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告辞「多様性を生きよ」

学長 土屋 恵一郎

卒業生の皆さん、卒業おめでとう。そして、卒業する学生たちを長年にわたり支えてこられたご家族の皆さん、本日は誠におめでとうございます。

卒業生の君たちにとっては、これまで何度か経験した卒業もこれで最後になる。何を修め、そしてこれから何が始まるのか。新しい世界には期待がある一方で、不安もあることだろう。それは今までとは全く異なる人間関係の中に入って行くからだ。そこには、利害と妬みが存在する。この二つは社会の中での感情の基礎となる。利害と妬みをコントロールすることはなかなか出来ない。それは仕方がない。そこで君たちにとって必要なことは、自分や相手をいつでも理解出来るという安易な思いは捨てることだ。私たちが相互にあますところなく理解し合えると考えているとしたら、それは幻想である。友人であっても、どんなに親しい関係であっても、理解できないものは必ずある。理解できないものを認め合いながら、関係を構築するのが社会なのである。

人間の妬みを理解するのはとても難しい。どうして足をひっぱり後ろから石を投げたりするのかを理解出来ない時もあるだろう。その多くは利害の対立に起因する。しかし、理解されない、理解出来ないことを悩むことはない。むしろ、理解される、理解出来ると考えるとしたら、それは傲慢というものである。理解する、理解されるということは、相互の関係がぴったりと一体になっていることを意味している。そんなことはありえない。だがつい私たちは期待してしまう。そこに罠がある。

ウラジミール・ジャンケレヴィッチという現代フランスの哲学者がいる。私がこれまでの人生の中で最も強い影響を受けたエッセーを書いた哲学者である。ジャンケレヴィッチは、愛についてのエッセーの中でこう言った。「人間の愛には時として二つの姿がある。相手を所有したいという愛と相手に所有されたいという愛である」。前者を「食人型」と言い、後者を「陶酔型」の愛であると言った。どちらも自分という存在を失くし、相手と一体になろうとする。しかし、ジャンケレヴィッチはこの二つとも本当の愛ではないと言った。本当の愛は複数の関係の中で生まれるものである。相手を所有してしまうということは、この複数の関係を否定して、一つになろうとすることに他ならない。そこにはもはや本当の愛はなく、ただ所有欲だけが残るのである。それがジャンケレヴィッチの言葉であった。理解についても同じである。「人間的存在は社会的諸関係のアンサンブルである」。かつてカール・マルクスはそう言った。関係ということは、そこには複数の存在が必要となる。自分と異なる相手を理解できると考えてしまうことは、この複数の人間相互の違いから目をそらすことを意味する。愛の話と同じように、相手を所有できると考えることになる。

「傲慢」は、古代ギリシャ以来「ヒュブリス」といって、最高の罪悪である。とりわけて、政治上のリーダーにとって「傲慢」は許すことのできない罪悪と言える。この世界を自分が所有し、一体となることを要求するからだ。そこには、違いを認める思想がない。多様な価値観を許容する心がない。対して、大学は、様々な国からやってきた人々の集合体である。この明治大学にも多数の国から学生が学びにきて、共に時間を共有する。この多様性こそが明治大学が求めるものである。もしそれでも一体を求めるならば、それは強制である。この卒業式では校歌を歌うが、一体を求めてはいない。そして、この校歌は大学が主体的に作ったものではない。当時の学生たちの熱い思いと奔走によって生まれた。創立者の岸本が謳った学問の独立と自由を保ち、自治の精神を養うことを学生たちが自ら求めたのである。まさに創立以来の本学の理念が表れているものなのだ。強制によって支配された大学に自由はない。多様性もない。愛も理解も、そして校歌も、そこには相互の違いを認める思想が必要なのだ。

君たちは、これから社会へと羽ばたいて行く。世界へと出て行き、様々な場所で働く機会もあるだろう。その時必要なのは、世界を所有することはできない、ただ分かち合うことしかできないという思想である。人間や国や文化の違いを受けとめ、この世界がもたらす豊穣な多様性を生きよ。それが君たち卒業生へのはなむけの言葉だ。君たちの人生を明治大学は誇りとする。そして、これまで君たちを育て、君たちを見守ってきた人々の誇りとなるだろう。きっと良い未来が待っている。君たちの人生に幸あれ。その祈りを私の告辞として君たちに送る。
【卒業式次第より転載】