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特別講義・上映会 2022年度

映画『道草』上映会&トークイベント

2022年5月25日(水)実施



宍戸大裕監督(左)と細野はるみ名誉教授(右)

【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2022年5月25日(水) 17:30~20:20
【会場】明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント グローバルホール
【来場者数】60人
【コーディネーター】細野はるみ(明治大学名誉教授・情報コミュニケーション学部元教授)

【プログラム】
◆第1部:・映画「道草」上映
 (監督:宍戸大裕/95分)
◆第2部:講演・トーク
【登壇者】
 宍戸大裕氏 (本作品監督・映像作家)
 細野はるみ

・宍戸監督の講演
・質疑応答
報告:細野はるみ(明治大学名誉教授)
 ジェンダーセンターでは多様性の理解と共生社会の実現に寄与することを設立以来の目的の一つとしており、現在ではセンターの取り上げる課題として「ジェンダー」のほかに「ダイバーシティ」「承認」も加えて3つの項目をキーコンセプトとして掲げている。そうした中で、特に多様性への理解を深めるための問題提起をこめた企画として、2016年度には自閉症の女性とその周囲の人々を扱ったドキュメンタリー映画「ちづる」の上映会を、2018年度には知的障害者の社会参加を描いた舞台劇「幸福な職場」の映像化作品の上映会を実施してきた。今回はそれに次いで知的障害者の地域での自立生活を扱ったドキュメンタリー映画「道草」を通して、障害者、特に認識やコミュニケーションに困難があるために社会的に置き去りにされがちな知的障害者や自閉症、発達障害者をめぐる状況の理解への提言をめざした。一連の企画はこの3作で完結させる予定であったが、2020年春に予定していた上映会が新型コロナ感染症の蔓延のあおりを受けて中止となり、2年の時を経て本年何とか対面での開催にこぎつけることができた。
 今回の企画以前のものについては『ジェンダーセンター年次報告書』2016年度版、及び2018年度版をご参照いただきたい。
 学生たちにとって、大学という知的集団では特にこうした問題に興味関心がないと知的障害者には目を向けにくいかもしれない。義務教育期間中には教室で見かけた障害者も、知的に選別された集団である高校や大学へと進むにつれいつの間にか周囲から見えなくなってしまう。また性的少数者や人種差別を受ける当事者たちと比べると知的や発達の障害者は声を上げにくく、社会的状況とともに障害そのものの特性により、当事者本人の声をすくい上げることは困難である。知的障害者をめぐる一連の問題提起を企画したのも、まずは広くこの問題に目を向けてほしいからであった。
 映画「道草」は家族によるケアや障害者施設、病院などでの生活から離れて地域で支援を受けながら自立生活をする障害当事者4人の具体的な日常を描いたドキュメンタリー作品で、上映時間は約95分である。
 監督は映像作家の宍戸大裕氏である。宍戸氏の作品では、東京の高尾山の開発による自然破壊とそれに反対する地元住民の問題や、人工呼吸器を使用しながら地域で生きていく障害者、知的障害者の入所施設での人生などを扱ってきた。いずれも困難な立場で生きる人々の姿から「共生」の諸相を扱う社会性の強い作品であるが、特に東日本大震災で被災した動物たちを追った作品では、人間と同じように動物も被災していることに焦点を合わせている。「共生社会」といってもとかく人間中心で捉えがちな視点に対し、より広い視野を提示しているといえよう。

