Go Forward

2017年度 卒業式 学長告辞「多様性を生きよ」

2017年度 卒業式 学長告辞「多様性を生きよ」
卒業生の皆さん、卒業おめでとう。そして、卒業する学生たちを長年にわたり支えてこられたご家族の皆さん、本日は誠におめでとうございます。

今日は朝のテレビ放送でも東京の桜は満開の日であると言っておりました。皆さんも今日ここに来る途中、桜の花が満開になっていて君たちの卒業を祝っていることを知ったと思います。私は今日、この桜の花を見て皆さんに送りたい一つの詩を思い出しました。それは9世紀(800年代)の中国の詩人、白楽天の詩です。

白楽天はこのような詩を歌いました。「灯火を背けては 共に憐れむ 深夜の月 花を踏んでは 同じく惜しむ 少年の春」という詩です。この詩の中にある、「花を踏んでは 同じく惜しむ 少年の春」という言葉はまさしく、君たちが少年や少女として大学の4年間を過ごし、これから社会に出ていく時にふさわしい。まさにこの武道館の花を仰ぎ、散る花を踏んで皆さんは社会に出ていくことになります。そのことを思うとこの白楽天の詩こそ最も君たちにふさわしい詩であると思います。

この詩は今申し上げた通り、800年代、9世紀の前半に書かれた詩です。不思議なことにこの詩はほぼ同時期に日本にも留学僧が詩を写して伝えたので、日本の中でも誰もが歌う詩となりました。和漢朗詠集というものにも入っていて、この詩がどれだけ日本の文学に影響を与えたかを知ることができます。例えば「灯火を背けては 共に憐れむ 深夜の月」、灯を少し暗くして、みんなで深夜の月を見ようではないかというこの歌は、日本の古典芸能である能楽でたくさん引用され使われました。また、「花を踏んでは 同じく惜しむ 少年の春」落ちた花を踏んで過ごした少年の日々をその春を惜しもうというこの歌も、やはり能楽の「西行桜」という有名な曲の中の一番最後の場面に出てくるものだったので、多くの日本人がそれを口ずさむようになりました。

しかしこの詩を作った白楽天の想いは違いました。白楽天がこの詩を作ったのは実は中年になってからです。白楽天は有名な詩人でありましたが、当時不遇の身にあって、田舎に左遷されていて、都に帰ることができなかった。しかし、自分の友達はみんな都に帰ったので、何で自分だけ帰れないのかを歌ったのがこの詩であったのです。つまり、友達と共に夜の月を見て、また花を踏んで少年の日を過ごした私が、なぜ私だけが都に帰れないのかを歌った詩でした。日本では白楽天の想いとは違う所で日本人の心に訴えて、不遇を嘆く詩ではなく、むしろ少年の春を惜しむ詩として親しまれてきました。このようにして私たちは多くの中国の文化や異国の文化に囲まれているけれども、私たちが理解しているものと実際にそこにあるものとは違うものです。

もう一つ私が思い起こすのは、ポール・ヴァレリーという詩人です。彼は、20世紀のフランスの詩人ですが、そのポール・ヴァレリーはこう言いました。「言葉は理解されて死ぬのだ」と。つまり我々が言葉を理解した時には、その元々の言葉は実は死んでいる。今言ったように白楽天は当然中国語で書いているので、我々が理解している日本語の詩とは違う音(おん)を持ち、また意味を持っていました。しかし我々がそれを理解した時に、元々白楽天が考えていた詩は死んでいます。つまり我々の理解の外側に、白楽天の言葉はある。

これは、今でも同じです。人と話をする時、とりわけて海外の人と話をする時、彼らが使っている言葉を我々は理解していると思っているけれど、本当に理解した時にその言葉が持っている意味も、あるいは音(おん)も、実は死んでいる。その違いというものを、理解の外側にある言葉自身の存在というものを我々が知らなければ、本当の意味で理解することはできないでしょう。あるいは理解できないことを受け入れられないかもしれない。しかし理解とはそもそも、そうしたものです。あるところは理解できないものを含みながらお互いの関係を結んでいくのが、理解というものであると思います。その時もし完全な理解を、あるいは白楽天の詩を日本人の理解の中だけに閉じ込めるならば、それは、日本人の傲慢さというものを表します。

