あのときたしかに、華僑華人たちは国境を越えた。しかし、越境した先の、その境界の内側にあっても、見えない境界が彼らの生活の前に立ちはだかる。
国民国家は福祉国家の容貌を持つ。しかし、その機制の客体となるのは、もっぱら国家が国民と認定したものに限られる。目に見えぬ国境が分かつばかりでない。国境の内側にある人々の間にも目に見えぬが確実な境界を画定する。
境界の外側に残して来た家族、境界の内側にとどまっていたならばという反実仮想、そして越境者としての自らの老いと終末。華僑華人たちは境界を巡る様々な生と死に想いを馳せる。
さらに華僑華人たちにとって境界とは外部によってもたらされるものばかりではない。彼ら自身の間にも世代と時代を超えて精神の境界が生じてゆく。日中の近代化格差のあった時代に越えた者と、その後に越えた者。そして、一世、二世、三世。
国民国家の時代における正史とは、国家が国民と認定したものの歴史である。しかし、私たちの現代は越境者とともにある。だから私たちは耳をそばだてて聞く必要があるのだ。声を。越境者たちの声を。
国民国家は福祉国家の容貌を持つ。しかし、その機制の客体となるのは、もっぱら国家が国民と認定したものに限られる。目に見えぬ国境が分かつばかりでない。国境の内側にある人々の間にも目に見えぬが確実な境界を画定する。
境界の外側に残して来た家族、境界の内側にとどまっていたならばという反実仮想、そして越境者としての自らの老いと終末。華僑華人たちは境界を巡る様々な生と死に想いを馳せる。
さらに華僑華人たちにとって境界とは外部によってもたらされるものばかりではない。彼ら自身の間にも世代と時代を超えて精神の境界が生じてゆく。日中の近代化格差のあった時代に越えた者と、その後に越えた者。そして、一世、二世、三世。
国民国家の時代における正史とは、国家が国民と認定したものの歴史である。しかし、私たちの現代は越境者とともにある。だから私たちは耳をそばだてて聞く必要があるのだ。声を。越境者たちの声を。
木寺 元・政治経済学部准教授
(著者は政治経済学部教授)
(著者は政治経済学部教授)