マンガ少年内記稔夫 1

マンガに出会う(小学生のころ)


内記稔夫は終戦翌年の1946年、疎開先から東京に戻った。小学3年生の春だった。
幸い家は戦火を免れたが、すぐ近くまで焼け野原だった。マンガは数少ない楽しみのひとつ。
近所の子どもや貸本屋から借りて読み夢中になった。
手描きイラストは、みな内記によるもの。
「のらくろ」イラスト(大)は小3のころ描いたのらくろ二等兵。木製の小物入れは中学のころ制作。
のらくろ風キャラクターが彫りこまれる。雑記帳表紙には、(帽子から推測して)ロック・ホームと思われる手塚治虫のキャラクターが。雑記帳の「記」の上下に文字を足し「内記用」としているのがほほえましい。
このノートには他にもたくさんの手塚キャラクターが描かれている。
手塚作品には小5のころ、近所にできた駄菓子屋兼貸本屋で出会い、とりこになった。



マンガ少年内記稔夫 2

マンガ家への夢(中学生のころ)


ケース奥の「黄金バット」イラストは小4のころ描いた。「黄金バット」は街頭紙芝居から人気を得て、絵物語として刊行された後、続編が『冒険活劇文庫』に連載された。内記はこの雑誌を創刊号(1948年8月号)から、『少年画報』に誌名が変わった後も愛読した。
創刊号は紙芝居屋のおじさんが売っていたのを、姉とこずかいを出しあって購入した。
中学生のころには、将来マンガ家になりたいと思うまでになっていた。1951年、中1の夏、『少年』の愛読者欄「小天地」に、倉金章介の「ベンチくん」をはめ絵にしたマンガイラストを投稿し、入選した。これをきっかけに、大道社という会社のマンガ家養成の通信教育を受講した。受講生には、後にマンガ家となる楳図かずおがいた。

※ケース右のパネルは内記による「ベンチくん」のはめ絵。
『少年』1951年8月号、光文社掲載。「ベンチくん」は『少年』に連載された倉金章介のマンガ



マンガ少年内記稔夫 3

同世代の才能に衝撃(高校時代)


1955年新年号の『漫画少年』に、石ノ森章太郎(当時は石森)の「二級天使」の連載が始まり、内記は同じ歳の石ノ森の画力と構成力に衝撃を受けた。
同年の11月、高3で貸本屋の経営を始める。繁盛したら人を雇いマンガの勉強に専念できると思った。
が、翌年卒業し仕事中心の生活になると、店が楽しくてしかたなくなった。石ノ森や、トモブック社の楳図かずお(ウメヅカヅヲ)の『別世界』、日の丸文庫のさいとう・たかを(斎藤たかお)などの作品を通して自分の才能のなさに気づき、マンガ家への夢は消失していった。 開店当時から気に入って仕入れた作家の中では、永島慎二(当時は慎一)、つげ義春(つげよしはる)、そして松本零士(当時はあきら)などが、みなほとんど同じ歳だと後に知った。



貸本屋の時代 1

貸本屋について


貸本屋は古くは江戸時代からあった。戦後、保証金を取らず信用貸しをする方式で全国に広まり、1950年代半ばごろには3万軒以上に達したといわれる。だが、公立図書館の充実や、書籍が借りるより買う時代に移行していったことなどによって、1960年代後半には貸本専門出版社も含め相次いで倒産や転業することとなった。現在の在業者数は全盛期の1割にも満たない。が、庶民への読書普及への長年の功績は計り知れない。
ケースでは、貸本専用のマンガ単行本の判型の推移がわかる。1953年ごろには貸し出しに耐える丈夫な上製本(ハードカバー)のB6判(ケース手前右)やA5判(同左)が貸本用に出版されはじめ主流となった。60年ごろからA5判並製本(ソフトカバー/ ケース奥右)のものが主流になり、その後さらに小さいB6や新書サイズのものも出た(同左)。

ケース手前の『影』『街』は「劇画」ジャンルの登場と隆盛に貢献した短編集。『母恋ワルツ』(1957年)は女性マンガ家の大御所・牧美也子のデビュー単行本。 



貸本屋の時代 2

「山吹文庫」開店(1955年)


