INTERVIEWインタビュー

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一人ひとりが個性を持ち、社会のニーズに合った
社会人を育てて欲しい
声優・マルチクリエイター 三ツ矢雄二さん(1979年文学部卒)
声優・女優 日髙のり子さん(明治大学卒業生父母)

特別対談の第一回にご登場いただくのは、国民的アニメとして愛される『タッチ』で声優として共演した三ツ矢雄二さんと日髙のり子さん。明治大学文学部ご出身の三ツ矢さんと、お子様が明治大学卒業生というお立場の日髙さんは、これまでお仕事での共演はもちろん、明治大学という絆でも交流を続けているそうです。明治大学の印象や『タッチ』収録秘話までお話を伺いました。

明治大学の絆は特別なもの

―お二人はテレビ出演やインタビューなど、いろいろな場所でご一緒されることがあるかと思いますが、「明治大学で」というのは初めてではないでしょうか。

三ツ矢 そうですね。僕たちは一時期コンビかというくらい一緒の仕事が多かったのですが、確かに一緒に明治大学を訪れたのは初めてです。私は明治大学の卒業生ですが、日髙さんの息子さんも明治大学付属明治中学校、高等学校から明治大学に入られました。とても素直でしっかりした芯がある息子さんです。

日髙 三ツ矢さんは親戚のように息子をかわいがってくださるので、息子も慕っていて、三ツ矢さんとおしゃべりすることをいつも楽しみにしています。三ツ矢さんのお芝居もいつも観に行っていますよ。そういう意味では、息子は明治大学と三ツ矢さんに育てていただいたと思っています。

三ツ矢 アニメ『タッチ』のヒットもあり、二人で一緒にする仕事が多かったので、親戚のおじさんという印象なのかもしれません。日髙さんが結婚して出産されてからも、よく会っていましたね。

日髙 明治大学つながりということで、また一つ、私たちの関係が深まったとありがたく思っています。

―それだけ明治大学の絆は特別なものなのですね。

三ツ矢 芸能界では出身大学を聞かれることはあまりありませんが、何かの折に明治大学出身と分かると「ああ!」と言われる。やはり特別なつながりを感じます。

―三ツ矢さんには2019年10月、40年目の校友として明治大学のホームカミングデーに来ていただきました。久しぶりの学び舎はいかがでしたか。

三ツ矢 あまりの変貌ぶりにびっくりしてしまいました。僕たちの時代は「この建物は戦後からずっとあるんじゃないの?」というくらいにすすけた感じの校舎でしたので、昨年久しぶりに訪れた際は「あの明治大学はどこにいってしまったのか?」というくらい校舎が素敵になっていました。このリバティタワーは23階建てですか。今の学生は恵まれていますね。大学のリニューアルに伴ってお茶の水周辺の雰囲気も洗練されて、都会的になったような気もします。

―三ツ矢さんの学生時代の思い出を教えてください。

三ツ矢 ジャズ研究会でボーカルを担当していたことが一番の思い出です。僕は子役の頃から仕事をしていて、大学時代も舞台の仕事をしていました。外で演劇をやっているから、大学では音楽をやってみようと考えたのです。ミュージカルなどでジャズの曲が歌われることが多いこともあり、ジャズ研のデモンストレーションを観に行って入部を決めました。

―お仕事をされながら明治大学へ入学してみようと思われたのはどうしてですか?

三ツ矢 僕は高校卒業後、映像関係の専門学校に2年間通いました。そこで映画やシナリオについての勉強をする中で、自分には知識と体験が足りないと感じることが多々あり、専門学校卒業後に明治大学に入ることを決意しました。高校卒業時に専門学校に行くか大学に行くかを考えた時にも、大学に行くなら明治大学しか考えていませんでした。

―その当時、明治大学の魅力をどのように感じていていましたか?

