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高倉健のダンディズム—母の言葉と「戦後の精神」— (文化人編)

 2024.11
高倉健のダンディズム—母の言葉と「戦後の精神」—
 
明治大学史資料センター運営委員 
松下浩幸(農学部教授)
 
 福岡県中間市の小松山正覚寺にある高倉健(商学部卒)の記念碑には、生前、高倉が好んだ「寒青」という文字が刻まれている。王陽明の詩句から取られたというこの言葉は、冬の厳しい風雪の中で凛として立ち尽くす松の姿をイメージさせる。高倉健はそれを自身のあるべき姿として常に思い描いていたという。そのような高倉健が出演した数多くの映画の履歴を見てみると、昭和の大きな事件や出来事に関わる題材を扱った作品が目につく。
 戦後の日本の発展の象徴である新幹線と高度経済成長の矛盾を描いた『新幹線大爆破』(1975年)、二・二六事件を背景に吉永小百合との初共演が話題となった『動乱』(1980年)、東京オリンピックに出場した射撃の名手である警察官を演じた『駅STATION』(1981年)、戦後間もない時期に起こった青函連絡船・洞爺丸の事故を伏線にした『飢餓海峡』(1965年)と、その事故の影響によって計画が本格的に動き出した青函トンネル建設を扱った『海峡』(1982年)、昭和30年代前半の南極・昭和基地での越冬隊の生活とそり犬たちとの交流を描いた『南極物語』(1983年)、そして、高倉健自らが企画を提案したといわれる特攻隊の生き残りと韓国人の亡き戦友との絆を描いた『ホタル』(2001年)など、高倉健は名実ともに昭和という時代を象徴する俳優であった。それは単に彼が生きた時代のほとんどが戦後の昭和であったというだけではなく、おそらくその時代を生きた人たちに共鳴する何かが、高倉健という俳優にはあったからだと言える。それはいわば昭和の日本における「戦後の精神」とも呼べるものである。
 日本の昭和期における「戦後の精神」とは何であろうか。そのことを考えると、高倉健が生前愛した母の言葉が想起される。生きるために仕方なく俳優という仕事に就いたと言う高倉は、自らが役者として正式な訓練を受けていないことにコンプレックスを抱いていた。そんな高倉健は周りとの期待とは裏腹に、なかなか芽のでない役者であった。若き日の高倉は役者として悩むことの多い人生だったが、そのような高倉を支えたのが、「辛抱ばい」という母の言葉だった。幼い頃、秋祭りの相撲大会で負けて膝を擦りむいて家に帰った時など、母はよく高倉に「辛抱せんといかんよ」と言ったという。この幼い高倉の心に刻まれた母の言葉は、高倉の俳優人生を支える座右の銘ともなった。そして、この言葉に象徴される「耐える心」は、敗戦後の日本の復興のために自らを犠牲にしながらも黙々と働いた、まだ決して豊かではなかった庶民の姿や、あるいは戦争や時代に翻弄された自らの運命と静かに戦う、多くの日本人の姿と共鳴するものであったように思う。高倉健が腕時計の裏蓋(うらぶた)に彫っていたという「冬の松」を意味する「寒青」という言葉にも、その母の言葉が息づいている。
 高倉健の名が知れ渡ることになった数々の任侠映画も、思えば「耐える精神」の物語であった。戦後の昭和とはどのような時代であったのか。そして、その時の日本人を支えた精神性とはどのようなものであったのか。それは高倉健の寡黙な演技やその姿が、凍てつく風雪の中でじっと耐える松の木を表わす「寒青」という言葉に象徴されることと、どこか相通じるものがあるように思う。高倉健のダンディズム。それは自らの人生と戦った、戦後日本の多くの庶民の姿と重なるものだったと言えるだろう。