No.00
アズ誕生 1
アズの誕生

アズは1966 ・昭和41年、小倉城の横にある北九州市立思永(しえい)中学校の2年生の教室から始まりました。

いくつかのタイトルの変遷はありましたが『アズ』という名前のかべ新聞が、その年の秋、区内新聞コンクールで第3位入賞を果たしました。ふたりの中学生、綾部承光と田中時彦(時やん/ケースNo.32参照)を中心にした、1コママンガ・4コママンガを載せたかべ新聞、これがアズの出発点です。

アズの名前は、「みんなと同じようにマンガを上手に描きたい」という願いを込めて、英語のas「なになにと同じだけ、同じように」からつけられました。

彼らよりもっと絵やマンガがうまい同級生は、他に何人もいました。ですがふたりには、ただただマンガが好き、マンガを描くことが好きだという熱い情熱がありました。その情熱はクラスメート4人を巻き込みました。この4人はほとんど初心者です。

同級生たちと同じように描きたい、追いつきたい、マンガが好きだ、という気持ちを、全部で6人のメンバーで形にした情熱のかたまりが、肉筆回覧誌『アズ』創刊号でした。それは1967年6月に出来上がりました。

このケースには、肉筆同人誌の『アズ』創刊号から4号までをほぼひと月ごとに交換し順に展示します。

No.01
アズアルバム 1

No.02
アズアルバム 2

No.03
アズアルバム 3

No.04
アズアルバム 4

No.05
アズアルバム 5

No.06
アズアルバム 6

No.07
アズアルバム 7

No.08
アズアルバム 8

No.09
アズ誕生 2
『COM』に憧れて

 初期の肉筆同人誌『アズ』をみると『COM』を意識して作られていたのがわかります。『COM』の誌名の下に入っている「まんがエリートのためのまんが専門誌」を意識して、『アズ』創刊号の誌名の下には「勉強ばかりする人には絶対みせない」とあります。

 『COM』は手塚治虫が「描きたいものが描ける雑誌」「新人を育てる雑誌」として、虫プロ友の会発行の会報『鉄腕アトムクラブ』を発展させて創刊しました。

 読者投稿コーナー「ぐら・こん」(グランド・コンパニオンの略)中の「まんが予備校」(のちの「コミックスクール」)は、プロ作家を大勢輩出し、当時のマンガ家志望者の憧れの場所となりました。また、『COM』誌上での呼びかけによって結成されたマンガファン交流組織の名称も「ぐら・こん」です。

 後に『COM』がなくなっても「ぐら・こん」の、「全国のマンガファンが相互の交流を図る」という意思は存在し続け、1972年の日本漫画大会、75年のコミックマーケットへと受け継がれ、マンガや同人誌やサブカルチャーを、世界に広げる現在へとつながっています。

No.10
アズ誕生 3
肉筆同人誌『アズ』

 肉筆同人誌『アズ』は、創刊してから1975年の2月まで、全部で19号、別冊をあわせて計20冊発行され、14冊が現存しています。肉筆同人誌とは、手描きの原稿をそのまま綴じて製本した同人誌です。当たり前ですが1冊しかありませんので、メンバーはその1冊を回し読みするわけです。遠くの人には郵送します。当時の『アズ』表紙は、初期は手描き原稿をそのまま綴じた絵表紙でしたが、9号以降はすべて黒い布張りの丈夫なハードカバーになります。これは回覧に耐えるものにするためであり、当時全国の肉筆同人誌を発行するグループに、ある程度共有されていた工夫でした。

 『アズ』の創刊当初、思永中学校の美術部員で構成されていた漫研「ガリペンサンド」には、絵やマンガの上手なメンバーが集まっていました。それに対してアズは「クサクラブ・アズ漫画研究会」としました。「クサ」は草野球のクサです。正規の部活動に対して、「学校外の部活動・クラブ」の意味だったようです。

No.11
神話の時代 1
『COM』で会員募集

 「神話の時代」とは、ここでは『COM』が刊行されていた時代、アズが肉筆同人誌を出していた時代を指します。元々は1997年「アズ30周年東京座談会」での、米沢嘉博(米やん)の言葉から来ています。

 その神話の時代、アズは最大の窮地に陥りました。

 創刊の盛り上がりから3号まで発行したところで、メンバーが中学3年生の受験生になり10月から3月まで休会。1968年4月、無事高校に進学したメンバーで4号を発行しましたが、高校が別々になることでメンバーもバラバラに。アズは慢性的な会員不足に陥ってしまったのです。