 映画「道草」に登場する4人はすべて男性で、自閉症と知的障害を併せ持っている。障害の程度はそれぞれだが、発達障害の一種である自閉症者にはこだわりが強かったり人とのかかわりが難しかったりする人も多く、いわゆる「健常者」には当たり前の日常生活が極めて困難で、時にパニック、自傷、他害などに至るために家族だけで支えるのは限界がある場合も少なくない。従来こうした人たちは家族を離れて施設での集団生活に移行したり、それでも困難な場合は強制的に精神科病院に入院させられたりしてきた。しかしこの種の障害を持つ人々はそもそも多くの人が集まる場が苦手な者が多いため、施設のような集団的な支援には無理がある。
 近年、「重度訪問介護」という福祉制度を使って施設ではなく地域での住居を借りるなどして親元を離れ、集団生活とは違った個別のスケジュールに従って自立した生活を始めるケースが徐々に現れてきた。この制度はもっぱら重度の身体障害者に使われてきていたが、2014年以降は知的や精神の障害が重度の当事者にも対象が拡大され、家族や施設に頼らずに介護者の助けを受けての一人暮らしの可能性が広がった。この制度を使えば「外出」とか「家事援助」などの目的が限定された支援ではなく、本人に必要とされる限り日常生活全般にわたって支援ができ、その内容は限定されないというメリットがある。自閉症者は特に周囲の状況に敏感に反応して落ち着きを失いパニックを起こしたりしやすいので、ともに時間を過ごす「見守り」も重要な支援の一つである。
 映画の最初に登場するR君の両親は、幼少期に彼が自閉症・知的障害であるとわかってからは将来を見すえて早くから彼と支援者との関係を築いていった。青年期に至って親元を離れた彼は地域生活のパイオニアの一人といえよう。複数のヘルパーが交替で関わり昼間は作業所に通い、夜はヘルパーと共に過ごす。ヘルパーは本人のマイペースに付き合いながら時に困り果て、時に焦ってもしょうがないと開き直って対応するが、その様はどこかのどかでほほえましく、自然と当事者自身のみならず、ヘルパーの人となりも映し出されてくる。
 2人目のH君、3人目のY君はともに施設での生活が長かった。そのため、H君は急に大声を出したりするなど強迫的な行動をコントロールできず、制止してもすぐに繰り返す。また、食事の好みなどは主張せず、ヘルパーに対し過度に従順すぎる彼に対し、逆にヘルパーの方が、自己を抑えて生活してきたであろう彼の施設生活に思いをいたす。
 Y君は落ち着きを失うとところかまわず暴れてしまうため、集合住宅では難しく戸建て住宅で生活する。2階で大声を上げ部屋の中で暴れてそこら中を壊す彼を抑えることができない父親が階下で腕組みをしてじっと彼の興奮が収まるのを待っている。ヘルパーでもある父親も含め、彼の支援に入っている介護者たちが集まってどのように支援したらいいか相談するがなかなか容易ではなく、時に精神科病院への一時的な入院生活を余儀なくされたりもする。Y君本人は落ち着いている時は至って穏やかな表情なのだが、長い施設での生活の中では、おそらく虐待も含め、つらい思いをたくさん重ねてきたのだろう。そうした蓄積が暴力という形をとっての彼の表現になってしまっている。
 4人目のK君は相模原の障害者施設で起きた「津久井やまゆり園事件」の被害者の1人で、この映画の製作中に起きた事件のその後が映画に盛り込まれた。彼を長く施設に託してきた両親は、事件によって「施設」というものと直面することになる。託した当初にはなかった「支援を受けての地域生活」というものを知り、息子の将来のために、事件後に再建される施設に戻すのではなく、新しい生活の可能性に賭けることを選ぶ。

 映画全体を通して、ハンディを持つ人々の平穏な暮らしはどのように保証されるのかが問われている。まずは家族が支えるべきだという声は当然予想されるが、時にこうしたケースでのケアは文字通りの命がけであり、家族だけでは限界がある場合も少なくない。日本ではとかくケアを家族の中だけに追い込んでしまうために、近すぎるが故の過重負担などの困難も稀ではない。では施設かというと、それも十全ではない。個々に違ったあり方の障害当事者の集団での日常生活を成り立たせるためには、力による制圧や長期にわたる薬の常用などの手段によって個を抑えてコントロールすることも多々ある。そこに問題があっても、自閉症や知的障害の当事者は自分自身でそれを表明し訴えることが非常に困難で、彼ら自身の口からその思いはどうであるのかが語られることはまずない。
 といって、彼らが何も思わないのではない。ただそれを表現する手段を持ち合わせないだけである。周囲から見て「問題行動」と思われる振る舞いも、彼らにとっては必死の表現であるのではないか。H君の支援をするヘルパーが「この人たちの生きる意味」について真剣に考えこむ場面がある。こうした支援を担う人たちは当事者に近しく接触することによって、逆に彼らの生きる意味と同時に自分の生きる意味を考えることになるのかもしれない。「共に生きる」とは、こうした自己と他者のそれぞれの立場に思いを巡らす「想像力」や「共感性」に支えられてこそ、生きたものになるのではないだろうか。
 障害者の生活を家族だけで背負うのには限界がある、といって、施設に託せばいいかというとそれも違う。「健常者」は教育や職業など様々な場面で「障害者」を分離することで社会の平穏を維持してきた。それは日常生活全般においても同様で、自宅での生活が困難であれば施設へと向かわせてきた。しかし自閉症・発達障害の当事者は大規模な施設での集団生活自体が困難である。そこで障害者の個別の事情に応じた支援「パーソナルアシスタンス」(注)が提唱され、また生活の全体をカバーする「重度訪問介護」の制度が利用できるようになった。今後は障害者にとってもQOL(生活の質)を確保するというインクルーシブな社会に向かっていくことが望まれる。

