の拡張

刃部磨製石斧 刃部磨製石斧打製石斧 打製石斧

群馬県岩宿遺跡は、1949年に発掘が行われた日本列島で最初の旧石器時代の遺跡です。縄文時代を遡る赤土のなかに眠っていた石器文化は、それまで存在が認められていなかったのです。その後1951年の東京都茂呂遺跡の発掘調査を皮切りに、全国各地で遺跡の発見が相次ぎました。「原史世界の拡張」です。
無土器時代、先土器時代とも呼ばれた日本列島の旧石器時代には、現在5,000ヶ所以上の遺跡が知られるようになりました。
最初の旧石器時代編年

槍先形尖頭器 槍先形尖頭器ナイフ形石器 ナイフ形石器

「原史世界の拡張」は、杉原荘介と芹沢長介により1953・54年にあいついで発表された最初の旧石器時代編年案へと結びつきました。古い方から順におおよそ、岩宿I、茂呂、岩宿II、上ノ平へと変遷する、いまでいうナイフ形石器文化から槍先形尖頭器文化への編年観が形づくられました。
そして、ナイフ形石器文化から槍先形尖頭器文化につづく旧石器時代の最後の石器文化として、細石器文化が見だされました。これにより、列島旧石器時代の大枠が完成したのです。
旧石器時代のムラと文化の変遷

打ち割り工程の接合例 打ち割り工程の接合例

埼玉県砂川遺跡での石器接合などにもとづく詳細な遺跡研究からは、旧石器時代の集団が移動生活を営んでいて、幾つかの遺跡がまとまって一つのムラになっていたことが分かりました。例えば河川流域などに広がる遺跡群が移動生活の舞台だったのでしょう。
そうした遺跡群の一つである神奈川県月見野遺跡群では、近接する遺跡相互で石器の出土層位が比較されました。その結果、石器文化の新旧関係が明らかにされ、文化の変遷とその構造を研究する基礎となったのです。
石槍の文化と石材原産地

槍先形尖頭器未成品 槍先形尖頭器未成品槍先形尖頭器 槍先形尖頭器

旧石器時代には、黒耀石やサヌカイトなど原産地が限られているのに地域をこえて利用された石器原料があります。
黒耀石の採石と石器作りが盛んに行われた長野県鷹山 I 遺跡 S 地点のような遺跡が信州霧ヶ峰一帯に現れるのは、後期旧石器時代なかばに槍先形尖頭器(石槍)が登場してからです。
そのとき関東地方は黒耀石を通じて信州とつながり、黒耀石の一大消費地となりました。しかし、遠くから来た大切な石材なので、移動生活を送りながら少しずつ大切に使われたようです。
細石器文化の広がりと系統

湧別技法による細石核白滝型 湧別技法による細石核白滝型矢出川技法による細石核矢出型 矢出川技法による細石核矢出型細石器

細石器文化が、はじめて日本列島で確認されたのは1953年、長野県矢出川遺跡でした。細石器文化は小さな細石刃を組み合わせて道具とした旧石器時代終末期の石器文化です。代表的な文化系統の一つは、北海道から東北、上越など日本海沿岸に拡がる楔形をした細石核の分布地域です。湧別技法という細石刃の剥離技術に特徴があります。
細石器文化の本来の文化圏は東アジア一帯にあり、幾つかある列島細石器文化の系統も大陸と連動していたと考えられています。
縄文時代
縄文時代は、全世界的な気候の温暖化と歩みを合わせて列島に登場した土器、石鏃、竪穴住居など生活をめぐる新しい文化要素によって旧石器時代と画されます。縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分され、各時期は土器型式によってさらに細分されています。
縄文時代の研究は、土器型式にもとづく編年研究を基礎にして、多様な生業や生産の実態の復原をめざし、さらには縄文社会の具体的な内容に迫ろうとしています。
夏島貝塚と縄文海進

