明治大学

展示コーナー

コーナー3◆どこからきたの?②(少女マンガ的表現)

1瞳の星①

水野英子「銀の花びら」(原作:緑川圭子)『少女クラブ』 1958年2月号
水野英子「銀の花びら」(原作:緑川圭子)『少女クラブ』1958年2月号
データのみ、個人蔵
水野英子「星のたてごと」『少女クラブ』1961年10月号
水野英子「星のたてごと」『少女クラブ』1961年10月号
米沢嘉博記念図書館蔵

少女マンガの特徴としてよく話題に上がる瞳の星。水野英子は「私の知るかぎり瞳の十字の星をマンガで初めて入れたのは手塚先生です。小さなコマの小さなお姫さまの目でしたがとても印象的でした」と言っています。「その後に石森先生が『二級天使』で巨大な星を入れたのはショッキングでしたね。そうして瞳の星は皆が描くようになります」危機を感じた時ペケ十字になるという表現も当時のなかまたちと共有していたとのことです。星は、心の動きに応じて描かれ、重要なシーンや顔のアップ時によく入ります。少女マンガでは心の動きがとても大切なので、豊かな感情を表現するため目を大きく描き星もその工夫のひとつでしょう。

*参照:「二級天使」の瞳の星の例はこちら

2瞳の星②

高橋真琴「プリンセス・アン」(原作:橋田壽賀子)『少女』1960年8月号
高橋真琴「プリンセス・アン」(原作:橋田壽賀子)
『少女』1960年8月号
米沢嘉博記念図書館蔵
高橋真琴「プリンセス・アン」(原作:橋田壽賀子)『少女』1960年8月号
左イラストより瞳を拡大

高橋真琴も瞳に星を入れます。高橋の星は、実写の顔のアップの写真などで瞳の斜め下に時々入る白い丸いハイライトが変形したものでしょう。高橋が私淑する中原淳一の瞳にも時々小さく描かれることのあったハイライトをアレンジしたものと考えられます。高橋の絵では、ハイライトの丸い光は初期の頃から入っていますが、星は50年代末に登場し、その後ほとんどすべてのトビラ絵の少女の瞳に入るようになっていきます。描かれる少女の心の清らかさを象徴したり、画面全体の美しさや華やかさを増し読者の感嘆を誘う効果があるのではないでしょうか。高橋タイプの星も少女マンガにたくさん受け継がれました。少女マンガの瞳では、他にも、中央に向かう虹彩の線を変形させてキラキラの工夫に用いたり、カラーで描く際瞳の中のツヤを円のグラデーションで表現したり、目全体でいえばまつげや二重とその影など、多くの趣向が凝らされ続けています。

3スタイル画①

牧美也子「姉妹ふたり」(原作:西谷康二)『少女』1962年5月号 現代マンガ図書館蔵
牧美也子「姉妹ふたり」(原作:西谷康二)
『少女』1962年5月号
現代マンガ図書館蔵

当時『少女クラブ』の編集者であった元講談社の丸山昭は「いわゆる「スタイル画」の描き写しや主人公の似顔絵の投稿が多いものが、人気があると判定することになります」と述べています。スタイル画の人気は、当時の読者が少女のかわいいト―タルファッションをいかに喜んだかを示しています。
牧美也子はスタイル画がずば抜けて上手なマンガ家です。牧の愛らしいデザインは、日本の少女に実際似合うものだったため、「マキの口笛」(1960-)や「りぼんのワルツ」(1963-)などの連載では、「主人公が着ているお洋服を1名に差し上げます」という風に、牧デザインの洋服をプレゼントする懸賞が行われていたほどです。

マミちゃんスタイル懸賞 牧美也子「りぼんのワルツ」『りぼん』1964年8月号
マミちゃんスタイル懸賞 牧美也子「りぼんのワルツ」
『りぼん』1964年8月号
現代マンガ図書館蔵

4スタイル画②

高橋真琴「東京~パリ」(原作:橋田壽賀子)『少女』1958年9月号
高橋真琴「東京~パリ」(原作:橋田壽賀子)
『少女』1958年9月号
米沢嘉博記念図書館蔵

服飾業界では、服だけでなく人体とともに服を描くファッション画をスタイル画と呼ぶことが多いようです。マンガの場合はストーリーの進行とは関係なくページの端に縦いっぱいを用いて描かれる(いわゆる3段ぶち抜きの)全身像のことを一般にスタイル画と呼んでいます。
雑誌では高橋真琴のバレエマンガ「あらしをこえて」(『少女』』1958年1月号)で初めて登場したとされています。高橋は「新しい少女マンガのスタイルを目指していた私は、マンガのコマ割りに関係なく、見開きページを構成し、少女ファッションとして好きなように描いていました」と述べています。

5スタイル画③

望月あきら「カンナの星」『小学四年生』1966年7月号 米沢嘉博記念図書館蔵
望月あきら「カンナの星」『小学四年生』1966年7月号
米沢嘉博記念図書館蔵

望月あきらの少女マンガといえば「サインはV!」(原作:神保史郎、1968-)が有名ですが、それ以外にも貸本から始まり、少なからぬ量の少女マンガを描いていることはあまり知られていません。少女マンガのスタイル画やファッションについては「男のぼくなんかぜんぜん興味も関心もないものだから、どう描いていいかわからなくて」と謙遜していますが、展示の「カンナの星」のかわいらしいスタイル画などを見れば、望月が、読者の少女たちに喜んでもらえるよう、いかに一生懸命少女マンガに取り組んでいたかがわかります。

ちなみに、コーナー3-4、1961年の『少女』では「スタイル絵」とされており、こちらの1966年の『小学四年生』では「スタイル画」とされています。これは「スタイル画」の形式と呼び名が一過性のものではなく、教養誌的側面のあった小学館の学年誌掲載の少女マンガにも描かれるほどに、表現として根づいていたことが分かる例でもあるでしょう。

6舞台が外国

北島洋子「スィート・ラーラ」
北島洋子「伯爵令嬢スィート・ラーラ」
(のちに「スイート・ラーラ」と改題)
『りぼん』1967年10月号
米沢嘉博記念図書館蔵

日本から一般市民が自由に観光旅行で外国に行くことが出来るようになったのは1964年。さらにそれが一般化し始めたのは70年代からでした。それ以前も以降も、少女マンガにはヨーロッパやアメリカ風の舞台を描いた作品がよく登場していました。水野英子は外国を舞台にするのが好きで、多く描いた理由について次のように語っています。「とにかくものすごく広いまだ見たこともない世界というのがあるわけですね。そこが女の子にとってあこがれであったと思うんです。華麗な絵の世界みたいなものは、物のなかった時代にとても自分の中で欲求してたものというか、あるといいなと思った世界で、だからそれが支持されたと思うんです。そういう時代だったですよね」。

また、北島洋子も「やはりよい夢を追いかけるのには現実的じゃないものを見た方がなんとなく夢が広がるような気がして、よく外国を舞台にしました」と述べています。展示の作品は、海外旅行は解禁されたけれどもまだ一般化していない、1967年に連載開始された北島洋子の大ヒット作。イギリスを舞台に、出会う人々をとりこにしてしまう伯爵令嬢のラーラのお話です。

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