映画監督 大九 明子

映画に憧れと尊敬の念があったので、
監督なんて畏れ多いと思ってました

大九明子さんは学生のころから演劇、お笑いの演者、表現者としての活動をスタートしている。迷いの多かった20代を経て、映画監督という天職に就くことになった大九さん。振り返ってみると直接今の仕事に結びつく要素こそないが、大学には絶対行っていて良かったと言う。

4ヶ月で終わった就職期間

 大学進学時は、進路や将来のことはぼんやり考えていた感じでした。1浪しましたが予備校には行かず、大学の情報とかあまり熱心に耳に入れていなかったんです。他の大学の文学部が第一志望でしたけど、なぜか明治は政治経済学部を受験しまして……。大学では政治の講義より、人文学・社会学に惹かれましたね。後で志望大学の文学部に入った人の話を聞いてみて、結果的に明治の政治経済学部に入学して良かったと思いました。

 大学公認のサークルでは実験劇場というアングラな芝居をする団体に入ったのですが、もっと外に開いた活動がしたかったので、すぐに辞めてしまいました。そして学生だけでなく、フリーターや社会人も所属するコント集団に参加し、大学の4年間はそこで活動をしていました。卒業後は、官庁の外郭団体で理事長の秘書をしていたのですが、わずか4ヶ月で辞めました。社会人になってからもコント集団の活動を続けるなら、半官半民の団体は安定していて仕事も楽、という理由で選んだ仕事ですけど、水が合わなかったんです。若いこともあって私の仕事に対する意識が甘かったと、いまは思っています。

お笑い、俳優、そして映画の道へ

 秘書の仕事を辞めた4ヶ月後、芸能事務所が開校したお笑い芸人養成校に第一期生として入りましたが、そこでの2年間は辛かったです。ピン芸人でコントをやったのですが、ネタを作り続けることが大変でした。いまではお笑い番組を笑って見ることができますが、当時は楽しむ余裕がなかったですね……。あのころはお笑い番組自体少ない、お笑いの冬の時代でした。私は実力不足で、結局その事務所の所属にはなれなかったんですが、他の芸能事務所を紹介していただき、俳優の仕事をさせてもらうことになったんです。ただ俳優としての仕事はあまりなかったので、20代後半はバイトばかり。そんな光の見えない状況が続いていました。

 俳優としての自分に行き詰まりを感じていたとき、アテネフランセ※1とユーロスペース※2の共同設立により映画美学校が新たに開校され、その第一期生を募集中というチラシをたまたま映画館で見ました。黒澤清さんら好きな監督さんが講師をされるのが魅力的で、ダメ元で応募したのですが入ることができました。第一期生は100人くらいだったと思いますが、その数倍は応募があったそうです。ジャン=リュック・ゴダールを"JLG"と呼ぶような、あまりにシネフィル(映画狂)タイプの人はあえて選ばず、“真っ白”な人を選んだことは、後で聞かされました。
※1 アテネフランセ:千代田区神田の外国語学校
※2 ユーロスペース:渋谷区のミニシアター

映画の表現としての骨太さ

 映画美学校に入ったころは、将来自分が監督することなんて考えてもいませんでした。学生のころから、大学の近くのアテネフランセに通ったり、ちょっと映画にかぶれてはいましたが、自分が監督をするなんて畏れ多くて……。『意外と死なない』は、提出されたシナリオの中から2本だけ映画にするという課題で、そのうちの1本に選ばれたことで制作された作品でした。私はシナリオを書けずにいたのですが、提出締切り前日に講師から「出さないのか?そのほうが審査が楽でいいや」と言われたんです。その言葉が悔しくて、一晩で書き上げたのですが、選ばれたときは喜びより不安のほうが大きかったです。一方では、やってみたら何とかなるかな、と図太く考えてもいましたが……。

 『意外と死なない』は、特に賞をいただいたわけではないですが、観てくださった多くの人の記憶に残る作品にはなったようです。この作品を評価していただいて、ラジオドラマのシナリオなどの仕事をいただけるようになりました。また映画評論家の石原郁子さんが、著書『女性映画監督の恋』に取りあげてくださったのは嬉しかったですね。

 私にとって初の長編映画となった『恋するマドリ』も、プロデューサーの方が私の作品を観てくださったことが、起用のきっかけでした。お笑いや演劇などのライブの表現とは違い、形になって残り後々にまで評価される映画の、表現としての“骨太さ”を感じました。現在日本は、テレビ局主導の作品が主流で、さらに小説や漫画などの原作がない映画はなかなか撮れない時代といわれています。オリジナルのシナリオにこだわって、映画を作りたいと思っている私にとっては、難しく辛い時代ではあります。近年は何本も映画の企画が流れてしまっていますけど、作品を作りませんかと声をかけていただけた時点で、映画監督としては非常に嬉しいですね。

必要だった“悩む”時間

  映画監督には想像力が必要ですが、卒論の琉球民族学のフィールドワークで宮古島に10日間ほど訪れたことは、想像することの訓練になったのでは、といまは思います。生まれ育った横浜と、学校のある東京の往復だけでは知ることもなかった、宮古島の人々の言葉や暮らしぶりを学びました。全く知らなかった場所にも人々の営みや文化があることを、実感とともに知ることができた体験でした。映画制作など物語を紡ぐ作業には、俯瞰で物事を見ることも大事ですが、同じ目の高さで想像することも必要です。15歳の少年のことを同じ目の高さで想像できないと、15歳の少年の物語を作ることはできませんから……。

 大学で学んだことが、直接いまの仕事に役立っているかどうかはわかりません。ただ私は、大学に行って絶対に良かったなと思っています。私は未だに迷っていきているような人間ですので……大学の4年間という迷う時間を稼げなかったら、きっと辛い想いをしたのではないかと思います。



Corporate profile
有限会社 猿と蛇
映画・アニメから広告の企画・演出・制作などの業務を手がけるカンパニー。ユニークな社名は、自分と共同経営者ふたりの干支を組み合わせたものだ。
有限会社 猿と蛇新しいウィンドウが開きます

Profile of Akiko Ooku

官庁の外郭団体の秘書から、お笑いタレントに転身。1997年に映画美学校の第1期生として入学し制作者の道を歩む。同校高等科在学時に、16ミリ作品『意外と死なない』で映画監督デビュー。2005年に独立、有限会社猿と蛇を設立。1968 年生まれ。神奈川県出身。

【主な作品】

映画『意外と死なない』(1999年)
監督・脚本:大九明子(億田明子名義で自ら主演)
痛みに人一倍敏感な小学校教師の月子(億田)。その日常は、理想とかけ離れた生徒や親、無神経な同僚たち。そして執拗に彼女を付け回すストーカーと、あまりにイタイ。親友のマユは安っぽい「できちゃった結婚」を享受する。イ〜テテテテ……。月子にとれる道はもはやひとつしかなかった!……のか?

映画『恋するマドリ』(2007年)
監督・脚本:大九明子
出演:新垣結衣/ 松田龍平/ 菊地凛子
人生で初の一人暮らしを経験することになったヒロインが、運命の出会いを通して成長する姿を描くラブストーリー。

明治大学広報
雑誌 明治
meijin Vol.1

ページの先頭へ戻る