三ツ矢 明治大学は他大学に比べて自由でラフな感じがして、それが僕の感覚に合っている気がしたのです。明治大学でなら、構えず気楽に大学生活を送れると思いました。明治大学の学生は、自由にしているからこそ個性が際立ってくる雰囲気がありましたね。

―では、日髙さんのご子息が明治を選ばれた理由をお聞かせください。

日髙 小学生の時にいろいろな中学に足を運び、本人が一番気に入ったのが明治大学付属の中学校でした。息子に「どんなところが良かったの?」と聞くと、「みんな元気で明るくて楽しそうだから、僕もここに通いたい」という答えが返ってきたのです。男子校時代の駿河台(猿楽町)の校舎まで文化祭を見に行った際、ブラスバンドが校庭で迎えてくれて「かっこいい!」と感激。それから模擬授業も受け、「先生がとても親切で話も面白かった!」と話していました。息子は自分をしっかりと持ち、枠にはまらないタイプでしたので、本人に合った学校を探すことが親としての使命だと思い、たくさんの学校を見学しました。中でも明治中学校には何度も学校説明会に足を運び、先生の話も記憶するほど伺いました。子どもたちの持っている力を見極めながら温かく広い心で自由に伸び伸びと育てたいという教育方針を伺い、息子にそのような学びの場を与えたいと思い、受験を決めました。当時の受験会場がこのリバティタワーで、雪の降る中、お弁当を作って持たせたことも思い出です。

―明治は「『個』を伸ばす」ことを大切にしていますが、印象はいかがでしたか?

日髙 本当にそう感じます。大学は自分の好きなことに特化して追求して学べる環境ですが、明治の中学・高校は、バランス良く広く学ぶため、「個」を尊重しながらもどんどんお尻を叩いてくださるという感じが親としてはありがたかったです。特に高校では目標である明治大学入学に向けて、学力を含めてしっかりと子どもたちを育てて送り出すという先生の意志がひしひしと伝わってきました。

―ご子息は中高時代に部活はされていましたか?

日髙 最初に見学した文化祭の印象が強かったようで、吹奏楽部に入部しました。お休みは、お正月とお盆くらいしかなくびっくりしました。ほぼ1年360日、私は息子のお弁当を作っていたのではないかと思います。子どもが「朝練も行きたい」「合宿も参加したい」「コンクールに向けて頑張りたい」と言うので、私にできることはお弁当を作ることくらいと、一生懸命サポートしました。最初は慣れなくて入学後3カ月くらいは寝不足で思い切り老け込みました(笑)。

―保護者の方々も明治の絆は感じていますか?

日髙 それはもちろん感じます。付属の中高は明治大学と同じ校歌を歌うのですが、片手を腰に、もう一方の手はこぶしを握って腕を回すという動作は、私たち保護者もことあるごとにやらせていただいています。明治に入学したのは子どもなのですが、私たちまで一緒に入学したかのような気持ちで校歌を歌わせていただいております。そんな風に皆さんと共に過ごしていく中で明治の魂のようなものがじわじわと保護者にも伝わっていくという印象で、だんだんとママ友の間でも明治愛が深まっていきました。

一人ひとり色の違う個性を育てていってほしい

―ご子息が大学の学部を選ぶ際にはご家族でどのようなお話をされましたか?

日髙 とにかく「オープンキャンパスに行って興味のある学部の体験授業を受けてみなさい」と話しました。高校でも1年生の段階で大学紹介や学部選びに向けた三者面談など、進学先について考える機会が多々ありました。息子の希望は国際日本学部一本でしたので、そこに行くためにはどうしたらいいのか、本当にそこが合っているのかといったことを担任の先生が熱心に息子と向き合って一緒に考えてくださいました。本当に明治は面倒見の良い学校でありがたかったです。

―日髙さんは2012年、中学・高校の創立100周年記念式典で司会を務められました。

日髙 息子が高校2年に在学中のことでした。伝統ある重みを感じる式典で、会場となった駿河台キャンパスのアカデミーホール以外にもライブ中継があり、大学からの来賓の方々もいらっしゃいましたので、『タッチ』の初回のアフレコと同じくらいの緊張を感じ、人生の中で最も背筋が伸びた瞬間でした。

―卒業生である三ツ矢さんは、これからの明治大学にはどのようなことを期待されますか?

