「明治大学広報」
 
第567号(2006年1月1日発行)
新春座談会2006 「明治のアイデンティティを語ろう」
   変革時代にこそ母校ほ絆を
  出席者:村山富市
       (元首相、校友会名誉会長)
       二宮 充子
       (モントリオール五輪・柔道無差別級金)
       松瀬貢規
       (学務担当常勤理事、理工学部教授、広報編集委員長)
学生時代を振り返る
村山 「配給のきび粉をコンロで焼いて食べたり」
二宮 「卒業後も、ずっと明治のお膝元で」
上村 「明大の4年間が、私の全てをつくってくれた」
明治大学は1881年の創立以来、社会に有為な人材を多数輩出してきました。
 本日は、各界で活躍されている卒業生の方々にお集まりいただき、一大変革期を迎えた「大学改革」の将来と明治大学のあり方、明治大学への想いなど“母校愛”を語っていただき、厳しい中にも明るく希望膨らむ、新春にふさわしいお話を伺いました。
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○松瀬(司会) 本日は、明治大学を卒業され、各界でご活躍の方々に、学生時代を振り返るとともに卒業してからの印象、さらには、明治大学を“社会”から見て、どこが評価でき、どこを改善しなければならないのか。また、これからの明治大学に何を期待するか―などについて、ざっくばらんに伺えればと思います。
 まず、学生時代のこと、明治大学に寄せる思いを、村山さん、お願いします。
○村山 学生時代は戦争中で、いつ兵隊に行くか、いつ戦場に行くか、いつ死ぬかというようなことばっかり話をするような状況でしたから、そういう意味で学生時代の思い出というのは少ないですね。将来のことをお互いに話し合うということは、あまりなかったです。
 毎日学校に来ると、脚絆を巻いて、国民服を着て、軍事教練ばかり。そして、1944年に学徒動員で石川島造船所に行きまして、徴兵検査を受けて、20歳の時に都城の歩兵部隊に入隊。そして45年8月15日に終戦です。やめたときは幹部候補生の軍曹ですよ。それから大学に戻ったのですが、翌年には卒業ですから、ほとんど勉強らしいことはせずに卒業証書をもらったというような格好です。
 在学中に大島豊という先生がいまして、先生は当時、明大から離れていました。僕ら先生を慕うグループがあって、戦争が終わって復学すると、そのグループでまた、哲学研究部というのをつくったんです。その哲学研究部が大学と交渉して、大島先生を大学に戻して―という話をして、先生が大学に戻ったんです。それからは、大島先生を中心にしてやってきました。
 僕は、哲学研究部の委員長を仰せつかって、お互いに親睦を深めながら、戦後のことについていろいろ語り合ったりしました。今でも2カ月に1回くらい、東京で駿哲会(駿河台哲学研究会)ということで、毎回10人前後集まっています。
 僕らの先輩が、荻窪に家を買って駿哲寮という寮をつくったんです。戦争から戻ってきて、みんな寮があるのを知っていますから、寮に帰ってくるわけです。戦後でしょ、何もない。きび粉というのが配給になるけど、きび粉は水では固まらない。当時、電気コンロで沸かしたお湯できび粉を練って、コンロの上の網に置いて、せんべいみたいに焼くんです。ところが停電が頻繁にあって、どうにもならない。そんな生活をしていましたね。
○上村 ここ(駿河台)に校舎はなかったんですか。
○村山 ありましたよ、記念館は。だけど、焼けたところの周囲なんていうのは、それこそ焼け野原で何もないんです。そういう厳しい状況の中で一緒に生活しているから、友情は切っても切れないわけです。
○松瀬 駿哲会ですか、哲学者だったんですね。
○村山 いやいや、そんなに勉強していませんよ(笑)。
○松瀬 二宮さん、いかがですか。
○二宮 私は、大変怠け者の学生でしたから、司法試験の受験勉強に本格的に取り組むまでは、教室にいるよりは、遊んでいたことのほうが多かったような気がします(笑)。
 1・2年生の和泉には当時、小さな食堂が1つだけ、街にも定食屋が1軒だけなんです。昼休みにはそこに、ワーッと学生が溢れますから、お昼を食べそこなうわけです。それで仲間を誘って新宿まで食べに行きます。そうすると、「あっ、もう帰っても授業ははじまっている、じゃやめようか」というような、大変困った学生でした。
 3年生の秋に、司法試験受験のために、駿台法科研究室に入りました。すると今度は、学校に来るというのは授業ではなく、研究室に行くことみたいな状況でした。
