Go Forward

商学部

第二回商学部ミニ・シンポジウム「『外国語ができる』とは?」が開催されました

2013年11月05日
明治大学 商学部事務室

佐藤健氏(商学部OB)佐藤健氏(商学部OB)

山本雄一郎准教授(商学部)山本雄一郎准教授(商学部)

小川,ジュヌヴィエヴ F.教授(商学部) 小川,ジュヌヴィエヴ F.教授(商学部) 

石黒太郎教授(商学部)石黒太郎教授(商学部)

パネルディスカッションの様子パネルディスカッションの様子

「英語ができること」-「外国語を学ぶこと」 

第二回商学部和泉ミニ・シンポジウム「『外国語ができる』とは?」に参加して

開催日時:20131029日(火)1630分~1840

会 場: 明治大学和泉キャンパス・和泉図書館ホール

 

本シンポジウムは、秋雨のそぼ降る夕刻の和泉図書館ホールで開催された。記録というよりも感想を中心に述べながら、記念すべきシンポジウムを記憶にとどめたい。

オリックス株式会社の元専務執行役であり、商学部OBでもある佐藤健氏によるご自身の海外勤務でのご経験についての講演が、話題の端緒であった。氏の世界をまたにかけたビジネスの現場における経験が、このシンポジウムで展開される幅広く、奥深い議論の裏付けとなることを理解し、予測していた聴衆は、慎ましい氏の語り口もあって、多くはなかったのではないだろうか。ジャカルタで、ニューヨークのマッハッタンで、オーストラリアでの多様な経験はそれ自体に含蓄あるものであり、示唆に富むものであった。また、目先の手の届くところではなく、より高い目標を掲げて進むことが、「経営的な観点から」現在の日本の大学、明治大学に求められているのではないかとの指摘があり、大いに会場を刺激した。

次いで、ビジネス英語をご担当の山本雄一郎先生が、ビジネスコミュニケーションのツールとしての外国語、英語について説明された。和泉で一般教育を担当している教員にとって、専門科目としてどのような英語教育が位置づけられ、講義されているのかは、大変興味深いものであったが、ビジネスの「道具(ツール)」としての英語、という論旨はきわめて明確であった。英語学習の「延長上」にあり、ビジネスに関する一定程度の専門的知識を踏まえて習得し得るものという位置づけについても、いわゆる英語教育とは一線を画する、ビジネスの現場における語彙や構文、さらには取引や契約などの交渉に及ぶ領域までがその範疇であるとの説明がなされ、商学専門科目の中の「ビジネス英語」の位置を明確に示しており、専門外の聴衆や学生たちにも説得力あるものだっただろう。

小川ジュヌヴィエブF.先生は英語以外の外国語としてのフランス語の観点から、国際交流にとっての外国語を学ぶ意義について報告された。ことばを通じて、文化の異なる人が互いに理解しあうことの意味を、ご自身の経験から学生たちにも理解しやすく例を挙げて話された。江戸時代の海外への旅、1867年にフランス万博に訪れた日本人たちのフランス語をパリの人たちはどのように受け止めたのだろうか、1859年に函館にやってきたフランス人たちはどんな食事をしていたのだろう・・・。時空を超えた異文化に対する想像力が、文化間の交流へと人を突き動かす源泉である。臆せず、どんどん積極的に取り組んでみようという呼びかけは、先生のお人柄そのものから発する、強いメッセージとして参加者の心にも届いたのではないか。

最後に登壇したのは、石黒太郎先生であった。古典ラテン語を学ぶことの歴史的位置とその変遷について、二言語変種(diglossia)に関するご自身のご専門の観点から話されたが、そのことは私たちが外国語を学ぶことの意味をも問い直すというメッセージを含んでいたように思われる。言語の習得は、「立身出世」に必要な道具として目的化されてきた。それは言語間に、高位言語と低位言語という関係性が存在するためであり、低位言語には高位言語からの移転があり、その逆はないという位相とも関連している。こうした石黒先生の考察は、翻って、私たち日本人が英語を学ぶことの意義を唱えることの意味を問うているように響いた。言語の歴史的パースぺクティブからみると、ビジネス現場での英語の必要以上の強調は、日本語の地位を脅かすことをも意味しているのかもしれない。

本シンポジウムに参加した学生たちからは、積極的な質問が出され、意識の高さをうかがわせた。はじめに挙手した学生は、英語を学ぶことそのものの意味、異文化交流の意味に対し、ビジネスの「道具」(手段)として英語を学ぶというビジネス英語の意味(目的)は何か、と問いかけた。ビジネスの現場で具体的に必要とされる英語とはどのようなものか、石黒報告を受けた、議論を促す問いかけだったと思われるが、パネラーの間では「英語を学ぶこと」の意味に転化され、学生を諭す議論にしか展開しなかったのは残念だった。

本シンポジウムのテーマは、「外国語ができること」であったが、しばしば議論は英語を学ぶことにすり替わっていた。異文化を理解するために「外国語を学ぶこと」と、自身の「立身出世」の手段である「英語ができること」とは次元の異なることである。こうした認識を明確にできたのは、本シンポジウムの成果のひとつだったと感じている。外国語を学ぶということは、個人の物語の中ではひとつながりの経験として認識されるかもしれない。しかし、「立身出世」の手段として社会的に要請されていることが過度に強調されるならば、自文化の言語を低位言語として位置づける営みに積極的に参画することとも解釈できる。そのことに自覚的であるかどうか、ということも現在の日本人が問われている状況なのではないか。

したがって、それは私たち自身のことば、日本語を見直す契機としても重要である。本シンポジウムで、日本語の専門家からの発話があれば、さらに議論が広がったのではないだろうか。しかし、そうしないことによって、むしろ各自がことば、日本語について考える契機となることが意図されていたのかもしれない。

言語を習得することをめぐって、さまざまな思考に向かう刺激を与えてくれた報告者のみなさんの充実した報告内容と、日本語担当の佐藤政光先生をはじめとする企画担当の方々に感謝したい。こうした取り組みの積み重ねが、商学部の教育・研究を一歩ずつ高めていく礎となることを願います。

中川秀一(商学部教務主任)