お茶の水橋から聖橋を臨む(2025年9月12日に筆者が撮影)
阿久悠『銀幕座 二階最前列』(講談社)表紙
2025.9
阿久悠と聖橋の風景
明治大学史資料センター運営委員・阿久悠記念館運営責任者
冨澤 成實(政治経済学部教授)
新しい聖橋口駅舎と改札口は2023(平成5)年12月3日から使用が始まり、続いて聖橋口駅前広場も2025(平成7)年3月31日に全面使用が開始し、さらにいわゆるエキナカ商業施設「エキュートエディション御茶ノ水」も同年5月14日に全面的に開業した。こうして2013(平成25)年度から始まった御茶ノ水駅のバリアフリー整備と駅施設の改良工事は、10年以上の歳月を経て、ようやく完了に向かいつつあるようだ。
だが、いまなお神田川の上に設けられた仮設桟橋は撤去されていないため、聖橋とお茶の水橋の間の川面のほとんどは覆われたままの状態である。そのために川と線路を跨いて立つ、かつての聖橋の風景もまだ戻ってはいない。
昭和歌謡を代表する作詞家の阿久悠(1937~2007)は、いまのJR中央線・総武線の線路と御茶ノ水駅のホーム、さらに神田川に架かった聖橋の風景を、深く愛していた。個人史を交えながら著した音楽評論『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』(岩波新書、1999・7)のなかで、つぎのように語っている。
ぼくが通っていた大学は神田駿河台にあって、御茶ノ水駅で乗降していたのだが、その線路に沿うように流れているのが神田川であった。線路と神田川を同時に跨(また)いでいるのが聖(ひじり)橋(ばし)で、ぼくはこの風景が好きで、何も知らない学生時代には、パリのようなとも思っていたものである。(「Ⅳ 競いあうソングたち(1971~1975)」「神田川」)
阿久悠が明治大学に通ったのは1955(昭和30)年4月から1959(昭和34)年3月までの4年間だが、通学時に折々眺めた「パリのような」聖橋の半ば心的な風景は、彼が書いた小説のなかで結晶化されている。たとえば、長編小説『銀幕座 二階最前列』(講談社、1996・7)には、つぎのような場面がある。
電車がお茶の水駅に着き、押し出されるようにプラットフォームに降りると、ぼくは、三年間習慣になっているように、聖(ひじり)橋(ばし)をふり仰いだ。聖橋はアーチ型で、電車の線路と、並行して流れる神田川を跨(また)いでいる。
ふり仰ぐことに、特別の理由はなかった。ただの癖のようなもので、そこだけ切り取るとヨーロッパと思えるような風景が好き、それはあたかも映画の一場面のようで、時として、青春やら人生を思わせる人影が見えることもあった。(「お茶の水ノンポリ連」)
物語の舞台は昭和30年代前半の東京で、主人公は、「お茶の水駅から駿河台下に下る坂の途中にあ」る「М大」に在籍する大学生である。シナリオライターを志望する彼は映画に強い関心があり、「その坂を下りきって書店がずらりと並ぶ、如何にも学生街らしい一画」にある映画館「銀幕座」に、「大学へ通った日数とどちらが多いかわからない」(「老人とジゴロ」)ほど熱心に通い詰めていた。
実際、聖橋の上で主人公自身のうえに生じた出来事として、一瞬間ではあるが、まるで「フランス映画のようであった」と思うような甘美な経験をしている。もともと「O女子大」の羽鳥由紀に対しては、映画『悲しみよこんにちは』(オットー・プレミンガー監督、1958年4月日本公開、おもな舞台は南フランスやパリ)のセシールを演じたアメリカの女性俳優ジーン・セバーグに似た美しい女性だと密かに好意を抱いていたのだが、聖橋の欄干に「凭(もた)れ掛かるようにして、(中略)煙草を喫(す)」う姿を実際に眼にしたとき、フランスの作曲家ジョルジュ・オーリックによるテーマ音楽をも想起しながら彼女をセシールと重ね合わせ、再会に「幸運を感じ」(「お茶の水ノンポリ連」)て胸を膨らませたのだった。
だが、彼女にしてみれば、主人公は、彼女自身の恋人・木塚平太との関係解消のための「立会人」に過ぎなかった。それゆえそこに「青春」も「人生」も発生する余地はなく、ドラマチックな展開など期待のしようもなかったのである。そして主人公自身もまた、聖橋の上で時に目撃する「青春やら人生を思わせる人影」も、実際には「おおむねが、ぼくの妄想のせいである筈であった」と自覚していることを裏付けるように、事実、「今日は、聖橋に人影はなかった」(同前)のだった。
しかし、それでもなお、主人公にとって聖橋は、映画の1コマのように詩情豊かな場であったにちがいない。「その代わり、仰観のアングルの彼方には、白いパステルがかった春の空があった」(同前)と続くように、人影の代りに彼の眼に映ったのは、聖橋の背後に広がるこのような空だったからである。柔らかく温かなパステルで彩られた絵画のように、聖橋はなお、詩趣に富んだ風景としてあったのである。
【付記】 本稿は科学研究費補助金(令和4(2022)年度 基盤研究(C)課題番号 22K00496)による研究成果の一部である。