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論壇 「大学」の役割のこれからを考える リバティアカデミー長 大友 純

受講生へ修了証を授与する 大友リバティアカデミー長

大学の教員たちが提供する学問的専門知識の価値を積極的に消費したいという顧客市場が存在する。そこでは自らの知識経験や議論経験を増やすこと自体が生きがいであったり、そうした経験を自らのビジネス実践の中で応用したりといった目的から教室に集い、居眠りすることなく、私語に興じることなく、携帯電話に気を取られることなく、教師の一語一語を聞き逃すまいと必死にノートを取り、真摯に議論しあう姿が見られる。これが大学の授業空間における〝生涯教育〟の教室である。20歳前後の〝大学生〟たちへの対応とこうした教室に集う社会人である〝受講生〟たちへの対応と、どちらが大学としての本来の役割なのかと考えたとき、一瞬、とまどいすら感じてしまう。

社会的存在としての大学の役割とは何かと問われたとき、「試験に合格して所定の費用を支払った人々に専門知識を与えて思考し議論する場所と時間を提供すること、および新たな知識や理論を研究するための機関として機能すること」と答えるのが最も無難かもしれない。しかしよく考えてみると、肝心の学生たちからすれば、そうした機能の消費は〝おまけ的〟なもので、大学生という身分の真の購買目的は社会に出るまでの自由時間の消費にあり、スポーツやサークルやアルバイト等々の諸活動に打ち込むところにこそ、高額な授業料の支払価値を見出しているのかもしれない。そう考えれば、彼らが授業よりもそれらの活動を優先したところで何の不思議もない。まして真の入学目的が就職に有利となる自らの出自に対する〝ブランド化〟にあるとすれば、卒業証書がもらえる単位分の授業対応さえしておけばよいとする態度も不思議なことではない。これはこれで、授業料を支払う親御さんたちや毎年定期採用してくれる日本の企業社会そのものが、〝大学とはそうしたところだ〟と皆が了解しているのであれば、そう大きな問題ではないのかもしれない。もしそうした授業空間の中で専門知識を懸命に伝えようとしている教師の姿を一般の人たちが見れば、それは非常に滑稽なことかもしれない。もちろん中には勉学に励むまじめな学生もいるが、全体的に少数派のように見受けられるのは私だけだろうか。

しかしだからといって、将来の社会を担う今の若い人々に学問的教育を施すという大学本来の役割をないがしろにしてはならないであろう。そうした意味からすれば、逆に大学の教員を核にして大学生と生涯教育の受講生を繋ぐ仕組みを整え、学生の荒削りな思考と社会人の慎重な思考とのミキシングの場の提供こそが、これからの大学の一つの重要な役割になるのではないだろうか。すでに早稲田大学では〝全学の生涯学習機関化〟を社会に広く標榜※している。本学でもそうした対応を積極的に進めている学部もあるが、近未来の大学の真の姿はそこにこそあるのかもしれない。

※2011年5月28日付け朝日新聞「私立大学の原点—それは建学の精神にあります」に掲載。

(商学部教授)