 1961年に卒業して、63年の司法試験に合格しました。司法修習が終わってから2年間、明治大学の法学部で民法の助手をしていましたが、はしごの先が雲の中に消えていっているような学者という職業は、到底私の成し得るところではないと見切りをつけまして、弁護士登録をしました。
 明治大学では、77年ぐらいから92年まで兼任講師として、民法のゼミナールを担当していました。そんなこんなで、卒業してからも、司法試験に合格するまでは毎日研究室へ来ていましたし、合格してからも後輩の指導なんだか、邪魔なんだかわかりませんが、大学に来ていました。連れ合いも明治卒業の弁護士で、一緒に法律事務所を開き、しかも神田にありますので、ずっと明治のお膝元にいます。現在は、校友会千代田地域支部で楽しんでいます。
 ですから、私の人生と明治大学というのは全く区別ができない。自分の人生を何かで語るということになったら、明治大学しか出てこないという感じです。
○松瀬 明治大学は、女性の法曹人を多数輩出しています。
○二宮 大先輩のこれまでの功績は本当に素晴らしい。私がひとつ反省しているのは、女性法律家が日本に誕生してから100人目が、63年の司法試験合格者の中の誰かに当たるはずなんです。今になって考えてみますと、そのあたりをもう少ししっかり意識していたら、母校のために、あるいは後輩の女性のために、何かしら貢献できたのかもしれませんが、そういうことを全く意識せずに、ただただ楽しんできてしまったということは、申し訳ないことをしたなと思っています。
○松瀬 先生の活躍をみて、学生は大変喜んでいますし、励みになっています。

○松瀬 上村さん、お願いします。
○上村 私は、明治大学がどこにあるのか、柔道が強いのか、何も知らないで受験しました。弱い高校の柔道部員でしたし、インターハイも出ていません。
 なぜ明治大学を受けることになったかといいますと、国体にたまたま団体戦の1人として出ました。私はインターハイに出ていないから、誰が強いのか知らない。チームメートが、「おまえの相手は弱いから取ってこい」というんです。それを真に受けて、5人全員一本勝ちしてしまいました。それで、スカウトに来ておられた当時の明治の監督の神永昭夫先生から声をかけられたんです。私からみると、神永先生は神様みたいな人です。「おまえ、明治に来い」と言われ、私は2つ返事で「はい、お願いします」と言いました。どこにあるのかも知らないで(笑)。
 高校に帰って、担任の先生に「明治大学から声がかかりましたので行きます」と言ったら、「おまえの頭じゃ受からん、勉強しないと落ちる」と。それで、毎日練習が終わってから、担任の先生が2時間英語の補習をしてくれました。そうして、どうにか入学することができました。
 明治へ入学した時、ものすごいカルチャーショックを受けました。大ショックを受けました。入学後1日目の練習をやってみて、50人の部員の中でどのぐらい強いかをはかってみると、5番目でした、後ろから(笑)。とんでもない柔道部に入ったと思いましたね。
 それと入学した頃私は大学でレギュラーになればいいと思っていた。しかし、他の部員はもう世界を目標にしているんです。五輪を見ているんです。私とは目標設定が違っていたのです。ゆえに私は全然強くなれませんでした。最初の試合が4月にありました。1回戦で私は、首を絞められて落とされて負けました。柔道で一番みじめな負け方です。私はそのとき柔道を辞めようと思いました。
 そして、講道館の片隅に座っていたとき、神永先生から、ある言葉をいただきました。「春樹、人並みにやったら人並みにしかならない。まして素質がない者は、人の2倍、3倍練習しなければチャンピオンになれない」と。柔道を辞めようと思っていた私は大感動しました。もし予選通過ラインをクリアしていたら、同じ言葉を聞いても耳を素通りしたでしょう。辞めて熊本に帰ろうと思ったときだからこそ、私を奮い立たせるのには十分すぎる言葉でした。
 そうは言っても、人の2倍、3倍なんてできないですね。そこで何をやったか。1日人より20分だけ多く練習をしました。20分を1年間やると120時間になります。大学の練習は3時間ですから、40日分に相当します。これをやってきただけなんです。でも、なかなか強くならなかった。
○松瀬 手ごたえを感じはじめたのはいつごろですか。
○上村 世界を目指そうと思ったのは学生チャンピオンになった大学4年頃です。
 明治大学のあの道場の4年間が、私の全てをつくってくれたし、私に世界を意識させてくれた。その中でも技がかからないのには理由がある、負けるには必ず敗因がある、勝ちには必ず勝因があるということを、教えてもらったことが、後で大きく役に立った。