三ツ矢 このような素晴らしい環境が整った中、画一的ではない一人ひとり色の違う個性を持った社会人を育てていってほしいと思います。

―時代がどんどん変わっていますから、そこに対応するには個性が求められますね。日髙さんは父母の立場からはいかがお考えでしょうか。

日髙 息子が在籍した国際日本学部は、当時は創設10年に満たない学部でした。彼は英語が好きなのですが、他大学で英語関係の学部に進んでいたら明治で体験したような素晴らしい先生や授業には出会うことがなかっただろうと思います。授業の合間にはオフィスアワーといって趣味や流行などに関して英語だけで話し合うという自由な場があり、息子はそこに通って学習意欲の高い仲間と出会い、楽しみながら英語力を高めることができたと言っています。

三ツ矢 実は僕も、英米文学のゼミで英語が話せるようになり感謝しています。授業で出された課題の原書を辞書片手に何冊も読み、さらにジャズ研で歌いながら英語の独特の言い回しを覚えることで、理解がどんどん深まっていきました。僕は明治大学で学んだからこそ英語が話せるようになったと思っています。

日髙 国際日本学部では、英語と同じくらい日本文化についても学ぶのですが、そのジャンルもファッションや映画、ポップカルチャーなど多岐にわたっていて、息子はどの授業も聞き逃したくないという勢いで大学に通っていました。これからも、明治大学は社会のニーズに合った「個」を伸ばす取り組みを先頭に立ってやっていただけるのではないかと大いに期待しています。

―日髙さんはご子息とコミュニケーションを密にとられていますね。

日髙 「大学でこんなに面白いことがあった」といった話をよく家でしてくれたので、私も子どもを通して大学生活の楽しさを味わうことができました。テレビに明治大学の先生が出ていると教えてくれるので一緒に見たり、楽しく過ごしています。

与えられた役割をものにしたから今の自分がある

―次に、お仕事についてもお話を伺いたいと思います。お二人の代表作であるアニメ『タッチ』では、日髙さんは大先輩と共に大作に挑むという感じだったのでしょうか?

日髙 三ツ矢さんをはじめ大先輩ばかりの現場で大変緊張しました。

―日髙さんはアイドルからの転身でしたね。

日髙 そうです。崖っぷちアイドルからの声優です(笑)。

三ツ矢 日髙さんは先輩ばかりの中に一人でポンと入ってきましたが、芸能界のことを知っているのですぐに仲良くなりました。僕は相手役なので一緒にいるようにしていましたが、日髙さんはただ「はい、はい」と言うだけではなく、時には僕に言い返してくるのがうれしかったですね。新人ということで声優として要求されていることが理解できていない時は、なるべくユーモアを交えながら教えるよう心がけました。例えば、アドリブでセーターを脱いでいる時に「ふん!」と大声を出した時は「おまえのセーターは鎧(よろい)か?」とか言ってみたり(笑)。そうそう、台本で頭を叩かれたこともありました。

日髙 南ちゃんがタッちゃんを出席簿で叩くシーンが実際にあったのですが、アドリブでどういう声を出したらいいかわからなくて実際に叩いてみたら、「先輩の頭を叩くなんて!叩くなら自分の頭を叩きなさい」と怒られました。また、2階で洗濯物を干しているタッちゃんのお母さんに、玄関から「おばさん、タッちゃんいる?」と必要以上の大声を出してしまった時には、先輩から「まだそんなに耳は遠くないわよ」と言われたりもしました。その時、三ツ矢さんから「山の上にいるわけじゃないんだから!」と注意されましたよね(笑)。それでやっと〝距離感〞が理解できました。こんな風に皆さんがウィットに富んだアドバイスをくださったので楽しく頑張ることができました。

三ツ矢 冗談が分かる優しいメンバーの中で彼女は育っているから、曲がらずにまっすぐ最後までやり遂げることができたのだと思います。

―『タッチ』では南ちゃんの「タッちゃん」という台詞が多かったのが印象的です。

日髙 本当にそうでしたね。タッちゃんがいろいろ話している合間に南ちゃんが「はい」でも「いいえ」でも質問でもなく、「タッちゃん」「タッちゃん」と繰り返す。当時は、なんで南ちゃんはこんなに「タッちゃん」とばかり言うのだろうと思っていました。もしも今、私があの役を演じたとしても、キャリアを積んでしまったからこそ、「タッちゃん」「タッちゃん」と重ねることの難しさがより深く分かってしまうので、とてもできないと思います。