尖底深鉢形土器夏島式 尖底深鉢形土器夏島式

神奈川県夏島貝塚は、関東地方では最も古い貝塚の一つで、縄文時代早期前半から前期にかけて形成されました。
夏島貝塚の第一貝層が堆積したころはまだ陸続きでしたが、凡世界的に海水面が上昇した縄文海進極相期にあたる縄文時代前期には海中の孤島になったと考えられます。
貝塚に残された炉址や遺物、動物遺存体は、周囲の環境が変わるなかで夏島人が狩猟・漁労・採集などさまざまな活動をしていたことを物語ります。
縄文時代の生産活動-土器製塩-

法堂遺跡の「特殊遺構」における製塩土器の出土状況 法堂遺跡の「特殊遺構」における製塩土器の出土状況

縄文時代の後期末から晩期初頭になると、霞ヶ浦沿岸に製塩遺跡が登場します。薄手の製塩土器で海水を煮詰めて、塩を生産する土器製塩です。茨城県法堂遺跡では、多量の製塩土器が出土した「特殊遺構」が見つかっています。「特殊遺構」には厚い灰の堆積があり、製塩址であると考えられます。遺跡からは9,000点に達する土器片も出土していて、塩の生産が集中的に行われていたと思われます。
当時、関東一円には製塩土器を多量に出土する製塩遺跡と少しだけ出土する集落遺跡が分布していたので、塩の生産と消費をめぐる人と塩の動きがあったことが分かります。
縄文時代の生産活動-黒耀石採掘鉱山-

採掘原石の打ち割り具 多孔台石(左)と敲石(右)両極剥離痕をもつ石器 両極剥離痕をもつ石器

縄文時代でも旧石器時代に劣らず人々は石器作りに黒耀石を大いに利用していました。ところが、その黒耀石を原産地で手に入れる方法は大きく異なる新しいものでした。地面を掘って黒耀石を採掘していた鉱山が長野県小県郡長門町の鷹山遺跡群にある星糞峠黒耀石原産地に残されていたのです。
1991年から行われている発掘調査によって、いくつかの採掘址から草創期、早期、後期の土器が出土しています。実際の採掘には「竪坑」と呼ばれる竪穴が地下に眠る黒耀石の鉱脈をねらっていくつも掘られていたことが分かりました。
縄文晩期の世界

注口付土器大洞BC式 注口付土器大洞BC式遮光器土偶 遮光器土偶

縄文時代晩期の東日本には、亀ケ岡式土器と総称される土器群などいくつかの土器型式が分布しています。山内清男は亀ケ岡式土器を大洞B、BC、C 1、C 2、A、A’式に細分し、晩期土器編年の基本となる枠組みが作られました。
また、先行する縄文時代後期に引きつづき、晩期でも土偶に代表される優美な呪具・装身具が数多く生み出され「亀ケ岡文化」の特色ともなっています。弥生時代への移行を目前にひかえた縄文人の精神世界の一端をかいま見ることができるでしょう。
弥生時代
弥生時代は日本列島で米作りがはじまった時代です。年代でいうと紀元前5~7世紀頃にはじまり、紀元後3世紀の半ば頃に次の古墳時代へと移行しました。この時代には「クニ」といえるようなまとまりができ、「王」と呼ばれる人物も登場してきます。また、朝鮮半島や中国との交渉が非常に活発になるのもこの時代です。つまり、弥生時代とは前方後円墳によって示されるような古代の王権が出来上がる前の、激動の時代だったといえるでしょう。
考古学では、弥生時代を前期・中期・後期の3時期に区分します。前期の前に早期を考える人もいます。いずれにしても、弥生時代の動きを年代的にとらえるために区分しているのです。
日本列島における稲作の開始

壺形土器(板付1式) 壺形土器(板付1式)

私たちの食生活の中心であるコメは、今から8,000年ほど前に中国の長江中・下流域で作り始められました。5,000年前頃になると稲作はアジア各地に広がり始めます。日本列島で水田を伴う稲作が始まるのは、それよりも2,000年以上後のことです。
稲作はまず北部九州に伝わりました。このときが弥生時代の開始時期です。そしてまもなく、急速に西日本一帯に広がっていきます。「遠賀川式土器」と呼ばれる土器様式の広がりは、初期の稲作の広がりを示すものと考えられています。
列島北部の稲作遺跡