 在学中は、学園紛争まっただ中で、勉強というより柔道をやりました。しかし、その柔道によって、青春時代の一番大切なものを得たような気がします。それは、続けること、量をこなすこと、当たり前のことをきちんとやることの大切さを気づかせてくれたことです。それが今の私の全てのベースになっています。明治大学の4年間がなかったらと思うとゾッとします。ほかの大学に行っていたら、私はこうはなってなかった。
 明治の柔道部の良さは、非常にOB会が結束していることです。面倒みがいい。みんないろんなことでも我がことのように心配して集まってくれる。明治大学柔道部で良き先輩や同期、後輩に恵まれました。
○松瀬 アテネでは、柔道チームリーダーとして、金メダルをたくさんとるなど活躍されました。ご自身は、モントリオールで、神永さんの仇を討っての金メダルですね。
○上村 私の前に、明治の先輩2人が五輪の無差別級にトライしました。神永先生と篠巻政利先輩。私が3度目の正直なんです。私が一番体は小さいし、体重も少ないし、弱かった。強かった先輩たちが勝てなくて、一番弱かった私が勝ったんです。勝負ってわからないものです。 私も、明治大学にはすごく愛着があります。私のところには、3人ほど明治卒の社員がいますけど、みんないい子です。でも、全くほかの大学と変わらない。ちょっと寂しいです。
○松瀬 “期待されるもの”がだんだん見えてきました。
さらなる評価のために
○松瀬 では次に、各界で活躍されているみなさんからみて、明治大学は今、社会的にどのくらいの評価を受けているのか、どうすればさらなる国内的、国際的な評価を得ることができるのか。キーワードだけでもお願いします。
○二宮 やはり、歴史とか伝統とかいうものは、不思議な力を持っているのかもしれません。私は東京弁護士会に所属していますが、この会ははじまって以来、女性副会長は5人しか出ていません。その2代目が1962年明治大学卒業の亀井時子先生。3代目が私で、昨年の副会長の橋本佳子先生が、全然知りませんでしたが、「実は明治です」って。5人のうち3人が、明治の卒業生なんです。そういう意味では、多くの女性の先輩がいてくださるということが、このようなことにつながっているのかもしれないと思っています。
 伝統も歴史もとても大事なものですが、それにいつまでも乗っかっているわけにはいかない。私が今、ちょっと寂しいなと思うのは、私が修習生や若手の弁護士だった時代には、よく仲間から「おまえ、おぉ明治だから」と言われたんです。それは決して悪い意味ではありません。「誰々さんは明治だよ」、という話が出ますね。事件の相手方にしても何かにしても、誰々さんは明治だよと、両方が明治だとわかると、途端に信頼し合ってしまう。親しくなってしまう。そういうところが、最近、なくなってきているような気がします。
 これは受験の傾向を見ても、言えると思います。私たちの時代には、あまりありませんでしたが、明らかにスクールカラーの違う大学を併願する人がたくさんいますね。そういった部分で、「おぉ明治」になるといいのではないかと。
○松瀬 スクールカラー、確かに薄れてきていますね。いいお話をいただきました。
○上村 明治大学の卒業生には、村山先生をはじめ、さまざまな分野で活躍されている方が日本全国にたくさんいらっしゃいます。そういった方々と会う機会があるのですが、残念ながら横のつながりが弱いような気がします。
 校友会などが盛んに活動しているのは知っていますが、残念ながら私はまだ参加したことありません。参加するチャンスがなかったという方が正解かもしれません。明治大学を卒業した、いろんな方がいるのに、「あの人は明治だ」と言われないと気付かないというのは、ちょっと寂しいような気がするんです。
 それから、私と同じ職場の明治卒の3人はよくできます。大変いい子で頑張り屋なんですが、どうもみんな同じタイプなんですね。私から見るとどうしても柔道部のイメージを抱いてしまうものだから、明治のカラーがないという気がします。五輪を目指す選手を選考するとき、どういう選手がほしいかというと、平均して80点じゃなくて、ある部分で100点以上のものを持っている選手です。ほかの部分は30点しか持たなくていい。そういう選手を鍛えてはじめて金メダリストができるのです。学生時代は、いろいろな分野で、何でもいいから俺が一番という自信を持てるものを身につけてほしい。