 ここ数年、障害者をめぐる状況には様々な出来事があった。中でも社会的に重大な関心を呼び起こしたのは2016年7月に起きた神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺人・傷害事件であっただろう。施設の元職員でありながら障害者は社会にはお荷物であるという犯人の主張は、優生思想を真っ向から突き付けて社会を震撼させた。
 また2018年には官公庁での障害者雇用の数値の水増し問題が軒並み表面化したり、旧優生保護法を根拠とした障害者への強制不妊手術の人権侵害問題が当事者たちから提訴されたりもした。2020年には「やまゆり園事件」の裁判の判決が下り、被告は死刑の判決を控訴することなく確定させ、社会は事件に至る詳細を犯人の声を通して熟慮する手掛かりを失った。(その後、2022年4月には植松死刑囚は再審を請求した。)
 今年2022年9月、国連は「障害者権利条約」に対する日本の取り組みを審査して勧告を出した。この条約は障害に基づくあらゆる差別の禁止や教育の平等など、障害者の人権全般にわたって言及しており、2006年に国連で採択され2008年に発効し、日本は2014年に批准した。しかしその後も日本政府の具体的な取り組みはなかなか進まず、今回の審査ではかなり踏み込んで日本の対応の問題点を指摘している。日本の法規や制度の整備上特に遅れているのが、
 障害者を精神科病院に強制的に入院させ自由を奪うことの解消
 そこでの隔離・身体拘束・強制投薬などの強制的治療のあり方
 施設に収容することで終わりとすることからの脱施設化
 分離された特別教育からインクルーシブ教育へ
 といった問題であると指摘された。特に日本では人口に対する精神科病院の病床数が他国に比べて格段に多く、入院期間も長期にわたることが少なくない。精神科病院は急性期の精神疾患の患者を受け入れるという本来の機能以上に、障害者や高齢者など社会的に支援の困難な人々の受け皿になってしまっている。
 「障害者権利条約」では、社会の側が自分たちに都合のいい「障害者のため」の論理を押し付けるのではなく、障害者自身の主体性を確保することが人権尊重のためには最も大切だと言っている。こうしたことへの取り組みは政治の力で対処するべきであるのは言うまでもないが、同時に社会全体で、障害者を排除して見えない存在に置くことに安住せずに「共に生きる」社会を築く意識を高めていくことは不可欠である。我々は、「健常者」の側の内なる差別意識にもっと敏感になる必要があるのではないか。
 せっかく歩み始めた障害者の自立した地域生活への移行だが、現実には広がっていくどころか近年減少傾向にあり、依然として施設利用などが担っている。背景には介護者の待遇など社会的評価もまだまだ十分とは言えず、そこからくる人材不足なども関わっていよう。さらに世界中で新型コロナ感染症が蔓延し、あらゆる場面での変換を余儀なくされた。こうした状況の影響を受けて真っ先に行き詰まるのが、この映画に登場するような障害のある人たちなども含め社会的に弱い立場の人たちである。障害当事者の地域での日常生活の支援を担う現場の介護ヘルパーの人たちは身体的に近い距離での支援が不可欠なため、コロナ状況下では様々な制約を受けざるを得なかった。
 社会的な理解の深まりと差別への意識改革、政治の力を使った制度の確立はもちろん欠かせないが、それを実現するのは現場にいる支援の担い手たちである。いかに共生の理論が進展しようと、現実との乖離があれば机上の空論に過ぎない。日常生活を成立させるために最も大事で、またもっとも大変なのが「ケア」である。ここに登場する当事者たちは「自立生活」といっても完全に一人では困難で、しかし本人の意思を尊重するにもコミュニケーション自体に困難があり、食い違ったり時間がかかったりすることは頻繁に起こる。ケアに当たる人は効率的、合理的な対応を強いることを一旦停止し、障害当事者の実際の姿を虚心坦懐に見ることで事態の打開を図ることになるが、それは家族であっても介護者であっても非常な忍耐と冷静さを要請されることでもある。そしてそれは実は障害者に限ったことではなく、すべての人が生き易い社会の構築に必要なことなのではないだろうか。この映画ではそのような姿をも見せてくれたように思う。

