明治大学

展示コーナー

コーナー2 ◆ どこからきたの?①(ルーツ)

1中原淳一 1914~83年、香川県生まれ

『ひまわり』1947年6月号
『ひまわり』ひまわり社 1947年6月号
弥生美術館蔵
『ジュニアそれいゆ』1957年18号
『ジュニアそれいゆ』ひまわり社 1957年18号
図書の家蔵

1930年代半ば、『少女の友』のイラストを数多く手がけた人気イラストレーターであり、戦後になるとイラストのみならず『ひまわり』『それいゆ』等の雑誌をトータルコーディネイトする編集者としても活躍しました。少女マンガの図像には、竹久夢二など抒情画の影響が色濃いのですが、特に中原淳一からの影響ははかり知れません。1950年代に少女マンガを手がけた作家たちの多くは、彼からの影響を認めます。中でも高橋真琴は、中原淳一に触発され新しい抒情画の世界を目指す過程で一時期少女マンガを描いていましたし、花村えい子は、中原淳一のような絵が描きたかったがために美大に入ったと述べるほどです。

『虹』2 金竜出版社 1959年6月頃 表紙:谷悠紀子
『虹』2 金竜出版社 1959年6月頃(表紙:谷悠紀子)
個人蔵
『花』13 佐藤プロ 1965年 表紙:高橋真琴
『花』13 佐藤プロ 1965年(表紙:高橋真琴)
個人蔵
※わかば書房より出版されていた貸本少女マンガ誌『花』の
誌名と作家を踏襲してるが別の雑誌

本コーナーや、コーナー1-8で展示した貸本少女マンガ誌『虹』の表紙には、中原の『ジュニアそれいゆ』や『ひまわり』からの影響が強くみてとれます。これは、編集長の長岡比呂志の方針だったとのこと。ケース内の『虹』の表紙は、ニーズを受けてイラストを描き続け『虹』の人気を牽引した谷悠紀子が描いています。『花』の表紙の高橋真琴は、中原の影響をうかがわせつつ、すでに高橋らしい世界を確立しています。

2松本かつぢ 1904~86年、兵庫県生まれ

「女学生の間ではヨーロッパ的な中原型とアメリカ的なかつぢ型とで分かれるほどのブーム時代でした」と、上田トシコが当時を回想するように、松本かつぢは『少女の友』誌上で中原と人気を二分するイラストレーターでした。アメリカ的という言葉には、元気で活発であるというニュアンスが含まれています。のちの少女マンガでは、ヨーロッパ(特にフランス)とアメリカは最も人気のある舞台となりますが、「ヨーロッパ的な中原型」「アメリカ的なかつぢ型」という上田の指摘に、そのルーツの一端をみることが出来ます。

松本かつぢ「ポクちゃんとリューチンさん」
松本かつぢ「ポクちゃんとリューチンさん」
『少女画報』1933年6月号
松本かつぢ資料館webサイトより
松本かつぢ「?(なぞ)のクローバー」
松本かつぢ「?(なぞ)のクローバー」
『少女の友』1934年4月号ふろく
個人蔵
松本かつぢ『クルクルくるみちゃん』1巻
松本かつぢ『クルクルくるみちゃん』1巻
国書刊行会 1987年
個人蔵

かつぢはマンガも得意とし、そのマンガは時に「元祖少女マンガ」と呼ばれます。代表作に雑誌を変え戦前から戦後に続いた「くるくるクルミちゃん」(1938-)があります。またかつぢマンガのごく初期作品であるポクちゃんのシリーズ(1929-)は、上田が「すごく線がきれいで、目がひとつで、棒の鼻だけで人間の顔にみえるんですね、それが不思議で魅力的で」と述べるように、彼女がかつぢを尊敬し弟子入りするきっかけとなった作品です。また、1934年に『少女の友』のふろくとして描れた「?(なぞ)のクローバー」は、等身の高い少女が活躍する12ページのお話。ストーリーマンガの先駆的作品のひとつで、手塚治虫の「リボンの騎士」や上田トシコの「フイチンさん」への連続性が垣間見える重要な作品です。