 また、明治の先輩後輩ということで1対1の付き合いは非常に面倒みていただきますし、仲良くお付き合いさせていただくんですが、どうも塊になったときのまとまりが、少し弱いという気がします。著名な方も、ご自身のキャラクターで勝負されている人が多い。「明治」つながりというものが出ていません。「明治」というまとまった何かがあると良いのですが。
○松瀬 「明治」を出すためにはどうでしょうか。
○上村 これだけ立派な校舎もできましたし、ここでお祭りを1週間でもやって、全国の校友を集める機会をつくったらどうかと思います。校友会は1日だけですから、忙しい人はなかなか参加できません。1週間あると何とか。そういう思いを持った校友も多いと思います。このようなところから徐々にはじめて、卒業生のパワーを結集するというのが、ひとつの手だと思います。
 もうひとつは、学生はやはり何らかの形で鍛えなければいけない。運動部でも今は定期的にAO入試で入学してくるのに、何で勝てないのかということです。採れなかったときの明治が強くて、採りやすくなったときの明治が弱いというのは、ちょっと考えものですよね。負けるのは必ず何かが間違っていると、私は思います。
 私も日本柔道の強化で、世界柔道に勝つため何をしたかというと、今までやってきたことを、柔道界の常識を1回全て否定することから始めました。そして新しいものをつくろうとしました。ですが、やったことは先人達が説いてきた、本来の柔道の姿そのものだったのです。結局それが正しかったんです。しかし、今でも今やっていることが本当に正しいのかどうかを常に自問しながらやっています。
村山 「母校にはお互いを結ぶ強い絆があるんですよ」
二宮 「よく『おまえ、“おお明治”だから』と言われて」
上村 「学生時代は、俺が一番という自信が持てるものを」
変革時代にこそ母校ほ絆を
○村山 母校の絆―。それはみなさん必ず心のどこかに持っている。以前総理として海外に行ったとき、日本人会の人が歓迎してくれました。そのときの相手が紹介するのに、「私は明治です」と言うんです。僕のことを明治だと知っているわけです。「明治」と言うだけで、「あぁそうかい」と言って、それこそ長い間の友達みたいな親しみを感じる。母校にはお互いを結ぶ強い絆があるんですよ。
○上村 確かにそれはありますが、行く前に、あそこに明治の誰々がいるという、そういう情報がないんです。ある大学は、それが非常に行き届いている。あるところに行くと、たくさんの明治の方がいるんですが、誰も教えてくれません。私が明治だということを、柔道関係の人は知っていますから、「私も明治です」となりますけど…。事前に相手のことを「明治」と知っていたら、もっといいお付き合いができると思うんですが。
○村山 社会が変わってきて、大学そのものが改革を求められ、少子高齢化の中、お互いに生き残りのために一生懸命競争しているというような状況です。先端を切り開いていけるような大学にするために、明治大学としても立ち後れないようにしなくてはならない。
 社会はすぐ役に立つような人、即戦力を求めるという傾向があります。以前は、新入社員を会社で教育して、鍛えて、そして優秀な職業人をつくっていましたが、今はそんなことする余裕がない。会社に入ってすぐ戦力となる人材を求めています。そういう社会の要請に応えるために、高度な職業人を養成する大学院ができていますね。基礎的な学問・理論を勉強する、研究していくということも大事なことですが、実践的な、社会に出てすぐ役に立つ、社会が期待する人材を養成していくことも大事なことです。それは今、大学においても理事会・教授陣一体となって時代の要請・社会の期待に応える大学にするため、努力されています。それを校友会もバックアップしていくため努力しています。
 子どもは親の背中を見て育ちますね。学生は先輩の背中を見て育つんです。ですから、先輩の社会でバリバリ働いている姿をみて、あの人は我々の先輩だということで誇りを感じ、一生懸命頑張るわけです。そういう意味で、校友の存在、果たす役割も大きいと思います。
 大学も“象牙の塔”で、社会から孤立しているということではなくて、社会に情報を公開して社会に問い、そして社会の評価も受ける。これからの大学は、そうして鍛えられていくのではないでしょうか。勉学にスポーツに大いに頑張ってほしいと思います。
○松瀬 明治大学も、法人・教学一体となって改革を進めています。大学全体が盛り上がるように、ご出席のみなさんにも大いに明治大学の宣伝をお願いします(笑)。
 どうもありがとうございました。(了)
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