赤塚キャラには、様々なプロトタイプが結び付いて、一つのキャラクターとして完成していくパターンが往々にしてある。チビ太もそうである。チビ太の原型は、赤塚ギャグマンガの原点「ナマちゃん」(『漫画王』1958- 62年他)に登場する乾物屋の息子・かん太郎である。同作へのかん太郎の登場は60年ごろと思われる。チビ太の原型が「おそ松くん」に登場するのは、連載第2回の『週刊少年サンデー』62年17号である。当時はまだ鼻が丸いが、キャラクターが定着するにつれとがって上向きの鼻になる。また最初は決まった名がなく「チビ」と呼ばれたりしており、「チビ太」の名で呼ばれだすのは63年後半である。
チビ太と聞いて思い浮かぶのは、おでんを持っている姿ではないだろうか。チビ太が最初におでんを手にしたのは『週刊少年サンデー』1964年17号である。だが、パネルやケース内にある品々のようにおでんを持ち嬉しそうにしているチビ太は、マンガ全体を通して案外少なく、食べることができず悔しい思いをする回も多い。チビ太のおでんへの執着は、赤塚が思い描く終戦直後の貧しさの象徴でもあるだろう。不運な境遇ながらも、本能の赴くまましぶとく生き抜こうとするチビ太の存在は、年々ひ弱になっていった当時の現代っ子に対するアンチテーゼだったのだろう。ケースにはおでんを持ったチビ太が表紙の単行本、グッズなどを展示した。
当時のチビ太人気は、1967-69年に『少年ブック』で、チビ太を主人公に迎えたスピンオフ作品「チビ太くん」がスタートすることでもうかがいしれる。また、近年では93年ごろから、サークルKのおでんのマスコットキャラクターとして登場し、2013年まで「チビ太のおでん」という商品が発売されていたことは記憶に新しいだろう。
ケースには、チビ太を主人公にした単行本『チビ太くん』(コダマプレス/1966年刊)、『チビ太くん』(朝日ソノラマ/全2巻 /69年刊)、『チビ太』(双葉社/全3巻/74年刊)他、チビ太がメインビジュアルになっている雑誌、人形などを入れた。
「ひみつのアッコちゃん」は、赤塚不二夫の少女マンガの代表作。赤塚は、映画雑誌『映画の友』に載っていた、ルネ・クレールの「私は魔女と結婚した」(「奥様は魔女」の原題)のリメイクが制作されるという紹介をヒントに、ヒロインが魔法の鏡で様々なものに変身するというアイデアを創案。その後の「魔女っ子もの」ブームの先駆けとなった。
正面展示は、「ひみつのアッコちゃん」初掲載の『りぼん』6月号から、変身シーン。当時の鏡は大きめで、魔法の呪文は逆さ言葉だったことがわかる。ななめ右上は、連載翌年の63年3月号扉絵。初代「アッコちゃん」には、「アッコはふしぎなかがみをもってます」で始まる言葉が、毎回扉ページ近くに入っていた。ちなみにアッコちゃんの本名は加賀美あつ子。その造形は、初回はヘアバンドが無かったくらいで、以降もそれほど大きな変化はないといえる。
アッコちゃんといえば、その代名詞とされるのが魔法のコンパクト。変身する前の呪文「テクマクマヤコン・テクマクマヤコン」、元に戻る際の呪文「ラミパス・ラミパス・ルルルルル~」が有名である。この呪文は、テレビアニメ化に合わせ『りぼん』1968年11月号から再度連載されたアッコちゃん第2作、第1話からの登場である。
展示のぺージは、その再連載版第1話の変身シーンよりの複製原画。3つのコンパクトはそれぞれ、テレビアニメ第1作放映時(マンガの再連載時)のもの(中央)、アニメ化第3作(1998年)の際制作されたもの(左)、2012年実写映画化の際、化粧品ブランドSK-Ⅱとのコラボで制作されたもの(右)である。
※下の画像は第2期のもの
