明治大学心理臨床センター
第4回 発達障害の考え方
前回は、発達障害のことを「知的能力やコミュニケーション能力がバランスよく育っていないために、社会がその年齢に期待することが上手にできない」と説明しました。そして、上手にできないかもしれないが、その人なりにできるようになる、みんながみんな上手にできなくてもいいとフォローしました。
自分で言っておきながらなんですが、じつは、私はこの言いまわしが気に入りません。できない側に立ってみれば、できるできないで選別されて「障害」と診断されるのも、できる人間から「上手にできなくてもいいんだよ」と言われるのも、面白くないだろうと思うからです。
発達障害を「非定型発達」とする言い方もありますが、これもどうかと思います。こんなふうに言われたら、「定型」の方がスタンダードなの? そっちがお手本? みたいに感じるんじゃないでしょうか。
精神科の病気を考えるとき、なにかの拍子に脳の働きがうまいこといかなくなり、「いつもと違う」状態になっているなら、これは病気として受け入れやすい。しかし、「上手にできない」から、「みんなと違う」からといって病気や障害にされたのでは、納得できないでしょう。その人にとってみれば、それが「いつもと同じ」状態なのですから。
しかし、精神科の領域では、このように「いつもと違う」状態だけでなく、「みんなと違う」人も「障害」のくくりに入れて考えます。発達障害やパーソナリティ障害が、それに該当します。その人たちは、もともとそういうふうに発達している人、そういう性格にできあがった人なのですが、平均集団から外れているとみなされるために、「障害」と判定されるのです。もちろん、それだけではなく、その特徴によって本人も周囲もたいへん困っているという条件がつきますけどね。
このような発達障害の考え方に、私は以前から違和感を覚えていたのですが、それがさらに強くなったのは、自閉症を持つ作家、東田直樹さんと知り合ってからです。東田さんとは、雑誌「ビッグイシュー」の誌上で2年半にわたり往復書簡を連載し、講演会も3度ばかり一緒にやりました。
その経験を通じて、私は自分の感じる「違和感」をなんとか解消したいと考えるようになりました。なぜなら、東田さんとのやりとりを通じて、当事者の抱く「できない」側や「違う」側に置かれることの悔しさ、無念さが、想像していた以上に大きなものだと気づいたからです。
そこで、思いついたのが「発達マイノリティ」という言葉です。いわゆる「発達障害」の人たちは、発達におけるマイノリティ(少数派)といえます。この「発達マイノリティ」は、発達の仕方に生物学的な特徴があります。だからこそマイノリティなのですが、私たちの生きる社会がマジョリティ仕様にできているために、不便をこうむるし不自由も感じることになります。
いっぽう、マイノリティの人たちは社会的に区別されるのを嫌います。これは誰にでも容易に想像できますね。一方的に「区別」されて気持ちのいい人はいませんから。だとすれば、人道的に考えて、マジョリティはマイノリティに対して親切であるべきです。すなわち、マイノリティの人たちには配慮(思いやりや社会的サービス)が必要になります。
と、このように考えると、胸のつかえがいくぶん下りる気がします。もちろん、これは医学的概念ではありません。けれども、それとも矛盾しないことは、上に述べた理屈でわかっていただけるでしょう。
ちなみに、「マイノリティ」とカタカナにしたのは、「セクシャル・マイノリティ」からの連想で思いついた言葉だからですが、もうひとつ理由があります。少数であるがゆえに社会的差別を受けている人たちとの連帯を意識してのことです。
とくに、セクシャル・マイノリティ、LGBTの人たちの運動は参考になるところです。かれらは、かつて精神科の病気としてあつかわれていた同性愛や性同一性障害を、その枠から外すことに成功しました。医療のサポートは必要だが、診断(医学的ラベル)は必要ないと主張したのです。現在では、その考え方に沿って支援が進められています。もちろん、社会的サービスはまだまだ不十分ですが、精神科の診断マニュアルから病名が消えたのは画期的なことです。
発達障害の考え方は、はたしてここまで変わるでしょうか。私は変わってほしいと願っていますが、ここまで制度がガッチリできていると難しいかもしれませんね。でも、現在の発達障害の「流行」は異常ですし、この問題について医療が特権を握っているような風潮は好ましくありません。とくに子どもの発達障害においては、本来、保育や教育、福祉に力点が置かれるべきであり、医療はそのお手伝いをする黒子の立場にいたほうがいいと思います。