 そこで、『COM』誌上で会員募集を呼びかけました。記事が掲載されたのは8月号です。小さなコーナー記事でしたが、全国から50通を超える入会希望の便りが届きました。幸いにしてアズは窮地を脱します。

 9月、新生アズ漫画研究会の幕が上がりました。実力のあるメンバーが増え、お互いが作品を見せあって切磋琢磨することになりました。

No.12
神話の時代 2
『COM』同人誌賞受賞

 新生アズは、1968年には会員数が30人を超えました。みんなで力の入った号を重ねて出し続けた結果、1970年4月に発行した『アズ』10号が、1970年の『COM』10月号で発表された同人誌賞、佳作に入選。このときの佳作は上位入選なしの最高位。最高の名誉に、会は大いに盛り上がりました。

 この前後、アズは「ガリペンサンド」や「ティームコスモ」など他の同人グループと交流を持ったり、北九州漫画同人連合「はちの巣」に参加したり。マンガの同人活動をおこなうと同時に、グループどうしの交流も熱心におこなうようになっていきました。「ティームコスモ」は「スターシマック」の代表作をもつ後のマンガ家・関あきら氏主催の同人会。「はちの巣」は、当時北九州市にあった6つの同人会と5つの高校漫研を束ねた連合会でした。

No.13
神話の時代 3
月報『ほこら』、『コンパニオン』から『あお』へ

 機関誌『ほこら』は1968年10月に創刊されました。作品集の『アズ』とは別に、お互いの作品や本の編集を評価し、次回の作品づくりに生かす批評・感想文集です。ガリ版刷りでの発行でした。

 この『ほこら』は、月報『コンパニオン』を経て、ほどなく『あお』になり、メンバー全員に配られました。『ほこら』も批評・感想文集としてしばらく継続しますが、後に「ロンロン」というコーナー名となり『あお』や『あず』内に引き継がれました。

 このケースには1968年から79年までの『ほこら』、69年ごろの『コンパニオン』、68年から99年までの『あお』をスペースの許すかぎり展示しています。メンバーたちの交流の物量を感じてください。

No.14
神話の時代 4
プロデビュー、『COM』入選者続く

 1971年、メンバーの杉原方子(マコ姉)が『セブンティーン』でデビュー。メンバーから初のプロマンガ家が誕生しました。それに少し先だって、プロ志望のメンバーが「ぐら・こん」で入選しました。いとうあきお(アキさん・現アズ代表伊藤明生)は1968年に「ぐら・こん」の「まんが予備校」に2作入選し、数多くの、のちにプロになったマンガ家をおさえて年間合計得点第1位の伝説を打ち立てます。そして、マコ姉がデビューしたのと同じ1971年『COM』8月号には、アキさんの「ひととせの」が、ぐら・こん第1回COM競作集入選作として全編掲載され、実質上のデビューを果たします。同年の5 ・6月合併号に山本けいこ(おケイさん)も入選。「それ、後に続けー!」とばかりに盛り上がりを見せるなか、思いもかけないニュースが入ってきました。

 半年ほど前から予兆はあったものの、突然『COM』がこの年の12月号をもって休刊となってしまったのです。あまりにも唐突な『COM』休刊。衝撃でした。

 ケースに展示したのは、マコ姉のデビュー作「17歳の冒険」掲載誌(『別冊セブンティーン』12月号)。アキさんの入選2作「白い心」(『COM』1968年5月号)、「風」(『COM』1968年12月号)選評パネル、やはりアキさんの「ひととせの」掲載誌(1971年『COM』8月号)。おケイさんの「まんが予備校」入選(1971年『COM』5 ・6月合併号)選評パネル。

No.15
独自の活動に目覚めはじめる
『COM』との決別と「日本漫画大会」

 1972年4月、変わってしまった『COM』と決別するため、アズも参加しているマンガ同人連合会「はちの巣」は、『COM』火葬式を執りおこないました。アズからは当時の会長・高木峰代(おやぶん)が参加。焼いた灰は、『COM』本部へ郵便で送りつけたそうです。

 実際には『COM』に対してではなく、マンガ同人たちの心のよりどころ「ぐら・こん」がなくなって新創刊された『COMコミックス』への不満から、焼いて決別を表したわけです。今では過激な抗議と思えますが、これは当時の若者の抵抗として、その時代風潮と重なります。