「ひみつのアッコちゃん」のテレビアニメは、第1作以降、1988年、98年と二度にわたってリメイクされており、親子2代にわたってアッコちゃんに親しむファンも少なくない。2012年には、人気女優・綾瀬はるかを主演に、実写版「ひみつのアッコちゃん」が全国松竹系で劇場公開された。展示品は、アッコちゃんの単行本の数々のうち、各バージョンの1巻を入れた。そのバージョンの多さにアッコちゃん人気がうかがえる。ケース手前のコンパクトとドレッサーは、98年のアニメ放映時に販売されたもの。
独特のポーズで「シェー!!」と叫ぶイヤミ。この「おそ松くん」の大人気キャラは、エキストラからのスタートだった。初お目見えは『週刊少年サンデー』1963年20号のモブシーン。が、翌21号でインチキ医者として再登場し、25号で、キャラクター名を「井矢見」と名付けられるにいたる。1963年後半から64年の前半ごろまでに「シェー!!」の奇声とポーズ、「ざんす」の語尾などが段々と確立していく。自称「おフランス帰り」という設定が登場するのは1964年20号からである。
イヤミといえば、「シェー!!」とそれに付随する奇妙なポーズ(時に勢いがつきすぎて靴がすっぽ抜け、靴下までもが抜けかける)が有名である。最初に「シェー!!」のポーズを決めたのは、イヤミではなく『週刊少年サンデー』1963年43号に登場したアフリカ人だった。イヤミが「シェー!!」の叫び声をあげるのは、64年19号が最初。「シェー!!」という発音は、「ヒェー!!」が、大きなデッパのせいで音がくぐもったためであろう。おフランス帰り、なのに一人称がなぜかミー、といったイヤミの胡散臭い舶来コンプレックスは、その破壊的なポーズとともに日本人の心を激しくつかんだのである。
イヤミが発する「シェー!!」の奇声とボディー・アクションは、1965年春頃より小中学生の間で全国的な流行を巻き起こすことになる。果ては、巨人軍の長嶋茂雄選手、映画「怪獣大戦争」におけるゴジラ、ザ・ビートルズのジョン・レノン、天皇家の浩宮徳仁親王といった各界の著名人までもが「シェー!!」を披露するに至っては、社会現象とさえいえる影響力を持ち、新造語として、老若男女問わず、たちまち世間一般へと広く浸透していった。それは日本の高度経済成長が最高潮に達した時代の季語であったといっても過言ではないだろう。
ケースには、「シェー!!」以外にもあるイヤミが表紙の雑誌やイヤミが主人公の単行本などを展示した。
赤塚マンガを象徴するキャラクターにして、赤塚不二夫自ら「最も好きなキャラクター」と公言して憚らないのが、 このバカボンのパパである。初登場は「天才バカボン」連載初回の『週刊少年マガジン』1967年15号。登場当初は後に定着する自由人のイメージとは違い、靴職人をしており、バカボンからも「パパ」ではなく「とうさん」と呼ばれているなど、微妙にキャラクター設定が異なっている。その造形にはあまり変化はないが、強いて言えばヒゲが最初はヒゲらしく、だんだんとハナゲと見まごう感じに変化している。また初期には「~なのだ」という語尾の多用はなく、『週刊少年サンデー』に連載されていた1969年36号から「~なのだ」が付き定着してゆく。
バカボンのパパの決めゼリフ「これでいいのだ」が、パパの口から初めて発せられたのは、『週刊少年マガジン』1968年34号。他にも「それでいいのだ」あるいは「いいのだ」など、森羅万象すべてへの肯定感を持つような言葉をパパは度々口にする。「これでいいのだ」は、1971年放映のアニメ主題歌の中のフレーズとともにお茶の間に浸透していき、次第にパパと作者・赤塚不二夫が重ねあわされてゆく。「これでいいのだ」は、今では赤塚個人の生き方を表す格言として、人々の心に沁みこんでいるのではないか。ケースには、「これでいいのだ」がタイトルに使用された赤塚に関する書籍類を展示した。
