脚本家 吉田 紀子

今日まで脚本家を続けられたのは、
ひととひととの縁が繋がっていったから

連続ドラマや映画の脚本家として、数々の名作を世に送り出してきた吉田紀子さん。早くから倉本聰氏の作品に魅了され、自分も脚本家になると信じ、その夢を着実に実現してきた。人気脚本家として確固たる地位を築き上げた現在、改めて自分のキャリアを振り返ると、そこには学生時代の仲間たちの大きな存在があった。

脚本家という仕事

 つい先日、2時間のスペシャルドラマの脚本を書き終えたところです。阿川佐和子さんの小説「屋上のあるアパート」を原作にしたドラマの脚本で、一人暮らしを始めた27歳の女性が成長する過程を描いたものです。主演は長澤まさみさん。原作の主人公のキャラクターにまさみさんのイメージをミックスして脚本を仕上げました。

 脚本家ってイタコみたいだと思うことがあります。台詞を書くときにはその言葉を発する人の気持ちに成りきらないとできません。脚本の中にはおばあさんの言葉もあるし、子供の場合だってある。「屋上のあるアパート」では原作がありましたが、27歳の女の子の気持ちになって台詞を書くわけですからね。

 台詞を書くだけが脚本家の仕事ではありません。ドラマのテーマを決め、全体のストーリーを作り、登場人物を設定する。その家族構成や履歴、性格も決めていかなくてはなりません。会話が行われるシチュエーションを考えるのも脚本家の仕事。プロデューサーと打ち合わせを繰り返し作り上げていきます。作業は大変ですが、辛いと感じることはなく、けっこう楽しみながらやってきたと思っています。

歩み始めた脚本家の道

 昔からテレビドラマを観るのが大好きでした。脚本を意識して観ていたわけではありませんが、ある時期、自分がおもしろいと思うドラマの多くが倉本聰先生による脚本であることに気づいたんです。当時の私はまだ高校2年生。倉本先生のエッセイを読むなどするうちに、脚本家という仕事の存在を知り、そして自分もその道に進みたいと興味を持つように なりました。

 大学は演劇学のあった早稲田大学と明治大学を受験しました。明治に入学したのは早稲田に落ちたから(笑)。いまの明治大学はとても人気が高いようなので違うかもしれませんが、当時は私と同じような「他の大学に落ちて明治に来た」という共通点を持つ学生が多くいました。みんな若い時期に挫折を経験しているから、余計なプライドやエリート意識がない!そんなところが明治の良さであり、強みでもある気がします。

活動の中心はサークル

 大学で学んだことは論理的な演劇論など難しいことばかり。授業もサボってばかりの不真面目な学生だったので、いまの仕事に生かし切れていないかもしれません。でも、映画と演劇のサークルに所属し、そこで同じ志を持つ仲間と出会えたことは、とても大きな意味を持つことになりました。

 当時はまだ、DVDのレンタルなどない時代。ですから、サークルの仲間とよく名画座に行ったものです。明大前駅前のミキハウスという喫茶店に集まって、あの映画がおもしろいとか、あの映画はおもしろくないとか、偉そうに好き勝手言い合ったりして。中には趣味の合う人もいれば、そうでない者もいる。そんな仲間と語り合えたことが、脚本家としての大きな財産となったと思います。

 現在、映画監督として活躍している中島哲也さんもサークルの同期です。先日、映画「告白」でブルーリボン賞を受賞しましたが、学生時代から才能はダントツ。そんな仲間と一緒に切磋琢磨した学生時代はとても刺激的で充実していました。

妥協した自分を許せず富良野へ

 大学卒業後は典型的なOL生活を送っていました。脚本家の道に進みたかったけど、どうやってなったらいいのかも分からない。映画会社などのマスコミの道を探ってみたものの親の猛烈な反対に遭い、結局、親の言いなりで証券会社に就職しました。

 この就職は自分に妥協をしたということでした。もちろん脚本家になる自信がなかったということもあります。でもそんな自分に納得できず、脚本家への夢を諦めることもできず、ただ書いてみたいという強い思いだけを持ち続けていました。常々このOL生活をどうにか変えなければいけないと考え、入社して2年目に倉本先生が主宰する脚本家と俳優を養成する富良野塾に応募しました。

