杉浦鋼太郎(1859-1942 長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』より)
東京交通社編『大日本職業別明細図』東京交通社、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8311839 (参照:2025-10-21) 1930年代後半の神田区三崎町(現・千代田区神田三崎町)杉浦が創立した東洋商業学校(現・東洋高等学校)、大成中学校(現・大成高等学校)が見える。大成中学校があった土地には現在、日本大学経済学部本館が建っている。青線部分は次の写真。
昭和20年代の日本大学経済学部。左側の建物が旧・大成中学校校舎(写真:日本大学広報部広報課蔵)
2025.11
杉浦鋼太郎 私学の発展に尽力した教育者・教育事業家
学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
古俣達郎
中央・総武線でJR水道橋駅を通りすぎると、東口方面に東洋高等学校の校舎が見える。同校は1904(明治37)年創立の東洋商業専門学校を前身とし、創立から120年以上の歴史を持つ学校である。
実は、同校の創立者である杉浦鋼太郎(1859-1942)は、明治法律学校(明治大学の前身)で学んだ人物である。杉浦はほかにも、大成高等学校(東京都)、芝国際中学校・高等学校の前身校の創立に携わり、中等教育、受験教育、国語教育、女子教育、商業教育などで私学の先駆けとなる事業を手掛けた教育者・教育事業家であった。本コラムでは杉浦の主な経歴と彼が手掛けた教育事業を紹介したい。
杉浦は1859年1月(安政5年12月)、尾張藩士の長男として名古屋で生まれた。1875(明治8)年に上京し、英学や漢文を学んだ。西南戦争に従軍した後、警察官を務めていたが、病を得たため帰郷し、名古屋で民権運動に従事した。
再び上京し、明治法律学校に入学したのは、1884(明治17)年のことである。在学中、学資が尽きたため、新聞の探訪員(外回り記者)をしながら勉学を続けたという。また、明治法律学校時代には教育事業に携わるきっかけとなる出来事があった。杉浦が発案した学校の振興策が功を奏し、学校の経営状況が改善したのである(『東京名古屋現代人物誌』)。
1888(明治21)年、大成高等学校の前身、大成学館を麴町区飯田町に創立した(「大成学館 私立学校設置願」)。同校の創立は、杉浦が神田の下宿ではじめた夏期講習会の盛況を受けたものであった。この講習会は官立学校の受験準備を施すもので、いわば、予備校のプロトタイプである。杉浦は同館から『受験必携日本歴史』など受験の参考書も発行した。創立の翌年に国語伝習所を併設した後、神田区中猿楽町、続いて三崎町に移転、1897(明治30)年に大成学館尋常中学校を開校し、中等教育にも携わるようになる。1899(明治32)年、同校は私立大成中学校に改称、1946(昭和21)年に現在の三鷹市に移転した。
1903(明治36)年、芝国際中学校・高等学校の前身である私立東京高等女学校(所在地:芝区三田四国町[現:港区芝の一部])の創立に参加した。この学校は東京で最初の私立高等女学校であり、初代校長の棚橋絢子は杉浦の郷里名古屋で高等女学校の校長を務めた教育者であった。杉浦は女子教育にも熱心に取り組み、晩年には理事長を務めた。1948(昭和23)年に東京女子高等学校・東京女子中学校、1991(平成3)年に女子学園中学校・東京女子学園高等学校に改称、2023(令和5)年に共学化し、芝国際中学校・高等学校に名称を改めた。
1904(明治37)年、冒頭の東洋商業専門学校を創立した。同校は専門学校令の認可を受け、日本で初めて「私立高商(私立高等商業学校)」を名乗った。しかし、生徒集めがうまくいかず、1906(明治39)年、東洋商業学校へと改称し、中等レベルの商業教育を施す甲種商業学校に改組した。1971(昭和46)年に普通科を設置し、翌年に東洋高等学校と改称、現在に至る。
ちなみに、同校の沿革史『東洋商業六十年史』には、次の杉浦の回想が紹介されている。
併し私の東洋商業専門学校は、時機が少し早過ぎた為めか、私の微力では単独経営が困難となつて、遂に明治大学に併合するの止むなきに至りました。(中略)
この回想を裏付ける資料は見つかっておらず、ここで述べられている「併合」「合併」の実態を明らかにするのは今後の課題と言えよう。ただし、杉浦は明治大学校友実業会の主要メンバーであり、会合などで明治大学校長の岸本と接触する機会が多かったことは確かである。
1942(昭和17)年、自宅にて死去。亡くなる二年前の1940(昭和15)年には長年にわたる教育事業への顕著な功績が認められ、東京府より表彰を受けた。
【参考文献】
東京女子学園編『創立五十年史』東京女子学園、1952年
東京女子学園編『創立五十年史』東京女子学園、1952年
東京女子学園九十年史編集委員会編『東京女子学園九十年史』東京女子学園、1993年
東京都立教育研究所編『東京教育史資料大系』第7巻、東京都立教育研究所、1972年
同『東京都教育史 通史編』第1巻、東京都立教育研究所、1994年
東洋商業六十年史編集委員会編『東洋商業六十年史』東洋商業専門学校、1965年
長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』柳城書院、1916年
波多野節子「洪命嘉が東京で通った2つの学校一東洋商業学校と大成中学校」科研費報告書『朝鮮近代文学者と日本』2002年
藤原喜代蔵『明治大正昭和 教育思想人物学説人物史』第1巻、湖南堂書店、1980年
古林亀治郎編『現代人名辞典』中央通信社、1912年
明治大学百年史編纂委員会編『明治大学百年史』第3巻 (通史編Ⅰ)、明治大学、1992年
『明治法学』第19~64号(1901年4月~1903年12月)
【付記】
*本稿は、JSPS科研費「明治大正期神田学生街の形成と近隣法律学校生の諸活動の相互影響に関する実証的研究」(22K02240)による研究成果の一部である。