パパが盛んに発していた「タリラリラーン」「コニャニャチワ」といったフレーズは、当時の若者のあいだで日常用語の一つとして使われるようになった。また、連載初期、パパの周囲を困惑させる非常識な振る舞いは、天衣無縫な心情の表れとして描かれていたが、その作為なき無軌道は、天然ボケやバカさ加減といった概念を通り越し、過激なアナーキズムへと変貌を遂げていく。バカボンのパパを中心とするアナーキズムと哲学的含蓄を孕んだナンセンス・ギャグの往還は、幅広い層から熱烈な支持を受け、社会的なブームを巻き起こした。展示品はパパが表紙の雑誌や数あるバカボンのパパグッズから。
赤塚マンガには、画面の片隅に唐突に現れては消えていくマスコット・キャラが無数に登場するが、中でも特に大出世したのが、愛すべきイタズラ猫・ニャロメであろう。『週刊少年サンデー』1968年45号の「もーれつア太郎」でエキストラとして初出演を果たした3号後の48号では主役としてフィーチャーされ、「ニャロメ」と鳴いた。展示は該当シーンの複製原画である。この時はまだ人語を話さず、基本は四足歩行のネコ。翌69年『週刊少年サンデー増刊』(3月23日号)掲載の「花のデコッ八」に再登場した際、人語を喋り、肩で風切って、二本足でのし歩くニャロメのパブリック・イメージは完成したといえる。ニャロメが気になり再登場を希望したのは、担当の武居記者(R030参照)だったという。
ニャロメの登場により、「ア太郎」の世界観は下町人情路線から一転。ニャロメを主役とした抵抗劇がシリーズの大半を占めるようになる。踏みにじられても立ち上がり、あらゆる権威や常識に反発しては、玉砕していくニャロメのキャラクター像は、当時の学生運動家の姿勢とシンクロし、全共闘世代から熱烈な支持を受けるようになる。その人気は、東大全共闘ニャロメ派なるセクトが誕生し、ヘルメットやプラカードにニャロメのイラストが描かれるほどであったことからもうかがえる。当時が政治の季節であったことは、展示パネルの会話からもわかるだろう。ほか、ケース内の雑誌はニャロメが表紙を飾ったもの。
ここにはニャロメ人気の一端がうかがえる関連グッズや書籍を展示した。ケース左奥の『ニャロメの万博びっくり案内』(実業之日本社/1970年)はニャロメ人気にあやかって、万博の案内をニャロメがするというもの。右端の『ニャロメのおもしろ数学教室』(パシフィカ/1981年)はニャロメが主人公の学習マンガ。80年代とニャロメ人気のピークは過ぎたころと思われるのだが20万部も売れたため、その後もニャロメの勉強シリーズは続いた。どれも10万部は出たという。ほか、手前の箱にのっている「ニャロメの告白」は恋の伝言をニャロメがしてくれるというおもちゃ。
ベラマッチャは、赤塚不二夫自ら「最高傑作」と呼ぶ「レッツラゴン」最大の人気キャラクターである。初登場は『週刊少年サンデー』での連載第3話(1971年39号)で、登場から暫くは「クマ」と呼ばれていた。「おそ松くん」など他の作品に登場するクマと比べて、そのデフォルメがただの動物とは異なっている。本作以前の作品をみると、人間のような動物(あるいは動物のような人間)と、ただの動物は造形が初めからちがうことから、このクマも、最初からレギュラー化を前提とした登場だったのだろう。とはいえベラマッチャも、最初のころは後に固定するイメージとデザインは多少異なる。
展示したのはベラマッチャ初登場シーンの複製原画である。
ベラマッチャは、回を重ねるごとにもみあげあたりの毛の量が減り、最終的には無くなるなど、造形上の変化も多少はあるが、もっとも大きな変化は言葉の獲得であろう。登場当初は言葉が喋れなかったが、1971年46号で、仙人然としたヒゲ面の放浪者と遭遇。彼から日本語のレクチャーを受け人間語をマスターした。「タンキューベラマッチャ」(サンキューベリマッチ)等、何を言っても、語尾に「ベラマッチャ」と付ける口癖から1972年5号より「ベラマッチャ」と名付けられた。袋叩きにあったり、ライオンのエサにされたりと、目も当てられない仕打ちを受ければ受けるほど、キャラクターが生き生きと輝きを増していくその様は、元祖「いじられキャラ」といった存在だ。
