明治大学史資料センター スタッフのページ
阿部裕樹(あべゆうき)
阿部裕樹(あべゆうき)
永見和十郎と河田左久馬 (2007年11月)
泉龍寺(鳥取県日野郡日野町,2008年6月)
河田左久馬墓(東京・多磨霊園)
ここでは,河田左久馬を中心に紹介します。
河田家は,代々伏見留守居を務める家柄で,河田も文政11(1828)年に伏見藩邸で生まれました。嘉永4(1851)年に家督をとります。
幕末期鳥取藩における尊王攘夷運動の中心人物に成長した河田ら22名の藩士は,文久3(1863)年8月,京都本圀寺にあった側用人ら4名を襲撃,暗殺します。この事件は,本圀寺事件と呼ばれています。
なお,22名の中には,岸本辰雄先生の義兄である永見和十郎が含まれています。河田と永見は年齢も近く,事実,戊辰戦争では一時行動を共にしていますので,親しい関係にあったことが想像されます。
いずれにせよ,事件により河田や永見らは日野郡黒坂村(現,日野郡日野町)の泉龍寺や鳥取で幽閉されることとなりました。しかし,彼らは慶応2(1866)年7月に長州藩へ脱走し,討幕運動に関係してゆきます。
慶応4(1868)年1月の戊辰戦争の開戦とともに,河田らは順次鳥取藩へ帰参します。河田は鳥取藩兵などを率いて戊辰戦争を戦い続け,閏4月には新政府軍の下参謀に任じられるなど,その活躍の場は藩を越えることとなりました。維新後は,鳥取県権令(明治4年11月~5年7月)や元老院議官などの政府の要職を歴任し,子爵を授けられました。
一方,永見ら多くの本圀寺事件関係者は,慶応4年の帰参後に鳥取に帰ります。永見は帰国してまもなく戊辰戦争に従軍しますが,残りの関係者は鳥取藩内で新国隊という軍隊を任されます。彼らによって洋式の装備・調練を施された新国隊は,藩の軍事力の一翼を担いました。学問に秀でた秀才が多かったため,洋式軍隊の司令官として期待されていたのです。
岸本辰雄先生は,慶応4年10月に京都警衛から帰藩すると,翌年8月までの間に新国隊に参加しました。義兄である永見和十郎の存在が大きく影響していると考えられます。岸本先生は,鳥取藩における尊皇攘夷運動→討幕運動の第一線で活躍した河田や永見の系譜に位置づけられるのです。
河田家は,代々伏見留守居を務める家柄で,河田も文政11(1828)年に伏見藩邸で生まれました。嘉永4(1851)年に家督をとります。
幕末期鳥取藩における尊王攘夷運動の中心人物に成長した河田ら22名の藩士は,文久3(1863)年8月,京都本圀寺にあった側用人ら4名を襲撃,暗殺します。この事件は,本圀寺事件と呼ばれています。
なお,22名の中には,岸本辰雄先生の義兄である永見和十郎が含まれています。河田と永見は年齢も近く,事実,戊辰戦争では一時行動を共にしていますので,親しい関係にあったことが想像されます。
いずれにせよ,事件により河田や永見らは日野郡黒坂村(現,日野郡日野町)の泉龍寺や鳥取で幽閉されることとなりました。しかし,彼らは慶応2(1866)年7月に長州藩へ脱走し,討幕運動に関係してゆきます。
慶応4(1868)年1月の戊辰戦争の開戦とともに,河田らは順次鳥取藩へ帰参します。河田は鳥取藩兵などを率いて戊辰戦争を戦い続け,閏4月には新政府軍の下参謀に任じられるなど,その活躍の場は藩を越えることとなりました。維新後は,鳥取県権令(明治4年11月~5年7月)や元老院議官などの政府の要職を歴任し,子爵を授けられました。
一方,永見ら多くの本圀寺事件関係者は,慶応4年の帰参後に鳥取に帰ります。永見は帰国してまもなく戊辰戦争に従軍しますが,残りの関係者は鳥取藩内で新国隊という軍隊を任されます。彼らによって洋式の装備・調練を施された新国隊は,藩の軍事力の一翼を担いました。学問に秀でた秀才が多かったため,洋式軍隊の司令官として期待されていたのです。
岸本辰雄先生は,慶応4年10月に京都警衛から帰藩すると,翌年8月までの間に新国隊に参加しました。義兄である永見和十郎の存在が大きく影響していると考えられます。岸本先生は,鳥取藩における尊皇攘夷運動→討幕運動の第一線で活躍した河田や永見の系譜に位置づけられるのです。
参考文献(詳細はこちらを参照ください)
渡辺隆喜「幕末期鳥取藩の政治情勢と尊攘過激派」(『明治大学史紀要』11,1994年)
『鳥取藩史』第1巻(鳥取県編集,1969年)
阿部裕樹「新国隊の動向と岸本辰雄」(『明治大学史資料センターグループ報告』28,2008年)。