【来場者の感想】
 トークイベントでは宍戸監督の講演の後、監督からの希望で映画終了後に会場から寄せられた声に多く答えるような形で進めた。最も多かった質問は、
この映画の製作に至る動機は何か、何をメッセージとして伝えようとしたのか、
自然な関係での撮影にあたって注意したことは何か、
の2点であった。
 次いで、日常的に障害者の姿を近くで見る機会がない人々の理解を広げるためにはどうしたらいいか、障害者とどのようにかかわっていけばいいのか、共に生きることに現在最も大きな壁になっていることは何かなどの質問もあった。逆に、参加者の中に自身が発達障害当事者であり、周囲の配慮以上に理解が必要だという経験を語った声もあった。いずれについても時間の制限を気にしながら登壇者と会場との活発な意見交換が行われた。
 また、支援を受ける側も介護者も男性が多いが女性はいないのかという質問もいくつかあったが、これについては登壇者の1人が実際に身内に女性の当事者で同様のケースを持つことを紹介した。
 介護者についてのコメントもあり、この映画では障害者だけでなく介護者にもフォーカスされていることを評価する声、また、地域生活を始めるのは本人・家族・支援者のうちだれが主導するのか、介護者の人員はどうやって確保するのか、費用負担はどうなっているのか、自立支援は早い方がいいのか、家族であれ介護者であれ負担は大きいだろうが、挫折してしまう介護者もあるのか、など実際の支援の進め方について踏み込んだ質問もあった。
 見逃せないのは、障害者とかかわるのは怖くて、こうした気持ちを持つ人は多く、その意識を変えるのは不可能と感じるという声である。この種の意見は決して稀ではなく、社会的費用負担への拒否感も含めて、こうした声とこそ真摯に、地道に対話を重ねていく必要があると痛感する。
 終了後に回収したアンケートには参加者60名のうち27名から回答が寄せられ、「とても良かった」「良かった」を合わせて9割以上と好評だった。映画のインパクトは強いので上映会とセットでのイベントは有意義だった、いろいろと知ることができた、考えさせられた、自分も含めた全員が当事者であると感じた、などのコメントがあった。

(注)
『パーソナルアシスタンス——障害者権利条約時代の新・支援システムへ——』岡部耕典著、2017年2月、生活書院

講演会『相模原事件をどう乗り越えるのか——「内なる優生思想」と決別するために』

2022年6月22日(水)実施



西角純志氏(左)と宮本真也教授(右)

2022年6月22日(水)開催
講演会
『相模原事件をどう乗り越えるのか——「内なる優生思想」と決別するために』

【登壇者】
西角純志氏(にしかど・じゅんじ)
専修大学講師。博士。専門は社会思想史。『元職員による徹底検証 相模原障害者殺傷事件——裁判の記録・被告との対話・関係者の証言』(明石書店、2021年)で2022年度社会理論学会研究奨励賞受賞。主な業績として『移動する理論——ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、「法・正義・暴力—法と法外なもの」『社会科学年報』(第54号、2020年)などがある。

【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2022年6月22日(水)17:30-20:00
【会場】明治大学駿河台キャンパスグローバルフロント1階グローバルホール
【司会・コーディネーター】宮本真也(情報コミュニケーション学部教授)
報告:宮本真也(情報コミュニケーション学部教授)
 2016年7月に発生した知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件から6年が経とうとするなか、この講演会は企画された。事件発生直後から今日にいたる報道において、障害者とその家族をめぐる差別が起きないための配慮がなされてはいたが、他方で事件そのもののが忘却されてしまうことが懸念されていた。
 この講演会では、事件以前の「津久井やまゆり園」に職員としても勤務し、亡くなられた方々の生活支援も担当されていた西角純志さんをお招きし、障害者差別と優生思想について再考し、意見交換を行った。西角さんはこれまで、事件の裁判を傍聴し、加害者との面会と書面を通じて犯行の動機と真相を明らかにしようとし、私たちにも潜在的に働いている優生思想を解き明かそうと試みてきた。
 誰もが人間らしく生きるという権利は、私たちのあいだで当たり前のこととされているが、他方で私たちの社会は「役に立つ」「生産性の高い」人物が優遇される社会でもある。価値観の異なる自己と他者とのあいだのコンフリクトをどのように考えるのか、私たちが曖昧に放置しておきがちな問題をメディアはどのように伝えるべきかなど、事件後に浮き彫りになった問題も含めて、多角的に考えてみることが今回の狙いであった。