 同年7月末、東京の四谷公会堂で第1回「日本漫画大会」が開かれました。おやぶん(写真中央)、おケイさん(写真右)、松田慎太郎(シンタロー/写真左/ケースNo.27参照)、明大に通う米沢嘉博(米やん/ケースNo.28参照)が参加しました。日本漫画大会は「日本SF大会」を下敷きにした1泊2日の合宿付きイベントで、『COM』なき後「ぐら・こん」に代わるものとして、同人たちの求める心のよりどころを具現化したものでした。初回の参加者は約400名、1972年から年1回、第10回まで継続しました。

 「アズとはちの巣」一行は、漫画大会で上京した折に『COM』編集部へ押しかけたそうです。おやぶんによると、その時、編集部のあるビルの階段に積まれた膨大な『COM』の返本の山を目にして、たかぶって押しかけたはずの気持ちがシュンとなったそうです。

No.16
最盛期 1
オフセット誌『あず』

 『COM』亡き後、アズは20名そこそこの少数精鋭のマンガ仲間となります。それでも肉筆同人誌『アズ』を出し続け、「アズ展」や「はちの巣」との合同作品展示会「北九州漫画祭」などを継続し続けました。「日本漫画大会」をはじめとして、各地のマンガフェア・マンガイベントへも参加し、そこへ「コミックマーケット(コミケット)」創設への動きが加わってきます。アズはたくましく世の中の動きを取り入れながら、地方サークルならではの独自の活動を進めていくことになりました。

 『アズ』の肉筆誌は1975年2月に発行された19号が最終号となりました。2月に交流した福岡のマンガ同人会「EOS」がオフセット本を出していたことに刺激を受け、6月にオフセット誌『あず』を創刊。500部発行しました。7月の第4回日本漫画大会に150冊持ち込み、70冊販売、残りは米やんに預けました。

 12月に第1回コミックマーケット開催。東京・虎の門の日本消防会館会議室。参加32サークル、参加者約700名。アズは、オフセット『あず』創刊号で委託参加しました。米やんが日本漫画大会で売れ残った創刊号を持ち込み、40冊販売と記録にあります。
 この年、会員が90名を超えました。

No.17
最盛期 2
ぞくぞくとデビュー1

 この頃、メンバーのデビューが相次ぎます。ケースNo.17-20には、70-80年代ぞくぞくとデビューしたアズメンバーたちのデビュー作を展示します。

展示品:アズメンバーのデビュー作
陸奥A子 1972年「獅子座うまれのあなたさま」『りぼん』増刊秋の号
文月今日子 1973年「フリージアの恋」
『別冊少女フレンド』7月号
山本けいこ 1973年「あめふり日記」『週刊少女コミック』26号
松島裕子 1974年「夏からの便り」『別冊なかよし』6月号

No.18
最盛期 3
ぞくぞくとデビュー2

 1978年、アズの会員は120名を超えました。この頃はイベントも多く、いつも原稿の募集と〆切ばかりでした。作品集の『あず』は年2冊発行し、夏冬のコミケットに間に合わせました。メンバーは勉学や仕事で忙しいなか、それでも原稿を見たり寄せ書きしたりして、みんなで創作意欲を刺激しあいました。アズは活動の最盛期を迎えます。

展示品:アズメンバーのデビュー作
あいきさだむ 1976年「ガンバレ落ち武者」『月刊少年ジャンプ』11月号
畑たいむ(田中時彦/時やん)1979年「スーパーぶたーまん」『週刊少年マガジンスペシャル』増刊6月20日号

No.19
最盛期 4
ぞくぞくとデビュー3

 1979年には、会員数が130名のピークを迎えます。会員のデビューも相次ぎます。この年には、ケースにデビュー作掲載誌を展示したメンバー以外に、SANZE摩利さん(しーちゃん)が『プレイボーイ』でデビューしています。きむらしんこさん(らむさん)は、雑誌デビュー前の1978年2月、映画「春男が翔んだ空」公開にあわせてのコミカライズ単行本を上梓しています。前年秋、制作途中のらむさんのアパートに、手伝いのメンバーが押し寄せたことが当時のメンバーたちの伝説になっています。