三ツ矢 アニメ独特の〝息〞になかなか慣れなかったのかもしれませんね。

日髙 そうなのです。声優は、台詞がない時にもアニメの動きが自然に見えるような工夫をアドリブでするのですが、それが私にとっては特殊な技術だったのです。でも、夢中でやっているうちに笑われることが怖くなくなり、失敗を恐れない体質になりました。とりあえずやっちゃうということができるようになりました。

三ツ矢 それがよかったのです。僕たちは、視聴率も高く、再放送も何度もされる、本当に良い作品にめぐり合えたと思っています。最初の頃は、プロデューサーやディレクターそれぞれが持っている南ちゃん像があったから、日髙さんは大変だったと思います。僕にも度々彼らから電話がかかってきましたが、それぞれが違うことを言うのです。それを日髙さんにそのまま伝えていたらきっと混乱してしまうから、僕はあえて伝えず「自分が思う通りにやればいい」とだけ言っていました。でも、放送がスタートし、高視聴率がとれるようになってからは、電話はピタッと止まりました。

日髙 皆さん、私のことが心配だったのでしょう。スタッフの方の作品への思いはとても強かったですものね。

三ツ矢 あんな現場は最初で最後かもしれないですね。やる側の熱量がすごい分、圧迫感みたいなものもありました。僕はそれが全部彼女に行ってしまうのはかわいそうだと思ったので、スタジオを和やかにすることを心がけました。日髙さんはその期待の中で自分の役割をものにしたから、今がある。

日髙 三ツ矢さんには本当に感謝しています。その節は本当にありがとうございました。

「個」を大切に学び、生かしていくことの連続

―今、声優は専門の学校ができるほど憧れの仕事になりましたが、三ツ矢さんはどのようにお感じになっていらっしゃいますか?

三ツ矢 声優志望の方が増えていることは悪いことではないと思いますが、増え方には疑問があります。子ども向けのアニメーションをやられている声優さんは、個性があってきちんと役作りをされているベテランも多いので心配はありませんが、早朝や深夜に放送されている新人が声優をしている作品を見ていると、学校を卒業したことがネックになってしゃべり方がみな似てしまっているように感じます。今は新人が多いので、悪い言葉で言うと使い捨てのようにもなっており、「声優ブーム」という現象は一概には喜べないと思っています。需要と供給で成り立っている分はいいですが、そうではなく大人たちの都合で声優をアイドル化して大きいことをやっていこうという動きもあって、時代は変わってきたなと感じています。地道にやっている人とそうではない人が二極化していることに加え、昔と違ってアニメと洋画の両方をこなす声優もいなくなりました。そうした意味でもこれからの声優さんは大変だなと思います。今はアニメファン以外で声優の名前が分かる人は少ないですから、声優の名前が記憶に残ることは、これから先はなくなってくるかもしれません。

―日髙さんが感じていらっしゃる声優のやりがいはどのようなことでしょうか。

日髙 この仕事は人生を重ねた分、自分の生きてきた出来事が演技に生かされることが多く、若い時に苦手だった表現が今は何の苦もなくできてしまうこともあります。声優は自分の心の持ち方で進化したいと思えば進化できる仕事です。もちろん苦しんだり悩んだりすることもありますが、頑張ると道が開けるという意味でやりがいのある職業だと思います。声優を入口にしていろいろなジャンルに挑戦している方も多く、夢が広がる仕事でもあります。

―お二人のお話を伺うと、「個」を大切に学び、そして生かしていくことの連続なのだと感じました。

三ツ矢 本当にその通りです。どんな仕事でもやる以上は「個」を生かし、評価が得られるようにやる。それが次につながる。その繰り返しです。僕は新人には「一つひとつの仕事で何かをスタジオに置いてきなさい」と言っています。自分がやったことの意味を現場に一つ置いてくることができれば、「こんな人がいたな」と覚えてもらえる。それがとても大事なことなのです。あとは自分を売り込む積極性も大事ですね。日髙さんもある時から吹っ切れて、可愛いお嬢さん役だけでなく、お母さん役や少年役などの役もつかみ取りにいっていましたね。