 講演において西角さんは、①人間社会の根源悪、②事件発生以降の神奈川県の動向、③事件をどう乗り越えるのか、という三つのポイントについて議論を展開した。本来内部にあるはずの「悪」であるが、それを正当化するために、外部に「邪悪なもの」を作り出し、自分や社会の不幸や危機の理由としてしまう私たちの傾向を、西角さんは講演を通じて批判的に論じた。自分自身の行為や言葉の正当さや善いことに私たちは疑わないのは、なによりも私たちの内部にこそ悪があり、その悪に私たちが気づいているからこそ、他者への攻撃は強まるのである。こうした人間社会の内にある「根源的な悪」、「見えない敵」こそに「内なる優生思想」があることを西角さんは指摘した。
 この「内なる優生思想」が新自由主義的な社会において蔓延した結果が、西角さんによると、経済的、身体的に見て社会的に弱いものを「自己責任論」の名のもとに切り捨てようとする傾向である。この傾向を批判したのちに、西角さんは克服のヒントについて言及した。西角さんは他者の弱さを自覚することで、自分のあり方を正当化する前に、私たちは「自分の内にある弱さを直視」しないといけないとする。加害者である植松のように自分の外に敵を作り、不幸や不自由の理由を説明したり、成長を追い求めるのではなく、矛盾のなかで踏みとどまって考え続ける必要性を最後に西角さんは強くアピールした。
 講演のあとには、司会の宮本が西角さんのお話にコメントと質問を行い、フロアも含めて非常に活発なディスカッションが展開された。寄せられた質問はすべて対応できないほどであった。
 新型コロナ感染症の拡大後、対面でのジェンダーセンターのイベントは2回目であったが、申し込み総数が93名(+関係者6名=99名)、実際の参加者数が79名という数字からも分かるように、大変関心が持たれた講演会であった。アンケートの提出率も高く、今後のジェンダーセンターの活動について期待を示す声も多く寄せられ、社会的承認やLGBTQ+のイベントへの関心を読み取ることができよう。 