高校3年、18歳の秋。近所の銭湯「松の湯」に通じる横町の惣菜屋跡に「貸本の店・山吹文庫」を開店した。
家風呂の時代ではないので銭湯はみなが日常的に使う場所。
以前、銭湯そばの貸本屋が繁盛している様子を目にしたことのあった内記には、成功の確信があった。
開店当日の売り上げは550円。その後、毎日うなぎ上りに売り上げが延びた。ラーメンが1杯25円のころである。貸本屋業界の隆盛がピークに達する手前のころだった。
その後「青柳文庫」「ナイキ書房」などの支店を開店しそれぞれ閉店・統廃合するなどした。
ケース内の道具は貸本屋時代に使っていた道具類。バールは、本の補強のため大型ホチキスを打ったあと、ホチキス針先の部分をカナヅチで平らに潰す際の金床として使用した。 



貸本屋の時代 3

台風の被害(1958年)


1958年9月狩野川台風の影響で神田川が氾濫、その影響で店が浸水し、大量の本が水害にあった。
捨てざるを得ないものも多かったが、濡れが少ないものや形がしっかりしたものは、戸板などに広げ干した。
100冊近くあった。干しているうちに表紙とカバーが離れるものも多かった。まだ買い戻すことのできるものもあったが、愛着があり一冊でも多く助けたかった。
洪水から5日目の夜中、干す作業のあいまに軒下に回収してあった本を盗まれるという被害にあう。
本としてではない。当時は紙くずを売買する業者があったため、くずとして盗まれた。このため表紙と中身が泣き別れになるものがさらに増えた。
ケース内は水害にあった本の一例。『メトロポリス』『太平洋X點』は内記が表紙を模写して修復したもの。
 



マンガ図書館設立に向けて 1

石子順造と貸本文化研究会(1975-77年ごろ)


1975年夏。高円寺で「大竹文庫」を経営していた大竹正春らとともに、評論家の石子順造から取材を受けた。貸本マンガや劇画の評論も多く手掛けていた石子から「庶民文化としてのマンガを保存するために、マンガに恩恵を受けてきた貸本屋が中心となってマンガ資料館を作ってはどうか」という主旨の提言があった。
1976年秋、これをも踏まえ、貸本文化に興味のあるメンバーを募って、貸本文化研究会が発足された。
内記も石子も世話人の一人だった。内記は第1回会合で「マンガ資料館」設立の展望を説明している。
「司会くらいはするからね」と言っていた石子は、この第1回会合を目前に病に倒れ、翌年7月21日に亡くなった。
同会は2009年より活動休止中。『貸本文化』は同会の会誌であり、出版界の貴重な資料となっている。

※ケース右のパネルの引用文
―いったい、どのくらいの大きさの資料館をつくりたいのかネ。それなら藤枝のぼくの家の近くに手頃の売地があるから、君、いっしょに買わないか。それはともかく、中央沿線でどこか貸家を探してくれないか。ぼくの仕事部屋は屋根裏でもいいから、そこをまず資料館にしよう。家賃は、ぼくがだすヨ。(略)
こんな夢のような話を、元気に熱っぽく、内記さんと私を相手に一方的にしゃべりまくったのは、石子さんがたおれた日―一九七六年九月一六日の前々日の深夜のことであった。気がついて私たちが表に出てみたら、もう夜が白々と明けかけていた、その記憶が鮮やかである。

「石子順造氏を悼む」 大竹 正春 
       『貸本文化』1977年3・4号より
 



マンガ図書館設立に向けて 2

「ナイキ漫画館」 1(1978年 - )


「現代マンガ図書館」オープンの年の5月、区画整理などのため閉めた「山吹文庫」と「ナイキ書房」を統合した形で、新しい貸本屋「街の図書館 ナイキ漫画館」を開店した。
ここで貸本としての役目を終えたマンガは、順次マンガ図書館の蔵書になっていった。
オープン時のチラシには、マンガ図書館の位置が手書きで書きこまれている。ほか、内記によるオープン記念のイベント企画の草稿や、当時のスタッフによって書かれた『ナイキ漫画館月報』のレイアウト案など。
この月報は刊行されることはなかった。 