*参照:松本かつぢ資料館「漫画とキャラクター」コーナー
※紹介した松本かつぢ作品をこちらでご覧いただけます

3バレエ

1946年、東京バレエ団による帝国劇場での「白鳥の湖」全幕公演が22日間にわたって連日満員になりました。これは戦後すぐの日本に、バレエが舞台芸術として受け入れられたことを示す出来事でした。当時最大の娯楽であった映画では、1948年に本格的バレエ映画「赤い靴」(イギリス)が制作され1950年に日本公開。この映画の後、都内にはバレエ教室がたくさん開かれたとのことです。1940年代後半から50年代にかけて、バレエは日本の少女の憧れの存在となったのでしょう。少女誌には1950年頃バレエの記事が増えはじめます。

映画「赤い靴」日本公開時 パンフレット 日本映画社1950年
『赤い靴』日本映画社 日本公開時映画 パンフレット 1950年
個人蔵

バレエを題材にしたマンガは1955年頃に登場し、1950年代後半から60年代はじめに大流行します。少女たちのバレエへの憧れを牽引したのが、デビュー作「母恋ワルツ」(1957)からバレエを題材にし、たくさんのバレエマンガを生み出した牧美也子と、「あらしをこえて」(1957-)、「プチ・ラ」(原作:橋田壽賀子 1961-)など、短いマンガ家時代の作品の多くがバレエものである高橋真琴です。牧美也子の「マキの口笛」(1960-)は、『りぼん』で連載が2年半以上続いた60年代バレエマンガの代表作です。高橋真琴が表紙を飾る『バレエ』は全編バレエマンガの貸本少女短編誌。当時バレエものがいかに流行っていたかがわかる例です。

『バレエ』5 中村書店 1959年3月30日
『バレエ』5 中村書店 1959年3月30日
表紙:高橋真琴
個人蔵
牧美也子「マキの口笛」『りぼん』1962年2月号ふろく
牧美也子「マキの口笛」『りぼん』集英社 1962年2月号ふろく
個人蔵

4手塚治虫 1928~89年、大阪府生まれ

手塚治虫『リボンの騎士』1巻 講談社 1954年12月30日
手塚治虫『リボンの騎士』1巻 講談社 1954年12月30日
個人蔵
手塚治虫『リボンの騎士』2巻 講談社 1954年12月30日
手塚治虫『リボンの騎士』2巻 講談社 1955年8月30日
個人蔵
手塚治虫『リボンの騎士』3巻 講談社 1958年6月25日
手塚治虫『リボンの騎士』3巻 講談社 1958年6月25日
個人蔵

現代の日本文化史を語る上で欠くことのできないマンガ家・手塚治虫の影響は、少女マンガにおいても絶大です。中でも「リボンの騎士」(1953-)は初期少女マンガの代表作として必ず数えられる作品。他にも「ナスビ女王」(1954-)、「エンゼルの丘」(1960-)など、手塚は連載・読み切りをあわせ多数の少女向け作品を少女月刊誌に発表しています。
水野英子、牧美也子、わたなべまさこなど少女マンガジャンルの形成に大きな役割を果した女性マンガ家たちが皆、手塚治虫の存在がマンガ家を目指す大きなきっかけとなったと述べています。彼女たちに影響を与えたのは、上記少女誌掲載の手塚作品ではなく、いわゆる赤本の描きおろし単行本でした。

手塚治虫『漫画大学』東光堂1950年
手塚治虫『漫画大学』東光堂 1950年
データのみ、個人蔵
手塚治虫『拳銃天使』1980年(復刻版)
手塚治虫『拳銃天使』1980年 国書刊行会(復刻版)
現代マンガ図書館蔵
手塚治虫『奇跡の森のものがたり』1980年(復刻版)
手塚治虫『奇跡の森のものがたり』1980年 国書刊行会(復刻版)
現代マンガ図書館蔵

『漫画大学』(東光堂 1950)に衝撃を受け「マンガ家になろう!」と決心したという水野英子は、『拳銃天使』(東光堂 1949)について「キスシーンが出ている。これはすごくショッキングだったけれどとても美しいと思ったんですね」(*)と述べています。描きおろし単行本の頃の手塚作品には、本作のようにのちに少女マンガにとって重要なテーマとなっていく恋愛要素のある作品や、『奇跡の森のものがたり』(東光堂 1949)のように、あきらかに女性読者を意識した作品が見られます。

*参照:手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL「拳銃天使」コーナー
「拳銃天使」のキスシーンはこちら