 浮かれたOL生活から一転。富良野の山奥の谷間での2年間の共同生活は、自分たちが住むログハウスの建築作業から始まりました。授業料は無料でしたが、生活費は自分たちで稼がなければならなくて、早朝から近所の農家でアルバイトの毎日。講義は建築作業や農作業が終わった夕方から深夜にまでおよび、もの凄くハードな日々が続きました。でも、倉本先生の講義は実践的で、初めて脚本を書く方法を学ぶことができたと思っています。富良野での生活は私の脚本家としての原点です。

人との繋がりを大切に

 これまでの脚本家としての自分を振り返ると、今日まで仕事を続けることができたのは、ひととひととのご縁が繋がっていったからだけだと思うのです。誰かに出会って一つ仕事をして、そこから次の仕事が発生していく。それだけでここまで仕事が続けられたのかと思うと、不思議ですし有難いです。

 そんな中でも明治大学の繋がりには特に助けられました。じつは富良野での生活で体調を崩して実家で療養をしていたのですが、回復して時間をもてあましていた時、リハビリを兼ねて企画書の仕事を持ってきてくれたのはサークルの同期の友人でした。その後、初めて手がけた深夜ドラマの脚本も、サークルの先輩の紹介がきっかけでした。このとき紹介してもらった制作会社のプロデューサーとは現在でも一緒に仕事をさせてもらい、最初にお話した「屋上のあるアパート」もこの方のプロデュースによるものなんです。

 富良野から東京に戻ってきて、何のつても持たない自分が脚本家としてスタートできたのは、明治の仲間を中心とした人との繋がりでした。現在の学生さんは全般的におとなしい方が多いと聞きます。でも、学生時代はネットワークを広げる貴重な時間がたっぷりあります。勉強ももちろん大切ですが、興味のあることは何にでも取り組み、楽しい学生時代を送ってほしいです。その先には、自ずと仲間ができ、利害関係のない横の繋がりを築き上げることができると思っていますから。


Profile of Noriko Yoshida

脚本家。明治大学文学部卒業後、証券会社で2年間のOL生活を経て、倉本聰氏が主宰する富良野塾で脚本のいろはを学ぶ。連続ドラマや映画の脚本を中心に手がけ、代表作に連続テレビドラマ「Dr.コトー診療所」(フジテレビ)や映画「涙そうそう」「ハナミズキ」(東宝)など。1959年生まれ。山梨県出身。



【主な脚本作品ドラマ】

『邪魔してゴメン!』(TBS/1989年)
新人の時に脚本を担当した、織田裕二主演の深夜の連続ドラマ。この脚本を某制作会社のプロデューサーが気に入り、その後も仕事を一緒にすることになる。

ドラマ『悪魔のKISS』(フジテレビ/1993年)
大きな転機となった作品。都会の悪にまみれる3人のOLの話で、脚本を書くにあたり、サラ金や風俗などを精力的に取材した。このドラマをきっかけに連続ドラマが主な仕事となる。

ドラマ『お見合い結婚』(フジテレビ/2000年)
お見合いという固いテーマをコミカルに描いた作品。その前の「成田離婚」あたりから、連ドラでコメディを描き始める。

ドラマ『Dr. コトー診療所』(フジテレビ/2003年〜06年)
離島を舞台に都会からやってきた医師と地元民との交流を描いた人気漫画の大ヒットドラマ。シリーズ化・スペシャル版も放送される。この作品をきっかけにヒューマンドラマの依頼が増す。

映画『涙そうそう』(東宝/2006年)
沖縄を舞台におりなす、兄と血の繋がらない妹の切なくも美しい愛を描いた映画。妻夫木聡、長澤まさみ主演。

映画『ハナミズキ』(東宝/2010年)
一青窈のヒット曲をモチーフにした純愛ラブストーリー。惹かれ合う男女の10 年に及ぶ愛の奇跡を描いた人気映画。
新垣結衣、生田斗真主演。

明治大学広報
雑誌 明治
meijin Vol.1

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