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『私学の誕生—明治大学の三人の創立者—』刊行



明治大学を創立した若き3人の法律家を紹介する初めての公式本『私学の誕生—明治大学の三人の創立者—』(創英社/三省堂書店 定価1700円+税)が3月31日に刊行された。編集にあたった明治大学史資料センターの山泉進所長(法学部教授)に、本書の意義や内容について寄稿してもらった。

刊行に寄せて

岸本 辰雄 宮城 浩蔵 矢代 操

明治大学史資料センター所長(法学部教授) 山泉 進
書名だけをみると、ちょっと驚かれるかもしれない。『明治大学の誕生』とすれば、もっと収まりがいいし、何よりも「明治大学」は、「私学」という言葉よりもはるかにブランド度が高いはずであると。もちろん、出版社の意向があったことも事実であるが、明治大学をこれまでの「明治大学」という枠からはずしてみたいという思惑も私たちにはあった。

「私学」といっても、福沢諭吉、大隈重信、あるいは新島襄のような、ある種のカリスマが創立した大学と、明治大学の場合は異なっている。岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操という、近代日本史のなかでは、どちらかといえば無名に近い「地上の星」によって創立された大学である。もちろん、日本の四年制大学、約780校のなかでその78%は私立大学であり、その多くは、「教育の普及」にかけた数多くの「地上の星」たちによって創られてきた。その「私学」の誕生について明治大学を一例として知っていただきたいというのが私たちの意図であった。

本書は、三部からなり、第一部は3人の創立者たちの出身藩、岸本辰雄と鳥取藩、宮城浩蔵と天童藩、矢代操と鯖江藩の関係をテーマとしている。つまり、創立者たちはどのような教育環境のもとで成長し、藩を代表する「貢進生」、つまり明治政府のもとに近代国家を担う人材に選ばれたのかについて述べている。

第二部は「明治大学の誕生」と題し、「貢進生」として上京した3人が、司法省の明法寮、あるいは法学校において法律学を学ぶにいたった経緯、あるいはボワソナードたちから学んだフランス法の内容、さらには岸本と宮城のフランス留学、そして矢代を中心とする明治法律学校の創立、その後の駿河台移転、さらには法典論争などについて言及する。

第三部では、「創立者たちの遺したもの」と題して、明治法律学校の創立以後の3人の経歴と業績、さらには追悼文などを取り上げる。また、その後の出身地における3人の顕彰運動についても、それぞれの校友会支部の代表者に執筆していただいた。

明治大学の3人の創立者たちのレリーフは、創立130周年を記念して4つのキャンパスに置かれている。また、これまでも『明治大学百年史』をはじめとして、その経歴や著作については触れられてきている。それらについては巻末に「参考文献」として掲載している。しかし、その一人一人の経歴を明治大学の創立と関係づけてまとめた本は、これが初めての刊行となる。
「はしがき」にも書いたように、いま、日本の大学は転形期にある。転形期とは、文字通り、大学という存在の「かたち」が変わる時代、あるいは「かたち」を変える時代にあるという意味である。その大きな要因は、国際的にはグローバル化の波であり、国内的には少子化という波である。それは、大学における教育、研究、社会連携、組織運営のすべての分野を飲み込もうとしている。時々、G(グローバル)型大学やL(ローカル)型大学という言葉を耳にすることがあるが、この単純化に問題はあるとしても、社会現象としては、そのような状況のなかに大学は置かれている。現に明治大学は、文科省が進める「スーパーグローバル大学創成支援」校に選別されている。

大学の自主性からいえば、「個性」の主張ということになる。その「個性」の源泉を過去の「建学の理念」に求めるか、あるいは未来を指向して「創成すべき理念」に求めるかは、その大学が置かれている歴史的な、あるいは社会的な位置によっている。創立134年を迎えた明治大学は、もちろん、過去の伝統のなかに大学の「個性」を求めることができるし、「権利自由」「独立自治」の理念は、また未来へ繋ぐキイワードでもある。そのポジションは、私学誕生の歴史のなかで問い直されてこそ現代に活きるのである。