5母もの

1950年代までの少女向けの媒体に大きな影響を与えた作家としては、「花物語」の代表作をもつ少女小説家・吉屋信子が重要です。中原淳一など抒情画の挿絵とともに少女どうしの独特な友情を書きました。また「母もの」も重要です。母の献身などを題材にする物語はそれ以前からありましたが、1948年、映画「山猫令嬢」の大ヒットを皮切りに、三益愛子が主演の「母もの」は10年間のあいだで33本も撮られ、他社でも制作され大流行しました。

三益愛子主演『母時鳥』(1954年)映画チラシ(試し刷りか?)
三益愛子主演『母時鳥』 映画チラシ 1954年
個人蔵

映画での母ものは母の立場から子への献身を描く物語中心でしたが、少女小説やマンガでは、主人公の少女の立場から母を慕う物語がたくさん描かれました。50年代に少女マンガを描きはじめた作家の多くは、その創作活動を「母もの」に類する物語から始めました。

富永一朗『母なし子星』きんらん社 1957年3月15日
富永一朗『母なし子星』きんらん社 1957年3月15日
昭和漫画館青虫蔵
ちばてつや「ママのバイオリン」『少女クラブ』
ちばてつや「ママのバイオリン」『少女クラブ』
1958年7月号ふろく
米沢嘉博記念図書館蔵

例えば、後年少女誌『りぼん』で、小学生のクラスものをヒットさせる巴里夫は「男としては、少女ものは母ものでなくてはならないとか、吉屋信子でなくてはいけないとか、型から入るしか出来なかったんです。でもそれでは女の先生方の後をついて歩くだけなんです」と、「母もの」を乗りこえるべき類型として語ります。一方常に読者によりそい、かわいらしくも凛とした少女を描き続けた牧美也子は「少女時代、戦争の真っ只中だったんです。後年、母ものであるとか、花だの星だのと言われますけれど、そうではなくて…、必然性があったんですね。あの頃、戦中・戦後、私自身まわりを見てもすべての人がひとつずつストーリーを持っているというような時代だったんです。(略)ひとつ間違えばあれは自分の姿だったと思うような時代を過ごしてきたものですから」と語ります。巴、牧の述懐は、母もの的なお話が存在した意味、その需要の大きさを知ることのできる重要な言葉です。

6オードリー・ヘップバーン
1929~93年、ベルギー生まれ イギリス人 女優

「ローマの休日」日本公開時映画パンフレット
『ローマの休日』外国映画社 日本公開時映画パンフレット
1954年
米沢嘉博記念図書館蔵
「麗しのサブリナ」日本公開時映画パンフレット
『麗しのサブリナ』国際出版社 日本公開時映画パンフレット
1954年
米沢嘉博記念図書館蔵

海外はまだ遠く、洋画が皆の憧れをになっていた時代。オードリー・ヘップバーンは「ローマの休日」(1953、日本公開54)「麗しのサブリナ」(1954)などを通して日本でも大旋風を巻き起こしました。濃い色の髪に小柄で細めの身体は、他のグラマラスな女優たちより日本人に近く、ジバンシィらの手になるおしゃれな衣装もあいまって、ヘップバーンは日本女性のファッション・リーダー的存在となりました。
マンガ家である父を手伝うことから自身もマンガ家となった今村洋子は、父の描く女性がいつも同じ格好をしてるので、オードリー・ヘップバーンスタイルが若者に流行っていると言うと「だったらおまえ描け」と言われ女性を担当するようになったと述べています。

今村つとむ・今村洋子『お嬢さん探偵シリーズ第4話 殺し屋スタイルの男』
今村つとむ・今村洋子
『殺し屋スタイルの男 お嬢さん探偵シリーズ第4話』
1958~61年頃 昭和漫画館青虫蔵
水野英子「ローマの休日」『別冊りぼん』 創刊号
水野英子「ローマの休日」『別冊りぼん』創刊号
1966年1月15日Spring号
個人蔵

展示品の貸本マンガ「お嬢さん探偵シリーズ」などが、今村洋子と父つとむの合作から生まれた作品の一例です。表紙のウエストがキュッと締まってスカートが大きく広がった50年代ファッションの少女がキュート。このシリーズの表紙は当時の貸本の表紙の中でもずばぬけておしゃれです。また、「ローマの休日」は水野英子によってコミカライズされています。公開の10年後、1963年の『りぼん』のふろく用に描かれた作品です。日本でのヘップバーン人気がいかに長く続いていたかがわかります。展示品はこのふろく後に8ページ改稿し『別冊りぼん』創刊号に掲載されたバージョンです。

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