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論壇 惜別の辞—和泉第二校舎に捧げる 和泉委員会委員長 羽根 次郎

唐突だが、広報誌『明治』第83号は読み応えがあった。「堀口捨己と明治大学校舎」と銘打った特集にて、故堀口先生の残された個性豊かな校舎が次々と紹介されていたからだ。その中にもちろん、和泉第二校舎もあった。

私はこの第二校舎が大好きだ。いまだに建物全体の構造が分からないのに、目的の教室には、なぜかすぐにたどりつける。迷ったことがない。構造が分かっていないから、授業後に退場するドアもいつもランダムに選ぶ。今日はどこから退場しよう?にもかかわらず、たちまち外に出られるのだ。選ぶのは縁によるものでしかない。ただ、前へ進んでいけばいつか必ず目的を達せられること、にもかかわらず、全体がどうなっているのかの「種明かし」はなかなかしてくれないこと——なるほど、これはまるで人生ではなかろうか。

繰り返すが、第二校舎は面白い。分かりやすい外観の個性に魅かれて内部に入るや、途端に分からなくなるから、もっと奥に行きたくなる。つまり、奥ゆかしい。外観だけで分かった気になってはいけない。この校舎への理解は困難を極めるから、理解するには真剣でなければいけなくなる。そのためには、理解する意欲をまず持つことだ。

理解する意欲——近年の大学では、これが等閑視されて久しい。促さずともメモをとって授業を聞く学生はそう見かけなくなった。セールスマンに対する顧客の態度であれば、分かりにくい商品説明は捨て置いても良いだろう。だが、それを相互理解全般にまで敷衍してよいのだろうか。そして、教員と学生の関係は?

「説明責任」「見える化」の類を今や大学でもしばしば耳にする。とにかく分かりやすくないといけないらしい。饒舌な説明、ガラス張りの透明化を通じた「種明かし」に追われる。時間をかけて自分一人で謎を解く楽しみと苦しみは、スマートフォンでの検索に取って代わられた。

和泉第二校舎は、まもなくその役割を終えようとしている。だが、ここで終える「役割」とは何だろうか?文系理系に関係なく、対象を理解する上で最も基本的な態度とは、理解することへの真剣さと意欲である。さもなくば、相手をどう受け入れられよう。そのためにはまずペンを持ち、メモをとることだ。結局、第二校舎の「役割」が終わることはないのだ。

第二校舎の跡地には、関係各位のご尽力によって新教育棟が新たに建つ。第二校舎のシンボルとでもいうべき外壁を伝うスロープも再現される。新たな時代の新たな「役割」をこの新教育棟は担うことになるだろう。そしてそこに、終えようもない第二校舎の「役割」を、堀口先生のご遺志をどう新教育棟に継承させていくのか。ダルマに目を入れるのは私たち一人ひとりだ。(政治経済学部准教授)