砂沢遺跡出土土器(砂沢式) 砂沢遺跡出土土器(砂沢式)

初期の稲作の広がりは、ほぼ名古屋と福井を結ぶラインの西側にあり、東へ、そして北へ行くほど時間的に遅れるものと考えられていました。しかし、そうした定説は1987年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、弥生時代前期の水田址が発見され、大きく見直されることになったのです。ただし、東北での稲作は長く継続的に行われることはなかったようです。きびしい天候がそれを許さなかったのでしょうか。
再葬墓の「発見」

壺形土器(須和田式) 壺形土器(須和田式)

東日本の弥生時代初期の遺跡で、地面に掘られた穴(土坑)の中から1個ないし数個体の壷形土器が発見されることは戦前から知られていました。しかし、そうした遺構の性格はよくわからず、祭りの跡であるという説と墓ではないかという説がありました。
1961年、千葉県佐倉市の岩名天神前遺跡の発掘調査が行われ、壷の中から人骨が見つかりました。この発見によって、この種の遺構が墓であることが明らかになったのです。
また、骨を入れた壷の頸部が細いことから、何らかの遺体処理を行ったものと推測されたため、「再葬墓」という概念が出されました。
再葬墓とは何か

顔面付土器 顔面付土器

「再葬墓」とは文字通り2回の葬儀を執り行う墓制です。1回目は、人間が死んだ後にその遺体を骨にするときです(1次葬)。2回目は骨になった遺体を壷に入れて埋めるときに行います(2次葬)。
こうした行為自体は「再葬」と呼ばれ、弥生時代に限らず、縄文時代から古墳時代、果ては現代にいたるまで行われています。再葬墓とは、東日本の縄文晩期から弥生中期にかけての時期に、壷を棺として埋葬した墓制のことを特にそう呼んでいるのです。
南関東の弥生時代

神奈川県伊勢山遺跡出土土器(宮ノ台式) 神奈川県伊勢山遺跡出土土器(宮ノ台式)

南関東地方が本格的な農耕社会に入るのは弥生時代中期のことです。この地方で「宮ノ台式土器」と呼ばれる土器を製作・使用していた時代です。宮ノ台式土器の時代には、南関東に環濠集落が登場し、それを中心に地域のまとまりができてきました。
また、西日本からの墓制である方形周溝墓の出現や、石器から鉄器へと道具の材質が代わっていくのもこの時代のことでした。宮ノ台式土器の時代は大きな画期だったのです。
弥生時代後期になると、中期の環濠集落が解体し、地域社会が再編されたようです。環濠集落を含む集落は小型化し、内陸部へと進出します。土器の特徴も小地域ごとに違いが際立ってきます。
こうした様々な社会の動向が次の古墳時代への移行を準備したのです。
弥生後期の地域色

神奈川県二ツ池遺跡出土土器土器(二ツ池式) 神奈川県二ツ池遺跡出土土器土器(二ツ池式)

弥生後期には関東地方一円で個性豊かな土器群が展開し始めます。南関東の弥生土器では、戦前に久ケ原式、弥生町式、そして前野町式という3つの土器型式が設定されていました。その後、70年代以降になると発掘調査が進んで、それらとは違う土器も知られるようになってきました。臼井南式・朝光寺原式・吉ケ谷式といった型式がそれです。また、関東全体の土器群の整理が進むなかで、これまで久ケ原式・弥生町式とされていたものの中にも、厳密にはそれらとは異なる土器があることがわかってきました。二ツ池式土器と呼ぶ土器などがそうです。
弥生青銅器

