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専任教職員35氏が退職

明治大学の教育や研究に長年尽力してきた専任教職員35氏が、3月31日で定年退職を迎える(定年退職30氏、選択定年制度による退職5氏)。退職予定者の氏名、学内の略歴などは次のとおり(敬称略・年齢は退職時)。

「さよなら、めいじろう」

農学部教授 針谷 敏夫

1990年4月に農学部に着任して以来32年が過ぎようとしています。振り返れば、着任早々、前任者の残した膨大な骨格標本の整理を依頼され、多くの学校関係者等に引き取ってもらいました。その標本中に、上野動物園で亡くなった象のインディラとキリンのタカオの骨があり、なんとか動物園に返せないかと考え、知人を介して受け入れてもらえることになりました。ところが返還前日に、ある理事の一声で、突然明治に残すことになったとのことで、差し止め命令が出て計画はご破産になりました。その年度末の入試で職員が関与した替え玉受験が発覚し、大騒ぎになり何かとんでもない大学に来てしまったなという思いでした。

その後学部では、センター入試の導入や生命科学科の新設に関わり、縁あって納谷学長のもとで大学運営にも携わり、新学部の開設、多くの規定の制定、3機構の設置等大学の改革に少しは寄与できたのではないかと思っています。多くの方々に感謝しつつ、最初の思いとは違う成長した明治大学が、さらに発展し続けることを願ってやみません。

「明治大学を去るにあたって思うこと」

専門職大学院法務研究科教授 髙倉 成男

子供のころからしゃべりが苦手で、高校生の時の進路適性検査では教員は不向きと診断された。大学は迷わず理系を選択し、就職は「書面相手の仕事」と聞いて特許庁を選んだ。その後平板な日々が続いていたが、2000年ごろから「知的財産の時代」と呼ばれるようになり、多くの大学で知的財産法の授業が行われるようになった。私も職務として大学の教壇に立つ機会が増えた。そのご縁で特許庁退職後の2009年に明治大学法科大学院(当時)に職を得た。初めは右往左往していたが、あるとき学生から「私は先生の授業を受けて知財専門の弁護士になろうと決めました」と言われてスイッチが入った。学生を育てることが楽しくなった。学生の反応と自分の努力の間に好循環が生まれ、教えることが上手になった。職業の適性とは事前にあるものではなく、その職業に就いた後に周囲との相互作用によって生じるものだと思う。ここまで書いてハッと気付いた。私が学生を育てたのではなく、学生が私を育ててくれたのだ。

「大和魂とは大きく和する心」

総務部生田キャンパス課 森下 剛

1994年1月、設備設計事務所と超純水製造プラント会社を経て、施設課にいなかった機械設備(空調・給排水)技術者として入職。職場は、少しかび臭い記念館南ウイングの2階。6号館文学部事務室は冬なのに冷房運転、真下が蒸気暖房ボイラー室。入職3カ月みぞれ雪、仕事が終わり部屋を出ると、バイオリンの大きな音に包まれた。廊下で交響楽団が練習中。明大に来て良かったと感じた瞬間。

2004年までの10年間、リバティタワーから理工学部A館までの新築工事、生田実験室冷房化、3地区教室冷房化、理工・農研究室実験室改修、他全地区の機械設備工事に携わる。

希望して文系職に異動。生田就職キャリア支援事務室の就職相談で感じたのは、明大生の素直さ、一人ひとりがかわいい。家庭で大切に育てられたことが分かる。

大和魂とは大きく和する心。和とは、周りの人とよく話し合い調和して物事を決めることと言われる。私たち教職員は、明大生のために何ができるのか、どう行動すれば良いのかを考え続けていきたい。