展示品:アズメンバーのデビュー作
すみだうみん(後にすみだ海N名義)1977年「すてきな一週間」『花とゆめ』2月20日号
田所美千子(ジョーさん)1979年「お姫さまお手をどうぞ」『なかよしデラックス』4月号
きむらしんこ(らむさん)1980年「舞子冬木立」『別冊花とゆめ』春の号掲載
関よしみ(伊藤かよこ名義/カヨちゃん)1980年「乙女椿の花の下」『なかよしデラックス』4月号

No.20
最盛期 5
ぞくぞくとデビュー4

 これ以前、これ以降も、メンバーから何人ものプロが出ました。
 ケースNo.31にアズに所属するプロ作家の書籍の一部を並べてあります。

展示品:アズメンバーのデビュー作
南里桃子(みさちゃん)1986年「真冬の昼下がり」『ジュリエット』3月号
もり・せ・いちる(森誠一郎)1987年
『マンガでならうロック・ギター入門』
松田慎太郎(シンタロー)1988年「テスト・ラン」『週刊少年チャンピオン』39号

No.21
『あず』がなかなか出せない頃 1
30周年、40周年号

 社会人となり適齢期になったメンバーの多くはポツポツと結婚し、おめでたが続き、それぞれが子育てを始めました。新年会・海水浴、メンバーが集まれば保育園・幼稚園のような状態となりました。これはこれで嬉しく楽しいのですが、メンバーも徐々に減って固定化し、サークルとして何よりも大切な活動、作品集『あず』の発行が滞り始めたのもこの頃でした。

 個人個人のあわただしい生活とは逆に、サークルとしてのアズの活動は静かにゆっくりと低空飛行に移っていきました。下関の夏祭り「馬関まつり」での似顔絵描き、その後の文月今日子邸での合宿を毎年の恒例行事としつつ、不定期の『あお』を心待ちにしながら、思い出したように展示会「アズ展」を開いていました。

 オフセット誌『あず』は、3年かけて1冊出すのを二度繰り返し、それから10年かけて30周年記念号、また10年かけて40周年記念号と、誰にも気づかれないのをいいことに10年かけて1冊を二度も繰り返していました。40周年記念号では表紙が布張りの特装限定版を100部作り、シリアルナンバー付きで販売しました。
展示品: 『あず』30周年記念号、『あず』40周年記念号表紙パネル、『あず』40周年記念号 布貼りシリアルナンバー付限定版、『アズ漫画研究会 40周年記念展』パンフレット

No.22
『あず』がなかなか出せない頃 2
作品集『スーパーあお』、連絡誌『ASOB』

 『あず』は、サークル外の読者を意識した作品集です。創刊からの伝統として、同人でありつつもレベルを保つため、わざとハードルを高くしてありました。

 世の中のマンガ同人誌は、それまでのサークルとしての総合誌から時代と共に変遷し、個人誌や数名でのユニット誌が主流となっていました。

 メンバー間でも親の介護がそろそろと始まり、アズの活動はさらに静かになっていきます。でも、誰もやめようと言い出しません。「みんなで集まれば楽しいし、やめるキッカケもなかった」とアキさんは振り返っています。

 『あず』がなかなか出せないからと言って、サークル内での作品づくりがなくなったわけではありません。外向きではないけれど、ちゃんとマンガ作品集『スーパーあお』を作っていたのです。よい作品は『あず』に転載される目標も立てました。

 『スーパーあお』は1981年5月創刊、1990年4月の最終17号まで発行。1984年に至っては、隔月で年6冊と驚異的なペースで出されています。毎号100ページ前後、一時は130ページを超えることもありました。

 それと重なるように、1982年から1986年の間、事務局代表のアキさんが個人誌として『ASOB』(AS&OB連絡誌、あそび)を出しています。これは、離れて行ったメンバーと少しでもつながっていたいのと、活動が停滞する窮地をなんとか脱したいあらわれだったのでしょう。

No.23
新たなるメンバーとともに、アズの未来が開けた

 そんなアズに、キラリとひと筋の光明が現れました。

 アズの大きな窮地を救ってくれたのは、個人誌・ユニット誌を作っていた二世世代のメンバーたち(未知流、しいたけ、なゆ、ハル彦)、そして新たなメンバーたち(ラクト、たおゆか、ひのもとめぐる、ののみやゆい、宮銀屋、螺子マキ、市岡慶子、ノノモリ、松尾ルイーズ、琴音、木桜利音)でした。アズが40周年を迎える2006年の少し前の時期から、彼女たちが一緒になって、穴蔵に引きこもっていたアズを再び表舞台へと引っ張り出してくれたのです。