武器形青銅器と銅鐸 武器形青銅器と銅鐸

弥生前期末に朝鮮半島から剣・矛・戈・鐸・鏡などの青銅器が伝来しました。特に剣・矛・戈といった武器形青銅器は北部九州を中心に発達します。それらは、もともとは実戦的な武器でしたが、やがて殺傷能力を失い、首長の権威の象徴となりました。北部九州においては首長個人のものとして、その墓に副葬されましたが、後期になると祭りの道具となり、地中に埋められるようになります。
銅鐸は近畿地方を中心に独自の発達を遂げます。鐸は祭りで使われる楽器でしたが、やがて音を出す機能を失い、儀式のための道具となりました。鐸も集団の祭器として地中に埋められました。
古墳時代
古代に造営された高い塚(墳丘)をもつ墳墓を古墳と呼びます。墳丘をもった墳墓は弥生時代にすでに登場していますが、現在は定型化した前方後円墳の成立をもって古墳時代と考える説が主流になっています。
古墳は、本州・四国・九州において紀元後250年頃から600年頃まで作られました。考古学ではこの350年間を前期・中期・後期の3期に区分しています。また、前方後円墳の造営が終了した後の、7世紀代に造営された方墳・円墳・八角形墳などのことを終末期古墳と呼んでいます。
日本列島東部の古墳時代

三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡

東日本の古墳時代は、前方後方墳の登場で幕を開けます。近畿での古墳の出現とそれほど変らない時期です。そして、古墳時代中期には全長200mを超える巨大古墳が築造される一方で、東北地方南部でも関東とほぼ同じ時期に、また北部ではやや遅れて古墳が出現し、終末期に至るまで継続的に古墳が造営されました。
これまで古墳時代の研究は近畿を中心に進められてきましたが、近畿の外側から見直されようとしてきています。
古墳と古墳群
古墳は単独で造営される場合もありますが、多くの場合数基ないし十数基で群をなしています。こうした複数の古墳のまとまりを古墳群と呼びます。古墳群は、ふつう比較的大型の前方後円墳を中心として中小の前方後円墳・円墳など、大きさや形の異なるもので構成されています。また古墳時代後期には、多い場合には数百基もの小型墳が群集した群集墳が形成されています。群集墳の成立は、古墳に埋葬される人の範囲が広がったという意味で、古墳時代の大きな節目になりました。

重圏文鏡 重圏文鏡底部穿孔壺形土器 底部穿孔壺形土器

円筒埴輪の出土状況 円筒埴輪の出土状況円筒埴輪 円筒埴輪

古墳時代土器の研究

壺形土器 壺形土器

古墳時代の土器には土師器と須恵器の2種類がありますが、ここに示すのは弥生土器の系譜にある土師器の方です。関東地方における古墳時代土器の研究は、戦前に杉原荘介氏によって基礎がきづかれました。戦後、五領遺跡の調査によって古墳時代の土師器の全貌がほぼ明らかになり、五領遺跡出土土器を標式として五領式土器が設定されたことで、現在の五領式-和泉式-鬼高式という編年序列ができあがりました。 
五領式土器

五領遺跡A区発掘調査風景(1962年) 五領遺跡A区発掘調査風景(1962年)

五領式土器とは埼玉県東松山市の五領遺跡から出土した土器群に対して、金井塚良一氏らが設定したものです。基本的な特徴は、弥生土器的な文様装飾を省略して無文化していることと、新たに小型精製の器台と坩(小型の壷)が土器のセットに加わっていることにあります。
五領遺跡出土土器には近畿の土器を模倣したものが比較的多く見られ、それらが在地の土器群に対して影響をあたえたことで五領式土器が成立したのです。 
古墳の終焉

環頭 環頭

近畿地方では7世紀になると前方後円墳の築造を停止します。しかし、高塚の墳墓は円墳や方墳として引き続き造営され、さらに7世紀半ばには大王の墓として八角形墳が新たに創り出されました。
東日本では7世紀以降にも前方後円墳が継続して造られていましたが、主流になったのはやはり円墳・方墳であり、横穴墓なども盛んでした。また、近畿地方においては大王の墓であった八角形墳や上円下方墳が関東でも築造されています。この時代の近畿と地方との関係を物語る出来事といえるでしょう。 

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