映画監督 篠原 哲雄

いくらでも転がっているチャンスは。
自分から動けば必ず掴むことができる

映画を学ぶために大学に入ったわけではなかったが、とにかく映画が好きだった。「映画にたずさわる仕事がしたい」。その情熱だけでその世界の門を叩き、今や日本を代表する映画監督のひとりにまでなった篠原哲雄監督。そのポジションに辿りつくまで、どのようなストーリーがあったのだろうか。

法学部、でも法律に関心はなし

大学を決める基準はすごく単純で、街の中にある大学であること。高校が神奈川県の山の中にある男子校だったから、そのような大学に漠然とした憧れがあったんです。明治大学は駿河台キャンパスの印象が強くて、街と一体となり、校門がない。社会に開かれているという雰囲気があって、理想通りだったんですよね。

法学部を選んだのは、将来のことを考えたときに一番つぶしが利くと思ったから。ただ興味は映画や演劇などのサブカルの方向にあり、法律の授業は必修以外は取っていませんでした。それよりも倫理学や社会学など、人間の探求と呼ぶべき授業のほうが熱心でした。映画も結局は人間を撮るわけで、つながるところがあるんですよね。

大学3年には法文化論のゼミに入りました。法学でも文化に対して探求できる場所があるというのは、すごい発見でしたね。法律への関心が薄いにもかかわらず、授業は学年があがるにつれて専門的なものになっていきますから、ちょうど大学に距離を感じるようになっていた時でした。興味のある分野を学べることは、再び大学に帰ろうというモチベーションにもなりました。

大学生活の基本は剣道部にあり

映画への思いというものは常にあって、映画に関わる仕事がしたいと漠然と思っていて。でも何をすればいいのか分からない。そこで大学3年のときに、日本シナリオ作家協会が主催している夜間講座に通ったんです。そこで映画の助監督をしている人に 出会い、大学に通いながら映画制作の現場を経験するチャンスをいただいたんです。4年生のときにはもう1作品、見習い助監督として現場に携わることができて、心に決めたんです、「この世界で生きていこう」と。だから就職活動はしていません。できるだけ映画に浸る時間を多く取りたいと考え、論文も極私的映画論というテーマでまとめました。今考えると、よく単位を取れたものだと感心しますね。

映画監督になる道は色々あって、映画の専門学校に通ってなる人もいるし、大学の映画サークル出身の方も多い。僕も大学入学時に映画サークルに顔を出したのですが、剣道部に入ってしまったものだから、そちらの選択肢は自然と消えてしまったんです。そう考えると、僕が通ってきた映画監督へのアプローチはかなり特殊なのかもしれません。ただかなり外側からアプローチしてきたからこそ、映画監督になれたかもしれない。もし学校で専門的に映画を学んでいたら、映画サークルに入っていたら、別の形で映画の世界に辿り着いたかもしれないけど、監督という立場ではなかったかもしれない。そう考えると、映画とは無縁に思われる法学部を選んだからこそ、今の自分があるとしか思えなくなってくる。
本当、人生って不思議なものですよね。

自分から行動を起こさないと何も始まらない

僕はフリーという立場で映画の世界に入りましたが、助監督の仕事をしているといつまで経っても助監督のままということがあるんです。日々の仕事に追われるのはもちろん、生活していくためにはお金が必要ですから、どうしても目の前の仕事だけになってしまうんですよね。僕もそんなスパイラルに陥って、どうしたらいいか分からなくなって。しかし何かしないと始まらないと思い、8mm の自主映画を撮ることにしたんです。それがたまたま映画監督への登竜門となっている“ぴあフィルムフェスティバル”で特別賞を獲得し、じゃあ次は文化映画レベルとなる16mm 作品を撮ろうということに。その作品を神戸国際インディペンデント映画祭に出品したところグランプリを獲得。劇場公開されて、僕の助監督人生はここで終わり。「篠原はもう助監督はやらない」と思われるようになり、監督として声がかかるようになったんです。

人に恵まれて仕事をいただいていますが、基本的にフリーという立場は変わりません。いつ仕事がなくなるかわからない、という事態はいつ起こってもおかしくないわけです。映画の世界でも勢いというものは大切で、プロデューサーも新しい人に目を向けますよね。「10年前なら僕に依頼があったかも」というような作品に出合うこともあります。しかし時代劇とか戦争モノとか、デビュー当時には考えてもみなかったジャンルの作品を監督したりと、仕事の幅は確実に広がっている気はします。

映画は机上で学ぶものではなく、自分で掴んでいくものだと思うんですよね。その点、大学とよく似ていて、“自由”の中に自分の触手に引っかかるものがいっぱいある。しかし常に自分を開いていないと何も掴むことはできない。まずできることは、自分から動くこと。それが大学時代に何か掴むために唯一できることだと思います。

History of Tetsuo Shinohara

大学在学中から助監督見習として映画制作の現場に参加。「草の上の仕事」(1993年)が国内のいくつかの映画祭と、ロッテルダムなどの国際映画祭で上映され監督デビューを果たす。1962年生まれ。東京都出身。

1996年
「月とキャベツ」
1999年
「洗濯機は俺にまかせろ」
「きみのためにできること」
2000年
「はつ恋」
2001年
「張り込み」
2002年
「木曜組曲」「命」
2003年
「昭和歌謡大全集」「オー・ド・ヴィ」
2004年
「天国の本屋〜恋火〜」
「深呼吸の必要」
2005年
「欲望」
2006年
「地下鉄(メトロ)に乗って」
2008年
「山桜」
2009年
「真夏のオリオン」
「つむじ風食堂の夜」
明治大学広報
雑誌 明治
meijin Vol.1

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