Go Forward

「自由に解釈しうる学園を」

和泉委員会委員長 羽根 次郎

新学期が始まり、和泉に活気が戻ってきた。昼休みにキャンパスを歩いていると、来たる明大祭(11月3日~5日)に向けたイベントの告知や入場券配布などの風景が日常化し始めている。3年余りに及んだコロナ・パニックの結果、消滅したかに見えた学生文化が、誰に教わったわけでもなく、冬を乗り越え春を迎えた草花のように、ひとりでに少しずつ芽吹くようになってきた。

若者の「免疫」や「快復」の力強さには驚かされるばかりだ。中高年と同列には扱えない。「トリセツ」(取扱説明書)など存在しない学生文化のこうした自律性には、まるで「学生」というDNAでもあるのかと思わされる。「寝る子は育つ」「かわいい子には旅をさせよ」……昔の人はよく言ったものだ。

一方、最近の社会にはこのトリセツがあふれ返っている。電化製品のトリセツを隅々まで読む消費者は実在するのであろうか。シラバスだって長く書かないといけない。教員人事を起案するにも、昔の数倍の書類が必要だ。とにかく世の中が冗長になっている。私たちが若き日にみなぎらせた自律性はどこに行ってしまったのだろう。

そんな思いを抱えながら、和泉に新たに建てられた新教育棟(和泉ラーニングスクエア)をのぞくと、これがまた面白い。学生は、誰からも強制されていないのに、二畳ほどのマットにくつろぐ時には一様に靴を脱いでいる。日本らしいといえば日本らしい。トリセツがなくても、学生は自律的に慣習やしきたりをこしらえて、自らにカスタマイズしていく。教えることだけが教育ではない。ビジョンとはトリセツにあるのではなく、当事者の自由な解釈の中にあるのだ。

それ故、大学という空間は、不可知論的なベールをまとった方がいい。分かりにくさの中にこそ、解釈の自由の余地が残されるのだ。余地が残っていれば、将来のビジョンもより広がりを持つことになる。大学そして大学人の振る舞いは詩的であるべきだ。

和泉には、研究棟建て替えの構想が一歩ずつ進展している。あまりに明確なビジョンは、逆に自由な解釈を阻むことになりかねない。最新は出来上がった途端に最新ではなくなる。あれだけ最新に見えたグローバル化の大号令が落ち着いたら、今度は生成系AIの大号令だ。10年後にはどんな号令がかかるのだろう。

だからこそ、理想的な新研究棟を構想するに当たって必要なのは、冗舌なトリセツではなく、哲学や精神であろう。明治を、そして和泉を貫く哲学、精神のイメージを集約しながら、未来の教員にも自由な解釈の可能性が開かれている研究棟が建つことを心より希望している。
(政治経済学部准教授)