マンガ図書館設立に向けて 3

「ナイキ漫画館」 2( - 1990年)

「ナイキ漫画館」で使用されていた、貸出カードが入ったままの木製ケース。
貸本屋営業の様子がかいま見え、興味深い。
貸本屋の「ナイキ漫画館」は、最終的には1990年まで続いた。ここが内記による最後の貸本屋となった。その後1993年に「現代マンガ図書館」の入っているビル1階にできた「古本マンガ専門店 ナイキ漫画館」とは別の店舗である。
内記は、貸本業を営みつつマンガの保存を目指した。結果、開店当時は残すに値しないもの、場合によっては社会悪とされ、公共図書館には入らず、国会図書館への納本漏れも多い貸本マンガをはじめとする多くのマンガ資料が、手に取れるものとして私たちに残った。内記の経営した貸本店もマンガ文化に大きく貢献した存在だといえる。



現代マンガ図書館 1

日本初のマンガ専門図書館開館(1978年11月1日)


「現代マンガ図書館<内記コレクション>」は1978年11月1日に開館した。3月に竣工した自宅ビル2階の一室をマンガ資料館に充てたのである。貸本文化研究会のメンバーを始め、色々な方たちの手伝い、寄贈、カンパなどを得た。
開館当時の蔵書は、内記の蔵書が2万7千、寄贈が3千の計3万点であった。
見開きの雑誌では、開館当初の館内の様子がわかる。『ぴあ』と『東京情報』は開館前に情報が掲載された雑誌。『ぴあ』は開館の告知というより、開館時のイベント、マンガ即売会の告知である
開館後は、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ等あらゆるメディアで報道され注目を集めた。

※開館当時の報道の様子は、壁面の展示や、当館2階関連資料コーナーなどで紹介した。



現代マンガ図書館 2

蔵書によってできること(その1)


現代マンガ図書館の蔵書を用いると、様々な試みができるだろう。
例えば、戦後マンガ史のスタートとして伝説化されている手塚治虫の『新宝島』(原作構成:酒井七馬)の、最初のバージョン(1947-48年版、推定)。その人気を象徴する同作海賊版『ピート君漂流記』(1954年版)。そして最初のバージョンが1950年代から長期間封印された上で描きなおされ刊行されたため、最初のものと混同されることとなった、1986年のリメイク版を比較検証することができる。
『新宝島』の検証は、マンガ研究の分野で長年熱い話題であり続けている。

※写真は展示開始時のもの。2012年11月30日(金)からは、新旧の『新宝島』の最初のページを見開きで公開した。



現代マンガ図書館 2-2

蔵書によってできること(その2)


1956年4月、「探偵ブック」の副題とともに創刊された貸本『影』は、日の丸文庫の人気作家を集めた短編誌で、爆発的な大ヒットとなった。描いていたのはさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロなど。このヒット後、貸本出版界では短編誌がブームとなった。
ここには、ブームの様子がうかがえる男性向け短編誌を並べた。流れの中登場した『街』の12号に掲載された、「幽霊タクシー」(1958年)扉絵に、辰巳が「劇画工房」のマークを付けたのが「劇画」という語の最初の用例となった。
「劇画」は、子ども向けのマンガと一線を画すリアルな表現を模索する中から生まれ、白土三平作品など、辰巳とその仲間以外の作品をも指すようになった。
このほか、現代マンガ図書館の蔵書を利用することで見えてくることは多くあるだろう。



現代マンガ図書館 3-1

「蔵書18万点とは」


開館当初は3万点だった。蔵書は、開館20年目には14万点、そして現在は18万点に達している。
この18万点はダブリ本をカウントしない点数だ。
このケース(R012)と左横のケース(R015)を合わせて、本棚6段分216点の単行本が入っている。
18万点は、このケースに入っている分の約830倍の量にあたる。蔵書は、今も年々増え続けている。
 