「レッツラゴン」は、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」など、これまでキャラクターとともに紹介してきた赤塚作品の中では少しマイナーなイメージがあるかもしれない。だが、最初に紹介したように赤塚自身も高く評価し、自らを「赤塚不二夫の多くの作品の中のひとつ」であると述べる芸能人・タモリも一番好きな作品と述べるなど、再検証と再評価が進むべき重要な作品である。この2015年7月に、コントユニット「男子はだまってなさいよ!」によって舞台が公開。単行本のバージョンも多いので、ここではそのバリエーションをメインに展示した。現在入手可能な復刊ドットコムの単行本は、受付そばで手に取ることができるようにしている。
ウナギイヌの初登場は『週刊少年マガジン』1972年33号。夏のある日「天才バカボン」のアイデア出しのため、担当の五十嵐記者、アイデアスタッフらとともにフジオ・プロの会議室にこもっていた赤塚だったが、猛暑のため集中力がわかない。鰻の蒲焼きでも食べて精力をつけようとみなを誘うが、締め切りが迫っていた。そんな中生まれたのが、このウナギとイヌの複合生物・ウナギイヌだという。その初登場シーンの複製原画を展示した。
ウナギイヌは、初登場時は一言も話しておらず、おまわりさんに追い回された挙句バカボン一家の夕食になってしまった。他の大多数の実験キャラ同様一度きりで終わる可能性もあったと思われる。しかしよほど反響が大きかったのか、初登場翌々号の1972年35号扉で再登場。ほぼ同時に『週刊少年サンデー』で連載中の「レッツラゴン」にもゲスト出演した(1972年36号)。ここで"別の雑誌に出てきてしまった遠慮"からゴン達に丁寧な「ですます調」で挨拶し、それがやがてウナギイヌの話し方として固定していったようである。
ケース手前の『週刊少年マガジン』(1972年51号)はウナギイヌの特集記事掲載号。また、左奥の『小説マガジン』は創刊号からずっとウナギイヌが表紙を飾っていた雑誌。
ウナギイヌは、現在も東京ガス・エネファームのイメージ・キャラクターとして登場しているように、今なお幅広い層から絶大な人気を誇るキャラクターである。1973年にシスコ製菓の新商品・タックのCMキャラとして登場して以来、今日にいたるまで様々な広告メディアのマスコットとしてかわいがられている。また、2007年から12年にかけては、ウナギが名産である浜松市のマスコット・キャラに起用され、「はままつ福市長」に任命されたのも記憶に新しい。ケースにはウナギイヌが表紙に登場する単行本、そして人形の数々を展示した。
R030からR032は赤塚担当になり、マンガの中でキャラ化された編集者たちを紹介する。
赤塚作品では、一般に○○記者と呼ばれるキャラとしての編集者の役割は大きい。中でも最も有名なのが武居記者である。
モデルとなった編集者の本名は武居俊樹。1941年生まれ。早稲田大学卒業後、1966年小学館入社。『週刊少年サンデー』に連載された「おそ松くん」から「レッツラゴン」までを担当した。赤塚マンガ初登場は、「レッツラゴン」1972年22号だが、この時は赤塚とどつきあう台詞のみでの出演。その後1972年27号扉で、赤塚を鞭でしばく手のみで出演。この時、面長、デカバナという身体的特徴が文章で説明され、読者に武居の似顔絵を募集されたりしている。翌々号の72年29号で、読者からの似顔絵が複数発表され、同年32号で純然たるマンガキャラとしてデビューし、レギュラーキャラ化してゆく。小学館退社後の2005年『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』を上梓。2011年同作を原作にした「これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫」が全国東映系で劇場公開された。