講演会『社会的コンフリクトとしての持続可能性』

2022年11月7日(月)実施



講演するジークハルト・ネッケル教授

 2022年11月7日(月)開催
講演会『社会的コンフリクトとしての持続可能性』

【登壇者】ジークハルト・ネッケル氏
ハンブルク大学(ドイツ連邦共和国)教授。専門は経済社会学、不平等研究、持続可能性の社会学、感情社会学など幅広いが、その中心には現代の資本主義分析がある。ベルリン自由大学で教授資格を取得後、ジーゲン大学、ウィーン大学、ゲーテ大学(フランクフルト)教授を歴任する。邦訳としては『地位と恥辱—社会的不平等の象徴的再生産』(岡原正幸訳、法政大学出版局、1999年)、「エモーショナル・キャピタリズムの文化—現代の感情操縦のパラドックス」(三島憲一訳、『思想』2015年5月号、岩波書店、2015年)がある。
【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2022年11月7日(月)17:00-19:30
【会場】明治大学駿河台キャンパスグローバルフロント1階多目的室
【司会・コーディネーター】宮本真也(情報コミュニケーション学部教授)
             出口剛司(東京大学大学院教授・学外運営委員)
【逐次通訳】横山陸(中央大学准教授)
報告:出口剛司(東京大学大学院教授・学外運営委員)
 今日、「持続可能性(Nachhaltigkeit)」という理念は、人類社会がめざすべき共通の目標として広く受け入れられている。ただし、一般的に持続可能性といえば、悪化し続ける自然環境問題に対する実践的な処方箋として理解されることが多い。しかし本センターは、「日本のみならず国際社会において持続可能な社会の実現は喫緊の課題とされ、そのためにはジェンダー問題の解決が地球環境、貧困等の課題解決と同等に重要であるとの認識」に立ち、持続可能な社会の実現にジェンダー問題の解決が不可欠であると位置づけてきた(ホームページ「センター長あいさつ」より)。また、歴史的にもエコロジーとジェンダーとの間には深いつながりがあり、1980年代に展開された有名なエコ・フェミ論争がそのことを証明している。こうした問題意識を背景に、社会学の観点から持続可能性の問題に取り組むハンブルク大学教授のジークハルト・ネッケル氏の講演会を企画した。司会は、運営委員の宮本、出口が行い、通訳を中央大学の横山陸氏に依頼した。
 ネッケル氏の講演のポイントは、「将来にわたって再生可能で良好な自然環境を維持することをめざす」という意味での持続可能性とそうした持続可能性をめざした生活様式それ自体とが、社会的コンフリクトを引き起こす要因となるという点にある。事実、エコロジー志向は大学で高い教育を受けた都市部の中間層に拡大する一方、右派ポピュリズムや旧中間層、不安定層(プレカリアート)の間では、環境政策や環境保護に対する抗議活動が活発化している。さらにネッケル氏は、中間層における持続可能性が一つの集合的なアイデンティティと化し、ブルデュー的な意味での他の社会集団に対する卓越化の原理として、生活機会(資源)の確保に貢献している点を指摘する。そうした中で、道徳的責任と化したエコロジカルで禁欲的な中間層の生活様式に対し、右派ポピュリズムは道徳に対抗する「市民の権利」として、環境に有害な政策を正当化するという事態も生じている。さらに、持続可能性をめぐるコンフリクトは住宅問題でも顕在化し、グリーン都市をめざす再開発(ジェントリフィケーション)が、中間層のエコロジカルな生活様式に対応した都市空間を生み出す一方、いわゆる低所得者層は中心部の地価高騰から郊外へと排除されていくのである。
 日本では、持続可能性は「エコ」という言葉とともに、一部の「意識の高い」人々のライフスタイルという認識にとどまり、政治の場ではコンフリクトの要因というよりも、上からの政策目標という性格が強い。しかし、格差拡大や物価高騰という現状を前にして、「社会的コンフリクトとしての持続可能性」というテーマは、将来の日本における「エコ」問題を考える上で極めて示唆的である。

特別講義『企業トップの考えるダイバーシティ・マネジメント』

2022年11月17日(木)実施

トークセッションを行う新浪剛史氏 トークセッションを行う牛尾教授 新浪剛史氏(中央左)、牛尾教授(中央右)と、牛尾ゼミ一同

 2022年11月17日(木)開催
特別講義『企業トップの考えるダイバーシティ・マネジメント』

【講師】新浪剛史氏(サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長)
【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2022年11月17日(木)13:30〜15:00(13:00開場)
【会場】明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント1階 グローバルホール 及び、Zoomウェビナー開催
【来場者数】会場約90人、ウェビナー約50人
報告:牛尾 奈緒美(情報コミュニケーション学部教授)
  2022 年 11 月 17 日に特別講義「企業トップの考えるダイバーシティ・マネジメント」を主催した。今年で5回目となる本会は、3年ぶりの対面とリアルタイムのズームウェビナーも併用するハイブリッド形式での開催となった。会場はグローバルホールを使用し、対人距離の確保やマスクの着用など感染症対策に万全を期したうえで、収容人数を制限して行った。当日は学生を中心とした幅広い参加者層となり、会場参加は約90人、ウェビナーの視聴も45人を超える盛況となった。
 会にはサントリーホールディングス株式会社代表取締役社長の新浪剛史氏をゲストに迎え、冒頭に牛尾ゼミナールの学生による企業説明プレゼンテーション、新浪氏と牛尾によるトークセッション、後半は参加者との質疑応答が行われた。質問にあたっては挙手する者が後を絶たず、経営や組織問題、ジェンダーや女性活躍についてなど活発な議論が繰り広げられた。
 本特別講義のテーマである「ダイバーシティ」について、新浪氏は、「経営の根幹であり、組織の多様性なくしてイノベーションは生まれない」と断言した。終了後、参加者からは、「日本を代表する大企業の社⾧である、新浪社⾧の経営理念や考え方を直接聞けて非常に貴重な経験であった。」、「ダイバーシティ推進は、短期的に成し遂げられる問題ではなく、⾧期的に見ていかなければならない問題であると感じた。」などの感想が寄せられた。