現代マンガ図書館 3-2

「蔵書18万点とは」


R012~R015には、現代マンガ図書館の現代マンガ図書館の総所蔵数18万点は、この約830倍の量にあたります。
書架の6段分216点の資料が入っています。



現代マンガ図書館 4

刊行物


「現代マンガ図書館」による刊行物には『漫狂(まんきち)』と、『マンガ即売会』というカタログ冊子がある。『漫狂』は1978年秋に0号が刊行され、創刊号、2号と3冊続いた。内容は館の活動報告などの記事が中心。その後『マンガ即売展』という印刷物が、まずリーフレット的なものとして刷られ、カタログ冊子になっていった。このカタログは1997年70号、手塚治虫文化賞受賞の報を知らせる号まで続いた。
1998年の新年からは再び『漫狂』が刊行され始める。この第2期『漫狂』は、号数を『マンガ即売会』から引き継ぎ71号から始まっているので、『マンガ即売会』カタログを記事部分を増やした形でリニューアルし誌名変更したともいえる。第2期『漫狂』は2001年2月3日発行の77号まで続いた。 



現代マンガ図書館 5

男性マンガ家閲覧トップ10


1.手塚治虫
2.藤子不二雄
3.永井豪
4.横山光輝
5.石ノ森章太郎
6.楳図かずお
7.ジョージ秋山
8.水島新司
9.白土三平
10.ちばてつや

R016と左どなりのR019には、閲覧希望の多いマンガ家トップ10を男女にわけて紹介している。
過去30年間分を、日誌の記録や、館の閲覧請求用紙などを集計して算出したものである。



現代マンガ図書館 5-2

女性マンガ家閲覧トップ10


1.里中満智子
2.美内すずえ
3.竹宮惠子
4.山岸凉子
5.高橋留美子
6.大和和紀
7.池田理代子
8.萩尾望都
9.細川知栄子
10.上原きみこ



現代マンガ図書館 6

閲覧希望の多い雑誌 1


このR017と、左どなりのR020のケースには、比較的よく閲覧される雑誌の中から代表的なものを集めた。
R017には女性誌R020には男性誌が入っている。
基本的には、有名作品の単行本未収録作掲載の雑誌に閲覧希望が集まる。『花とゆめ』は、「ガラスの仮面」の単行本未収録部分が掲載されている号。
内田善美、山本鈴美香のようにマンガ家を続けていない作家、樹村みのりのようにコアなファンがいるが寡作な作家などの未収録作品掲載号も。
『週刊少年チャンピオン』は、「ブラック・ジャック」の未収録エピソード掲載号。
『ヤングアニマル』は「ベルセルク」の未収録部分掲載号。
『アフタヌーン』は「おおきく振りかぶって」の単行本化される前の作品を見るために以前よく閲覧請求されたという。



現代マンガ図書館 6-2

閲覧希望の多い雑誌 2


・『花とゆめ』1989年9号~1997年ごろ
(美内すずえ「ガラスの仮面」掲載)
・『アフタヌーン』2010年10月号など
(ひぐちアサ「おおきく振りかぶって」掲載)
・『週刊少年チャンピオン』1974年27号など
(手塚治虫「ブラック・ジャック」掲載)
・『週刊セブンティーン』1978年47号
・『りぼん』1974年10月号
(内田善美「人魚夢幻の秋のいろ」/「銀色の糸」掲載)
・『ヤングアニマル』1996年14号
(三浦建太郎「ベルセルク」掲載)
・『ビッグコミックスピリッツ21』
1993年7月増刊(澤井健「イオナ」掲載)
・『ヤングコミック』1972年12/13号
(藤子不二雄A 「シンジュク村大虐殺」掲載)
・『わんぱっくコミック』1988年2月号~
(初期のゲーム系マンガ誌。他館に所蔵が少ない)
・『ヤングマガジン』1982年7/19~1983年6/6号
(梶原一騎、中城健「女子レスラー紅子」掲載)
・『週刊漫画ゴラク』1976年1/29~1977年1/6号
(梶原一騎、佐藤まさあき「若い貴族たち」掲載
) ・『ヤングアニマル』1994年17、20号
(竹本泉「トゥインクルスターのんのんじー」掲載)
・『週刊少年チャンピオン』
1981年35、41、45号、1982年11-14号
(貞本義行「ファイナルストレッチ」掲載)
・『プチフラワー』1983年9、11月号、1984年1、3月号
・『微笑別冊』1984年11/1号
(山本鈴美香「白蘭青風」/「超能力者列伝」掲載)
・『ASUKA』1985年11月号
(樹村みのり「仮面の王国」他掲載
 



