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経緯学堂開設の頃(アジア編)

錦町校舎(経緯学堂の門標が見える)

2026.10 
経緯学堂開設の頃
 
明治大学史資料センター運営委員
三田剛史(商学部教授)

 明治・大正・昭和前期の明治大学が日本におけるアジア留学生の主要受入校の一つであったこと、清韓留学生受入のため1904年に経緯学堂が開設されたことは、すでに本欄の「渋沢栄一と明治大学のアジア留学生支援」(阿部裕樹、2022.8)で触れられている。本稿では、明治大学が経緯学堂開設にどのような意図を有していたのかを考えてみたい。
 その前に、1904年頃の明治大学の状況を振り返っておく。
 
 1896年11月 はじめて留学生受入
 1901年 7月 創立満20年記念式典挙行
 1903年 8月 「明治大学」へ改称(専門学校令による)
 1904年 4月 法学部・政学部・文学部・商学部四学部と学則改正認可
      9月 『明治学報』発刊(『明治法学』改題)
       経緯学堂開設
 1907年 7月 政学部と商学部第一回卒業式
 1910年12月 経緯学堂閉鎖
  ※明治大学史資料センター編『明治大学の歴史』(DTP出版、2017年)の「巻末資料・略年譜」による
 
1903年に明治法律学校から専門学校令上の明治大学となり、四学部制をとることになり、1904年9月12日には法学部、政学部、商学部の3学部が正式に授業を開始することになり、総合大学への道を歩み始めていた。経緯学堂は3学部に遅れて同月17日に授業を開始することになった。日本という国家を見れば、1904年2月に対露宣戦して日露戦争が勃発し、同時に日韓議定書によって朝鮮半島殖民地化を進め始めた時期である。
 当時の明治大学教員らの論説などを集めた雑誌が上記の『明治學報』である。『明治學報』の主な内容は、大学教育などについて述べた「会説」、教員の論文を集めた「論説」、法律上の特定の問題を論じた「質疑」、外国法や国内法を紹介・解説する「資料」、投稿論文と思われる「叢議」、様々な問題を論じた「雜爼」、時事問題を紹介した「時報」、大学の近況報告である「錄事」、そして「判例」などに章立てされている。『明治學報』の淵源は、1885年に創刊された『明法雜誌』にあり、その後『法政誌叢』と名を変え、休刊を経て『明治法學』が発刊され、明治大学の新体制発足に合わせて1904年9月に『明治學報』と改題された。その巻頭に掲げられた「明治法學の改題」では、この改題の経緯を説明し、大学の現況について「我明治大學は、本月よりして、法學部の外、新に政學部及ひ商學部を創設し、且經緯學堂を附設して、淸韓人士敎育の事に從ふに至れる」と述べられている(『明治學報』第76号、2頁)。続けて掲載された「淸國敎育界の過渡時代」と題する論説の内容は、大凡以下のようなものである。
 
 日本人は清韓を研究すべきであり、また清韓の人々を敎育しなければならない。なぜなら、日本人はかつて清韓両国から大いに教育を受けたのであるから、その恩返しをするのは当然だからである。清国の人々は近代文明の価値を認め、北京の朝廷は新しい学校設立を指示し、清国教育界は概ね各省に一つの大学堂と若干の高等学堂や師範学堂を設立しつつあり、小学校は無数にまた少なからぬ女学校も設立されている。その内実はまだ整っておらず、あたかも維新直後の日本と事情は同じである。ただ、清国では新しい学校教育とは相容れない科挙がなおも存続しており、科挙合格者を京師大学堂に入学させるようなことが行われている。
 学校設立という清国教育界の新たな潮流は喜ぶべきであるが、最大の困難は新旧両思想の衝突にある。特に、清国は留学生を官費で日本や欧米に派遣しているにもかかわらず、清国は留学からの帰朝者を官吏として信任せず、新式学校の教官かせいぜい通訳に登用するにとどまっている。例外はあれども大体の状況は、南方は新、北方は旧、漢人は新、満人は旧、在野の士は新、在朝の士は旧である。
 日本にいる清国留学生は概ね新思想を身につけているが、一方で比較的保守的な者もおり、一方で極端な急進主義に走る者もいる。ここに清国の人々を教育する難しさがある。旧思想から新思想へと導きつつも、急進主義を矯正し、清国固有の長所は伸ばしつつ短所をあらためさせることが必要であるが、これはまことに容易ではない。間もなく開学する経緯学堂では、この点において成竹胸中にあるものと信じる。(同、3-8頁)
 
中国、朝鮮から古来受けた学恩を返すために清韓両国の人々を教育しなければならないという、一種の使命感は読み取れる。清国教育界の現状については、新思潮と新式教育を受け入れつつも旧体制との相克が深刻であり、新式教育や留学生派遣と科挙制度との間の矛盾に懸念が表明されている。また新思想を受け入れた結果、急進主義に走ってしまう留学生がいたことも問題として認識されていた。
 かたや中国に対する新旧認識の矛盾は、明治大学側にもあっただろう。紀元前の漢籍を通じて学んだ中国ではなく、留学生を派遣してきたのは現実の隣国である。慶応義塾の福沢諭吉はすでに1885年に『脱亜論』を著していたが、現実の中国をどう認識するかは、なおも当時の明治大学の学者の課題であったに違いない。実際に、『明治學報』第76号には「時報」として「淸國商法要領」と「淸國商標条例未定」が、同第77号(1904年10月)には「雜爼」として「大淸會典と現行制度の關係」が、同78号(1904年11月)には「論説」として「淸國商法の行政法觀」が掲載されている。清国の現状に対して法学的観点から関心が持たれていたことがうかがえる。商学部創設者の一人である志田鉀太郎が、清国商法編纂のため清国政府から北京に招聘されるのは1908年である(本欄拙稿「中国語訳された志田鉀太郎の著作」2025.4参照)。
 科挙は経緯学堂開設の翌1905年には廃止され、経緯学堂は開設からわずか6年で閉鎖された。経緯学堂での留学生教育に乗り出そうとしていた明治大学教員の「成竹」とは、本来どのようなものであったのだろう。