日髙 オーディションでも、受けた役だけでなく「違う役にもチャレンジさせてください」と伝え、自分からチャンスをいただけるようにアピールしました。

三ツ矢 明治大学で学んだこともそういうことです。ジャズ研でボーカルをやらせてもらうためには、部員に認めてもらわないといけない。だから僕は必死で英語力を鍛えたわけです。何かをやりたいと思って頑張ると、次につながる。このような大事なことを社会に出る前に明治大学で教えてもらえたことに感謝しています。

―今の声優界にも個性的な若手はいますか?

日髙 もちろんです。新しい個性を発見すると私もうれしくなります。今の時代ならではの新鮮な演技に触れると、私もそのエッセンスを盗んで帰ろうと思う時もあります。

三ツ矢 僕も個性的な若手と会えるとうれしいですね。彼らを見ていると、やはり努力している。才能がある人が努力すれば向上しますが、才能があっても努力をしない人はだめになると思います。そういう意味では日髙さんは南ちゃんという一つの種からどんどん芽を出して木になって今花が咲いている時期なのでしょうね。僕は実ができて実が落ちそうな時期かもしれない。種を育てる水や肥料は周囲のプロデューサーやマネージャーだと思います。だからこそ、彼らに「この子は絶対」と思ってもらえることが大切なのです。

―スタッフの方の間でも、三ツ矢さんの若手の育成力への信頼は厚いのでしょうね。

三ツ矢 若手には自分の経験からアドバイスをするようにしています。今では僕たちもベテランの域に入り脇役にまわることも多くなりましたが、そこでも若手とは常に真剣勝負ですから手を抜くわけにはいきません。その中で、僕は脇役を面白がってやっています。歳を重ねて衰えた部分もあるかもしれませんが、今はそこをテクニックでカバーすることを覚えないといけない時期だと思っています。声優業は80歳の現役の先輩もいる仕事ですので、年相応に皆さんの期待に応えていけるよう頑張っていきます。

―その意味でもこれからも進化していくわけですね。日髙さんの今後の目標はいかがですか?

日髙 子育ても終わりましたので、もう一度自分自身を育てるべく、私の中に残っている可能性にチャレンジし続けていきたいです。チャンスに出会った時にきちんと結果を出し続けていくことは、生き甲斐にも、若さの秘訣にもなると思っています。

―お二人とも本日はありがとうございました。お話を伺い、学ばせていただくことがたくさんありました。

三ツ矢 雄二(みつや・ゆうじ)
1954年愛知県生まれ。専門学校の映像クリエイター科で映像作家について学んだ後、明治大学文学部文学科文芸学専攻に入学。大学在学中は演出家・蜷川幸雄氏の事務所に所属し、同氏演出の『王女メディア』初演に出演、また同時期に『超電磁ロボ コン・バトラーV』の主役で声優デビューした。1979年卒業後、本格的に声優の仕事を開始。代表作(アニメ)に『タッチ』(上杉達也)、『さすがの猿飛』(猿飛肉丸)、『キテレツ大百科』(トンガリ)ほか、ドラマ・洋画の吹き替えは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(マーティ役)など多数。ほかに、ミュージカルの作詞、演劇の演出などエンターテインメントの世界で活躍中。

日髙 のり子(ひだか・のりこ)
1962年東京都生まれ。アイドルデビュー後、1984年に声優デビュー。アニメ『タッチ』(浅倉南)、『らんま1/2』(天道あかね)、映画『となりのトトロ』(草壁サツキ)など多くの声を担当。大人気ゲーム『サクラ大戦』ではメインヒロインのエリカ・フォンティーヌを演じ、同作品から派生した舞台『サクラ大戦歌謡ショウ』にも出演。パナソニック(株)のETC車載器の音声案内やCMのほか、『ミライ☆モンスター』(フジテレビ)、『あさイチ』(NHK総合)でナレーションを担当。また、ラジオパーソナリティーも務めるなど幅広く活躍している。