現代マンガ図書館 7

手塚治虫文化賞特別賞受賞(1997年)


1997年6月3日、「現代マンガ図書館の設立と運営に対して」、第1回手塚治虫文化賞特別賞を受賞した。あこがれの手塚の名が冠された賞で、どんな賞にも優って大きな喜びだった。
「叶わぬ望みですが、手塚治虫氏ご自身の手から直に頂けたらどんなに良かったことだろうと思います」と語った。 色々な方たちの支えや応援があって続いた運営なので、この賞は館に関わりのあるみなでもらったもの。自分はみなの代表として賞を頂いたに過ぎない、とも。

ケース内にあるのは記念の盾と目録の入った祝袋、受賞時の写真、新聞記事。 



現代マンガ図書館 8

館が協力してできた本


現代マンガ図書館とその収蔵品が多少なりとも出版に協力している本の一部と、内記自身が執筆している印刷物を集めた。
『マンガの教科書』『マンガの昭和史』『ナマズの巣』
「<アニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ>切手コレクション」には内記が執筆している。
芳崎せいむ『金魚屋古書店出納帳』は表紙の本棚が館の書棚を参考にしている。
小学館クリエイティブの復刻版シリーズは主に刊行するかどうかを検討する際に資料として現物貸出を依頼された。
ここに集めた以外にも、雑誌の特集に協力するなど、館が関わって出来た書籍資料は枚挙にいとまがない。 



現代マンガ図書館 9

現在


2009年に蔵書を明治大学に寄贈し、2010年には館名を「明治大学 現代マンガ図書館」に変更。
その後も従来通り運営している。
開館時間12:00-19:00、休館は火・金・年末年始。
入館料は一般300円。現代マンガ図書館は、貴重な貸本資料を所蔵することで有名なため、懐かし系の所蔵品ばかりある印象が強いかもしれないが、代表的な新刊雑誌や単行本を現在も続けて購入・収蔵しており、来館者はいつでも読むことができる。
また、開館時に行われた「手塚治虫マンガ特選展」を皮切りに、館の蔵書で構成されるマンガの展示コーナーが設けられており、今も続いている。
館のコレクションは、当・米沢嘉博記念図書館のコレクションとともに、2014年度の設置に向けて準備中の「東京国際マンガ図書館(仮称)」に統合される予定だ。
写真は館名変更後の外観。雑誌と単行本はごく最近収蔵したものの例。



内記稔夫の活動(図書館以外) 1

貸本関係の団体での活動


(東読、全貸連)
1957-8年ごろ東京都読書普及商業組合(東読)という貸本組合の存在を知った。勧誘を受けたが最初は断っていた。が、貸本の市場に参加し競りで山と積まれた本が手際よくさばかれていく見事さなどを見るうちに、大勢の業界の先輩たちが団結し協力して一つの事業に打ち込む姿に感動し、その一員となるべく正式加入した。東読では、1961年理事に就任。1972年には第7代理事長に就任し、75年までの4年間を務めた。また全国貸本組合連合会(全貸連)にも所属し、1995年以来7期14年もの間理事長を務めた。『街の図書館』は東読の機関紙。
ロゴマークは内記がデザインした。『東読35年の歩み』も内記が作成した。『全国貸本新聞』は全貸連の新聞。ほか、全貸連で作った手ぬぐいなど。 



内記稔夫の活動(図書館以外) 2

マンガ学会理事、貸与権、地域の活動


マンガの貸与権問題の際には、マンガの普及に貢献してきた貸本屋が廃業に追い込まれかねないと熱心に活動し、蔵書1万冊以下の旧来の貸本屋は使用料の支払い免除を申し出ることができる例外規定を獲得した。
貸本関係以外にも、内記は様々な活動をしている。中でも日本マンガ学会には設立準備から関わり、2001年の設立以来12年春まで理事を務めた。京都国際マンガミュージアムの研究顧問や、当米沢嘉博記念図書館のアドバイザーとして設立と運営に貢献した。
また、父の経営する日興不動産の取締役を1963年より務め、89年から亡くなるまでは代表取締役だった。ほかにも宅建業界の団体である東京宅地建物取引業協会新宿区支部の役員、鶴巻東町会副会長など。人のためになることが本当に好きだった。 