現代の中国との関係においても、我々には理解できないことがたくさんある。しかし、だからと言って、もし、その理解できないことを理由にして中国を否定するならば、それは日本人の傲慢さであるかもしれない。むしろ、相手を完全に理解できる、あるいは自分も完全に理解されると考えるとするならば、それは今言ったように傲慢というものです。理解する・理解される、ということは相互の関係がぴったりと一体となっているということを意味しています。そんなことは、ありえません。しかし、つい私たちはそれを期待してしまう。そこに、罠があります。

もう一人、私はウラジミール・ジャンケレヴィッチという、現代フランスの哲学者のことを、ここで紹介したいと思います。ジャンケレヴィッチは、愛についてのエッセーを書いています。私は、このエッセーをジャンケレヴィッチの本の中で発見した時に、とても感銘を受けて、影響されました。実はこの本を翻訳したのは、文学部長の合田正人教授です。そのジャンケレヴィッチは、愛についてのエッセーの中でこう言っていました。「人間の愛には二つのタイプがある」と。相手を所有したいという愛と、相手に所有されたいという愛の二つがある。前者の相手を所有したいという愛を「食人型」の愛であると言いました。また、後者の相手に所有されたいという愛を「陶酔型」、つまり自分を失ってしまう愛であると言いました。どちらも、相手と一体になろうとすることでは同じです。しかしジャンケレヴィッチはこの二つも、本当の愛ではないと言いました。本当の愛は、複数の環境の中で生まれるものです。相手を所有してしまうということは、この複数の関係を否定して一つになろうとすることに他ならない。そこにはもはや、本当の愛はなく、ただ所有欲とエゴイズムだけが残ると、ジャンケレヴィッチは言いたかったのでしょう。理解するということも同じです。自分と異なる相手を完全に理解できると考えてしまうことは、この複数の人間相互の違いから目を逸らすことを意味しています。愛の話と同じように、相手を所有できると考えることになります

傲慢は、古代ギリシャ以来「ヒュブリス」といって最高の罪悪でありました。とりわけて、政治上のリーダーの傲慢、ヒュブリスは許すことのできない罪悪でありました。この世界を自分が所有し、人々の一体となることを要求するからです。そこには、違いを認める思想がない。多様な価値観を許容する心がない。それに対して、君たちが卒業するこの明治大学は様々な国からやってきた人々の集合体でありました。多数の国から学生が学びに来て、ともに時間を共有するこの多様性こそが、明治大学が求めるものです。

愛も、理解も、そして社会も、そこには複数の中で、相互の違いを認める思想が必要です。君たちはこれから、社会へと羽ばたいていく。世界へと出ていき、様々な場所で働く機会もあるでしょう。その時必要なのは、世界は所有することはできない。ただ、複数の関係の中で分かち合う、シェアすることしかできないということを知ることです。「一」という数ではなく、複数こそ、私たちが愛すべき数字です。

人間や、国や、文化の違いを受け止め、この世界がもたらす圧倒的で豊穣な多様性を生きてください。全体のうちに、ぬくぬくと埋没することなく、自ら複数なるものとして、人と異なるものであることを恐れずに前へ進んでほしい。それが君たち卒業生への、はなむけの言葉です。

もう一度、白楽天の言葉を引用します。「灯火を背けては 共に憐れむ 深夜の月 花を踏んでは 同じく惜しむ 少年の春」。君たちは今や、この満開の桜の下で、その花びらを足で踏みながら、社会へと出ていく。少年の春に、少女の春に、全ての春に別離の言葉を投げかけながら大学を出ていく。きっと君たちの将来には、今この満開の桜にふさわしい華々しい豊かな世界が待っていることでしょう。その中で君たちは、明治大学の学生であったことを誇りとして、しっかりと生き抜いて欲しい。君たちの人生に幸あれ。グッドラック。その祈りを、私の告辞として君たちに贈る。


                                           明治大学長 土屋恵一郎