明治大学
English Korea Chinese Chinese 交通アクセス お問い合わせ サイトマップ
明治大学TOP > 明治ですから! > 大学史の散歩道 >「ジョルジュ・ブスケ―最初に来日したフランス人法律家―」
大学史の散歩道 / 明治ですから!
「ジョルジュ・ブスケ―最初に来日したフランス人法律家―」
明治大学史資料センター委員 法学部教授 村上 一博
バックナンバーへ 明治ですから!TOPへ
 

 昨年11月に発行された本誌第31号の「大学史の散歩道101」で、明治五年に開校された司法省の法学校(明法寮)に集まった第一期生20名の写真を紹介したが、この学校でフランス法を教えるために来日した最初のフランス人法律家が、ジョルジュ・イレール・ブスケ(Georges Hilaire Bousquet)であった。しばしば混同されるが、左院御雇外人のアルベール・シャルル・ヂュ・ブスケ(Albert Charles Du Bousquet)とはまったくの別人である。第1期生であった本学創立者の岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操(岸本・宮城より遅れて入学)らも、G・ブスケの講義を聴いたのである。



G・ブスケの肖像


 G・ブスケは、1846年3月3日、パリ第16区シャイヨ通15番地(15, Rue de Chaillot) に生まれた。パリ大学を卒業後、パリ控訴院弁護士として活動中の1872(明治5)年1月12日、パリにおいて、鮫島尚信少弁務使との間で、司法省御雇法律顧問としての雇用契約が締結され、同年3月に来日した(26歳)。加太邦憲は、司法省法学校でのG・ブスケの講義について、ボワソナードと比較して、次のように述べている。ボワソナードは講義経験豊かな大家であったから、一冊の法律書も携えず、「その蘊蓄する所豊富なるが故に、講じたき廉々脳中に簇出し、止まる所を知らざるを以て自ら秩序なく、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失」うこともあって「到底初学の者には了解し難」かった。これに対してブスケは、年齢も若く学問も深くないため、講義の項目を予習して覚書を作って講義したので「秩序ありて初学の者にも解し易か」った。もしブスケによる1年有半の薫陶がなかったならば、とてもボワソナードの講義は理解しえなかったであろうから、ブスケに遅れてボワソナードが来日したのは、我々にとって「大幸福」であったと(加太邦憲『自歴譜』岩波文庫)。この加太の言によれば、ボワソナードの講義に1年以上先行して、G・ブスケから「薫陶」を受けたようだが、現時点では、明治7年4月9日に、ボワソナードによる最初の講義である「性法」(=自然法、実質的には民法の財産法原理)講義が始まったのち、G・ブスケが「商法」(明治7年9月17日〜9年2月27日、全61回)と「親族法」(不明)の講義を行ったと考えられているにすぎず、それ以前の「薫陶」の詳細は不明である。ちなみに、このときの講義筆記と思しき仏文が、数年前に、井上操(第1期生の1人)の子孫宅から発見されており、『仏国商法講義』(司法省蔵版、明治11年刊)がその全訳であると思われる(なお、講義の傍ら、G・ブスケは、司法省における民法・商法などの編纂事業にも関与しているが、ここでは触れない)。

 およそ4年間の日本滞在を終え、明治9年5月に帰仏した後のG・ブスケの消息については、西堀昭氏の研究に詳しい。フランス司法省勤務を経て、1879年7月からフランス参事院(Conseil d'Etat) で請願委員などを、次いで、1898年1月末に関税局長(同年11月、日本酒の関税引下げなどに貢献した功労によって日本政府から勲二等旭日章を授与された)を勤めたりしたのち、1937年1月15日、ポルト・マイヨ(Pte Maillot)にほど近い、パリ第16区マラコフ通145番地(145, Avenue de Malakoff)で死去した。享年90歳であった。その墓は、パリ第18区のモンマルトル墓地にある(Cimetiere de Montmartre)。





G・ブスケの死去地





ブスケ家の墓




M-style No.037(2010年9月20日発行)『大学史の散歩道』より


M-style037
ページ先頭へ
駿河台キャンパス 〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1(代)03-3296-4545
和泉キャンパス 〒168-8555 東京都杉並区永福1-9-1(代)03-5300-1121
生田キャンパス 〒214-8571 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1(代)044-934-7171
更新ページ一覧 プライバシーポリシー このサイトについて
© Meiji University,All rights reserved.