「天才バカボン」には、「バカラシ記者」「デガラシ記者」など後ろに「ラシ」が付く名字の気になる編集者がよく出てくる。彼らのモデルの本名は五十嵐隆夫。1947年生まれ。高校卒業後、1967年講談社入社。「天才バカボン」の連載開始まもなく、『週刊少年マガジン』編集部に配属され赤塚担当となった人物である。「天才バカボン」への初登場は『週刊少年マガジン』67年45号。名前は「トガラシ記者」である。彼らは人相も性格もバラバラなのが興味深い。強いて言えば下がり眉に描かれる率が高い。
実際の五十嵐記者は、1986年『週刊少年マガジン』編集長に就任。2008年講談社専務取締役となる。五十嵐記者といえば、次号掲載用原稿をタクシーの中に忘れてしまい、入稿に間に合わないため、赤塚に再び原稿を描き直してもらったというエピソードが有名で、マンガ家と担当編集者の絆を物語る感動秘話として、ネット等でも流布している。本展示では後に戻ってきた紛失原稿の内1枚を、正面壁に展示している。
小林記者
本名小林鉦明。1943年生まれ。63年少年画報社入社。「カネさん」の愛称で慕われる。67年12月より「おでんクシの助」ほか数本の読み切りを担当した後、70年1月より「風のカラッペ」、72年3月より「おそ松くん」の連載を受け持つ。赤塚マンガには、比較的初期の段階から出演しており、フジオ・プロのお祭り騒ぎのような喧騒を過激にカリカチャアライズした「われら8プロ」(1968年)に、名前こそ出ないものの、顔立ちがそっくりな編集者が登場している。赤塚、武居記者、五十嵐記者の三人と飲み歩いた帰り、皆から羽交い締めにされ、フジオ・プロ近くの妙正寺川へ落とされ(殺され)かけたという伝説のエピソードを持つ。1984年秋田書店に移籍。『プレイコミック』の副編集長を務めた。
松井記者
本名松井清人。1950年生まれ。東京教育大学卒業後、74年文藝春秋入社。同社の三代目赤塚担当として、75年4月から77年3月まで「ギャグゲリラ」の連載を受け持つ。武居記者に負けず劣らずワルノリが大好きで、赤塚いわく「ジェントルマン揃いの『文春』にあるまじきタイプ」の人物とか。赤塚マンガ初出演は、「ギャグゲリラ」(『週刊文春』75年8月21日号)で、当人の性格が反映されたと思しきチャラついた編集者として登場する。赤塚担当を離れた後は、『週刊文春』『文藝春秋』編集長、第一編集局長等を歴任。2014年からは文藝春秋社代表取締役を務めている。
サカイ記者
本名坂井豊。講談社の編集者。初登場は『週刊少年マガジン』1974年41号掲載の「天才バカボン」。五十嵐記者の後任として、新たに赤塚担当となったことが紹介されている。ちなみに、同号では、時間に細かいが、モーレツにチャランポランで、長崎チャランポランメンが大好物であることや、恋人の名前といった個人情報までが暴露されている。尚、キャラクター造形は、イガラシ記者同様、その後様々に変貌するなど一定していない。後に同誌にて連載される「B.C.アダム」(1975年)も担当する。
林記者
本名林洋一郎。小学館の編集者。1986年当時、『ビッグコミックオリジナル』編集長で、後期代表作「「大先生」を読む。」の連載を立ち上げた。赤塚がお酒で体調を崩し、マンガの仕事がほとんど無くなっていた頃に連載を依頼した、赤塚にとっての大恩人。高校時代より石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」に所属し、早稲田大学在学中、トキワ荘で石ノ森のアシスタントを務めていたこともあり、赤塚とは旧知の間柄であった。この連載を契機に再びマンガの仕事が舞い込むようになり、赤塚はマンガ家として復活を遂げる。赤塚マンガ初登場は、「「大先生」を読む。」(『ビッグコミックオリジナル』86年24号)である。