館へのサイン色紙とメッセージ 1

みなもと太郎


“内記図書館は 少年時代にもどる タイムマシーン!”
※左下描き下ろしイラストメッセージより。



館へのサイン色紙とメッセージ 2

さいとう・たかを


内記さんとは、貸本屋をなさっていたころからの古い付き合いです。貸本業者で行われていた会合に顔を出させていただく機会があり、その際にお会いしたのだと思う。
現代マンガ図書館設立の話を聞いた時には「すごいことをやってくださるんだな!」と嬉しかった。文化を保存する事業は本来国がするべきと思うのに、国には当時そんな発想は全くなかったし、僕たちマンガ家にも出来ないことだったから。
内記さんが僕のことをどう思われていたのか結局お聞きする機会はなかったけれど、僕は内記さんをとても尊敬していました。

さいとう・たかを



館へのサイン色紙とメッセージ 3

下元克己


内記稔夫さんと出会う前、現代マンガ図書館については疎かった。
以前から聞き及んではいたのだが何処か遠い事のように思っていたから。
その後図書館を訪ねた折、内記さんがヒョイとマンガ本を差し出しニコッと笑った。彼が「見覚えないですか?」 昔の古いマンガで、別に興味ないのでほけ~と見つめてたら、「最初の短編、貴方の作品と違います?」
…えっ あわてて手にし、ページをめくって見て本当に鳥肌が立って来た。
なぜこんな物が、こんな処に  原画も本もとっくに無く記憶すら失くしてた五十六年も前の初作品が、そして初心が目の前に残ってた。
有難う。
下元克己 拝



館へのサイン色紙とメッセージ 4

ちばてつや


今、世界中から注目されている日本のマンガ文化。

その黎明期から現代の繚乱期までの貴重な資料やデータを、この国は何故いつまでも放っておくのか…。

内記さんと会うといつも決ってその話になり、二人で歯噛みしましたっけね。

ちばてつや



館へのサイン色紙とメッセージ 5

矢代まさこ


“ナイキ・コレクションに初めて会った40才すぎの時まで、貸本マンガがコレほど長期間 保管できるなんて思いも しなかったワタシでした。
 ナイキ氏へ 感謝と尊敬をこめまして 2012-9月”

※左下描き下ろしイラストメッセージより主要部分抜粋。



館へのサイン色紙とメッセージ 6

植田まさし


内記さんのこと

内記さんに最後にお会いしたのは、二〇一一年の漫画家協会の協会賞の選考会の時でした。
終わってから帰る道が同じ方向なので、一緒に話でもしながら歩いて帰ることもできたのですが、運悪く締め切りが迫っていて、先にタクシーで失礼してしまいました。選考委員は2年やるので、来年は一緒に帰ろうと思っていたところ、その日からまもなく倒れられたということを聞きました。
あの日一緒に帰って、いろいろな漫画の話を聞いておけばよかったと、本当に後悔しています。

植田まさし



館へのサイン色紙とメッセージ 7

竹宮惠子


“日本初 内記マンガ図書館は 私たちマンガファンにとって 超!ウラヤマシーものです
 いくら好きでも マンガ=おやつだったから 家が狭いとマンガは親に捨てさせられるものでした
 ビル一杯分も残したという それ自体が 先見の明!!
 内記さんはとても上品な紳士で「頼りになる先生」みたいでした もっとマンガの話をしたかった!!”

※左下描き下ろしイラストメッセージより主要部分抜粋。



館へのサイン色紙とメッセージ 8

夏目房之介


“内記さんが江戸っ子なら アタシは江戸っ子もどきだと思う
 夏目”

※左下描き下ろしイラストメッセージより主要部分抜粋。