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分科会 古文書の基礎を学ぶ会

分科会 古文書の基礎を学ぶ会

古文書の基礎を学ぶ会は、現在「壱」(毎月第一月曜日)、「弐」(毎月第三火曜日)の二部制で活動を実施しています。
当会の学習方法は、配布されたテキストを各自が事前に読み解き、月1回の例会では、順番に2~3行ずつ発表して、出席者全員で検討して確認しています。途中新規に加入された方は、辞書の引き方など、先輩会員の助言を受けながら学習を進めています。新しく入った人は発表を免除され、ある程度判るようになった時点で、本人の申告制で発表に加わります。
「古文書の基礎を学ぶ会壱」では、現在テキストとして、駿州小嶋藩の藩主瀧脇信敏によって書かれた「瀧脇信敏家記」を使用、毎月学習活動をしています。
このテキストは、江戸時代末期に、新政府により駿河国に徳川宗家が江戸より所替になったことで、駿河国の一部に所在した1万石の小藩「小嶋藩」が、玉突きで上総国に所替になる経緯が書かれています。書体は信敏本人ではなく、祐筆によって書かれたものと思われ、比較的判りやすい書体で書かれています。例会での検討時にはその時代背景も含めて議論して、テキストの理解を深めています。
このテキストの面白いところと難しいところは、幕末から明治政府樹立にかけての記述なので、時代背景が混沌としているところです。小嶋藩が上総に移るについて、移転先の大名は幕府側についたため、その館や家屋敷を焼き払って出て行ったことにより、小嶋藩が簡単に移れないことです。そのため、新政府(鎮将府)は最初江戸にある仙台藩、福島藩の屋敷を下賜するので、それを解体して上総へ運び、館として使用せよ、と命令されるが屋敷として大き過ぎ、費用もかかるので辞退するくだりなど、混乱ぶりが見られます。藩主瀧脇信敏と鎮将府の間で多くの書類のやりとりがあり、鎮将府から金壱万両が下賜されるなどして、上総国に桜井藩が新たに設立されます。その後の歴史を知っている、現在の我々は、多くの苦労をしながら設立された桜井藩も、廃藩置県により、数年で無くなります。しかし、当時の瀧脇信敏にとっては知る由もないことです。
「古文書の基礎を学ぶ会弐」ではテキストとして、「紀伊国屋長三郎文書」を学習しています。この文書は、神田塗師町にあった、銅や真鍮を主に取り扱っていた、釘鉄銅物問屋紀伊国屋の八代目長三郎に関する、1800年代の文書です。長三郎は当時の長者番付に記載されていた豪商と言われた人です。
この文書の前半は釘鉄銅物問屋に関する記述で、江戸では当時はほとんどの釘鉄銅物問屋は日本橋、神田地域に分布し、株仲間を組織していたこと、江戸城の火災により、奉行所より上納金を要望され、支払ったことなどが書かれております。
この文書の後半は、八代目長三郎が嘉永4年(1851)2月16日江戸を立ち、大阪・京都へ、さらに瀬戸内から長崎に至り、同年12月24日に江戸に戻る、長期の旅日記に関する記述です。旅の目的は、各地の参詣・見物による文化的素養を深めることと、大阪・京都に多い取引先との連携強化にあったようです。江戸時代前期、長崎を通しての日本の主要輸出品は銀でしたが、後期には銅に代わっておりました。大阪に銅座が置かれ、銅取引の中心地は大阪で、大阪・京都に多くの取引先があったようです。銅は長崎から輸出されていたので旅の目的地の一つになったようです。
6月現在まだ、江戸を立ち、神奈川宿当たりで浦島太郎塚、藤沢で小栗堂、遊行寺を参詣、小田原宿を出て、湯元福住泊までと出発したばかりですが、これから各地の見学の記述を楽しみにしております。
例会
古文書の基礎を学ぶ会壱:毎月第一月曜日 13時30分~15時30分
古文書の基礎を学ぶ会弐:毎月第三火曜日 13時30分~15時30分


場所
博物館教室 (年会費:2,400円)
顧問
 日比 佳代子 明治大学博物館学芸員
お問い合わせ先

明治大学博物館友の会

分科会へ入会希望の方、見学を希望される方は、希望される分科会名と入会希望または見学希望とご記入のうえ、下記へはがきまたはメールでご連絡下さい。

ご希望された方には各分科会よりご案内します。
(現在、募集を行っていない分科会もあります。)
※分科会に正式に入会された方は、明治大学博物館友の会に入会していただきます。(必須条件)


【はがき】
〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1
明治大学博物館友の会

【メール】
meihakutomonokaig★gmail.com
(上記アドレス中、★を@に置き換えてご利用ください。)