 写真は2006年の40周年展、新旧の世代がつながった頃。カレンダーは二世世代のメンバーたちのイラストで作られた2013年のもの。

No.24
二世世代が世界へのとびらを開いた

 二世世代たちは日本を飛び越し、世界デビューまで果たしています。フランスのJAPAN EXPOをはじめ、世界各国のイベントや即売会などで若い世代がめざましく活躍し、人気を博しているのです。親世代はそれを後ろから応援しながら、自らも再びペンを握り直しました。

 アズ二世も含め、何人ものプロがメンバーに加わりました。

 マンガ同人の世界でも稀なことですが、こうして世代がつながったのです。

 世代がつながることで、さらに幅広くメンバーが集まってきています。

 年間で参加者100万人を大きく超えるイベントとなったコミックマーケット。そのコミケットやpixivなどネットの世界を新たな出発点として、世界をまたにかけて活躍し、世界的な規模で人気を博している二世世代のメンバー。新しく加わった力のあるメンバーたち。

 アズが再びにぎやかになってきました。

 写真は、海外で活躍するアズメンバーの様子。『めざせ世界デビュー』は、海外のイベントに参加した時のレポートや、海外イベントへの参加方法が書かれたアズの同人誌です。

 また、ケースNo.31には、新しくメンバーに加わったプロ作家の書籍の一部を紹介しています。

No.25
アズの活動

 アズの活動のメインは、作品集『あず』『As』の発行、作品展示会「アズ展」の開催、メンバーどうしが講師となって教えあう各種の「勉強会」です。その他に、夏・冬のコミケット、コミティア、地方の同人誌即売会への参加、地元イベントや「馬関まつり」の似顔絵描き、北九州市漫画ミュージアム「漫画体験」のお手伝い、その他ことあるごとに懇親会、新年会、総会をおこなっています。

 写真パネル中央は、1978年に北九州の夜宮青少年センターでおこなわれた例会の様子です。中央後手前は、1968年に会員が選ぶ最優秀作品賞として設けられた「アズ賞」の第4回授賞式。大賞は高木峰代(おやぶん)。

No.26
アズ展

 アズの沢山の活動のなかでも、注目に値するほど長く盛んに行われているのがアズ展です。アズ展は、メンバーによるマンガやイラストの原画展です。

 1970年3月に第1回が日明公民館(北九州市)で開催され、その後、年に数回開催されることもあるほど熱心におこなわれています。第9回のアズ展は、77年7月コミックマーケットC7会場にて楽書館、スクランブル残党との共同展示として開催されました。そして、78年以降は秋の恒例行事として定着していきます。

 アズ展の他にも、74年7月第4回北九州漫画同人展をアズが主催したり、75年11月うらしまったろー原画展&上映(ケースNo.4参照)、76年4月京都の画廊からはじまって数か所を巡回した絵本展など、数多くの展示を開催してきました。

 本年北九州市漫画ミュージアムで開催され、ここ明治大学 米沢嘉博記念図書館で開催されている「アズ50年展」もその流れの中にあります。

 写真中央上、第4回(72年3月開催)。中央下、コミケットC6での第9回アズ展の様子。

No.27
コミケの源流「モトのとも」とアズ

 第1回日本漫画大会(ケースNo.15参照)から生まれた萩尾望都研究会「モトのとも」は、後のコミックマーケット準備会につながる研究会です。実質的な主宰は、コミックマーケット準備会初代代表の原田央男(霜月たかなか)氏でしたが、当日夜の合宿所で「おーい、萩尾望都ファン集まれ〜!」と号令をかけたのは、アズの松田慎太郎(シンタロー)さんでした。

 コミケットの源流をさかのぼると、源流の源流は、まさにそこなのです。それがコミケットへとつながる「大河の一滴」を作り出しました。原田氏によると「モトのとも」は一晩で出来上がった会で、会の代表は発起人であるシンタローさんです。原田氏はハガキ通信の編集・発行者として会を束ねていました。

 翌年1973年8月の資料『別冊モトのとも』によると、リストにある42名中7名が「アズとはちの巣」メンバーです。もちろんそこに米やんの名前もありますが、米やんと原田氏が実際に会うのは、その資料が作成される少し前の7月末、第2回日本漫画大会でした。

 シンタローさんは1988年に『週刊少年チャンピオン』でデビューし、連載マンガ家となります。

 ケースNo.20にシンタローさんのプロデビュー作掲載誌、壁に代表作「NOボーイ」の原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

No.28
アズと米沢嘉博

 米沢嘉博(米やん)は、1968年8月号の『COM』での会員募集にともなってアズに入会しました。15歳。最年少のメンバーのひとりでした。後にマンガをはじめとするサブカルチャーの評論家、そして、コミックマーケットの2代目代表を2006年に亡くなるまで続けることになります。

 米やんはアズでマンガを発表しています。「ハローハーロー」(肉筆同人誌『アズ』1969年9号)、「火竜が笑ってる」(オフセット版『あず』1975年創刊号)、「風につかまえられて」(同1976年3号)、「バベルの塔のKの話」(同1977年5号)など。その多くが何か強迫観念に取りつかれた主人公を描く興味深い内容で、創作者を目指していた時期があることがわかります。

 コミックマーケットの源流となった「モトのとも」(ケースNo.27参照)の、1973年のメンバーには米やんも名を連ねていますが、コミケの初代代表である原田央男氏と親しくなったのは、「モトのとも」解散後。原田氏が所属している和光大学のマンガ研究会のメンバーと始めた「CPS」(コミックプランニングサービス)が、企画として作ることになった「11月のギムナジウム」(ダイナビジョン)の、スタッフ募集の呼びかけ集会に米やんが現れ、ギターが弾けるという理由で音響スタッフに加わった頃からだそうです。1973年10月のことでした。ダイナビジョンとは、静止画の絵をズームアップしたり、ヨコに移動したりしてあたかもアニメーションのように撮影した動画です。「11月のギムナジウム」は翌1974年7月に完成しました。

 さらに完成の翌1975年4月、後にコミックマーケット準備会の母体となるサークル「迷宮」が発足。米やんは「迷宮」の発足にあたって、原田氏に誘われてメンバーになったとのこと。

No.29
アズと陸奥A子

 陸奥A子さんは、アズの正式なメンバーになった記憶はないそうです。ですが、わかっている範囲でも、1975年の肉筆同人誌の最終19号にイラスト原画が綴られ、オフセット版『あず』に、むちA子名義で「れもんばばろあ色の夢」(1976年2号)、落葉樹名義で「ちょっときいてくれる?」(76年3号)などの作品が掲載。ほか、イラストカットも多数掲載されています。また、『あず』5号は陸奥さんによる編集号です。パネルはその5号の奥付ページ。あきらかに陸奥さんの字で書かれています。その他、このケースには陸奥さんの単行本を並べました。

 ケースNo.29には陸奥さんのプロデビュー作掲載誌、壁に原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

No.30
アズと文月今日子

 文月今日子さんがアズのメンバーになったのは1971年頃です。

 オフセット版『あず』1976年2号掲載の「ゆうれい小僧」、77年5号「サーカスの夜」、78年6号「お山の金時ちゃん」などには文月さんの作品が掲載されています。また、アズ恒例行事のひとつ、夏の下関「馬関まつり」の似顔絵の後、打ち上げ合宿は文月邸で開かれました。この集まりも1978年以降恒例となりつい最近までおこなわれていました。文月家は一家でアズの活動を支えてきたのです。

 このケースいっぱいの単行本群をみると、いかに文月さんが長年にわたってマンガ家として活躍してきたかがわかります。パネルはアズ30周年の際に寄せられた文月さんの文章。

 ケースNo.30に文月さんのプロデビュー作掲載誌、壁に原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

No.31
プロになったアズメンバーたち

 ここには、松島裕子(マンガ家)、関よしみ(マンガ家)、あいきさだむ(マンガ家)、松田慎太郎(マンガ家)、南里桃子(マンガ家)、きむらしんこ(マンガ家)、あさりまゆみ(イラストレーター・絵本作家)、印口崇(マンガ評論家)、甲斐絵恵子(マンガ家)、しばはら・ち(絵本作家)、松原香津美(マンガ家)、ひのもとめぐる(マンガ家)ほかアズメンバー各氏の単行本を展示しました。

 うち、松島裕子、関よしみ、あいきさだむ、松田慎太郎、南里桃子各氏のデビュー作は、ケースNo.17-20に展示してあります。また松島裕子さんと、松田慎太郎さんは原画を壁に展示し、ひと月ごとに展示替えします。

 このケースに入っている以外にも、アズには、いろいろな方面のプロ作家が所属しています。以下にプロ作家のメンバーを記します(敬称略)。

畑たいむ(イラストレーター・マンガ家/田中時彦/ケースNo.32参照)、すみだうみん(マンガ家/ケースNo.19にデビュー作掲載誌を展示)、もり・せ・いちる(マンガ家・イラストレーター)、松田慎太郎(マンガ家)、高木みねよ(POPライター・イラストレーター)、米沢嘉博(マンガ評論家)、岸あけみ(イラストレーター)、栗本かずみ(マンガ家)、岡部俊也(イラストレーター)、村田譲郎(メカニックデザイナー・イラストレーター)、星B太(キャラクターデザイナー)、太田しのぶ(イラストレーター)、羽生信之(イラストレーター)、浦谷千恵(アニメーター)、横山直子(プロダクトデザイナー)、木村直代(挿絵画家)、春日久美子(アニメーター)、しゅうさく(イラストレーター)、北野たつみ(マンガ家)、横手美智子(シナリオライター)、内田紀楽(マンガ家)、坂本正人(マンガ家)、杏仁豆風(アニメプロデューサー)、しいたけ(イラストレーター)、たおゆか(似顔絵師)、井ノ上タカヒロ(マンガ家)、宮下知子(似顔絵師・イラストレーター)、茉莉佳(写真家・イラストレーター)、山村武大(マンガ家・写真家)、里見篤(アニメーション美術)、望月(イラストレーター)

 彼らの作品の一部を、壁の「アズ・メンバーズワーク」コーナーにパネルで紹介しています。

No.32
アズと北九州市漫画ミュージアム

 2012年8月3日にオープンした北九州市漫画ミュージアムの館長は、中学2年生の時アズを立ち上げ、その後もずっとアズを支えてきた・田中時彦(時やん)です。長年地元のマンガ文化をリードしてきた人物として館長に選ばれたのです。現在は、旧唐津街道にあるあぜのまち絵本美術館の館長でもあります。

 時やんは、1979年に畑たいむ名義で『少年マガジンスペシャル』からマンガ家デビューしました(ケースNo.18参照)。その後も、新日鉄八幡製作所に勤めながら、長いスパンでマンガやイラストを描き続けてきました。昭和をテーマにしたノスタルジックな画風が特徴です。

 そうした縁もあり、アズメンバーは、北九州市漫画ミュージアムにおいて、「漫画体験」のインストラクターなど様々な場面で参画しています。

 ケースには、今回の展示のもととなった、北九州市漫画ミュージアムでおこなわれた『アズ50年展』図録と、畑たいむの仕事の一部を紹介しています。

同人誌印刷の歴史

 コピー機やPC用スキャナが普及している現在とは異なり、アズが生まれた1960〜70年代にマンガの同人誌を発行するのはとても大変でした。創刊当初の『アズ』が、原稿を綴じて本にして回覧する「肉筆回覧誌」だったのはそのためです。

 当時、個人で行える印刷方法は2つありました。

①謄写(とうしゃ)(ルビ・とうしゃ)版印刷
 いわゆる「ガリ版」印刷。蝋(ろう)(ルビ・ろう)を引いた紙に鉄の針で傷をつけて文字や絵を描き、その傷からインキを染み出させて紙に印刷するもの。
 「謄写」は原本の写しの意。イラストなども手で描き写す必要がある。

②ジアゾ式複写印刷
 いわゆる「青焼き」印刷。原稿に光を当てて、感光剤に反応させることにより、絵や文字など黒い部分と、白い部分の差を感光紙に複写するもの。
 写真の原理で複写するので謄写版より図版の再現性が高い。ただ、感光液を使用するため印刷後に乾燥が必要で、光で退色しやすい。「湿式コピー」とも呼ばれる。

 コピー機(乾式コピー)が普及し、文具店などで安価に使用できるようになったり、印刷会社が個人向けの少部数印刷・製本にも対応してくれるようになるのは、もっとずっと後、1980年代頃のことです。

 アズでは、コストなども考慮して1970年代から複数の印刷方法が並行して使われており、一つの本の中でも表紙は値段が高いが再現性の高い乾式コピーで、中のページは青焼きといった例もあります。

映像
アズクロニクル

パネル
アズの思い出

『アズ50年展』図録に掲載の、メンバーによる一コマイラストなど