2020.10
尾佐竹 猛—二刀流(歴史家と裁判官)の逸材—
明治大学史資料センター所長 村上 一博(法学部長)
尾佐竹猛(おさたけ・たけき)は、明治13年1月20日、尾佐竹保の長男(第三子)として、石川県羽咋郡に生れた(~昭和21年10月1日死去)。父親は、旧加賀藩の下級武士であり、維新後は、小学校の教員や地方行政職などを務めている。猛は、羽咋郡高浜町の大念寺小学校(後の大浜小学校)の尋常科から高等科に進み、明治27年3月に卒業、2年後の29年5月2日、明治法律学校に入学した。当時、同校の入学資格は、①年齢17歳以上の男子で、②国語・漢文・数学の入学試験に合格した者、あるいは③尋常中学校や尋常師範学校などを卒業した者とされていたから、猛は、入学年齢に達するまで、小学校卒業後の2年間で、中学校卒業程度の学力を蓄えたのであろう。尾佐竹家は当時困窮していたことから推測するに、比較的安い学費で、しかも短期間で資格がとれ、将来に展望(立身出世)のある法律学校を選んだところ、そこが、たまたま明治法律学校だったというところであろう。
明治法律学校における尾佐竹の成績(三年間)が残っている。第1学年は、民総96・刑法65・刑訴75・法人80・経済80:合計396点で、学年第六位、第2学年は、憲法94・物権80・債権75・商法95・民訴65・刑各73・行政100:合計582点で、学年第二位、第3学年は、商法84.4・債権85・民訴80・相続100・私法95・公報100・財政80・擬律70・口述82:合計786.9(計算が合わないが)で、学年第一位であった。こうして、彼は、明治32年7月10日、明治法律学校を首席で卒業し、一年後、33年11月の判事検事登用試験に及第した。この年の及第者総数は77名、そのうち、明治法律学校の在学および卒業生数は30名(約40%)を占めていた。判事に任官した尾佐竹は、福井地裁から、東京区裁(新島区裁)・地裁、名古屋・東京控訴院を経て、大正13年、若干44歳にして、大審院(現在の最高裁)判事となった。横田秀雄大審院長による異例ともいえる抜擢人事であった(在職期間は、昭和17年まで19年間)。
任官から控訴院時代までが、尾佐竹の学問形成期であり、ちょうど民本主義の主唱者として知られる吉野作造が明治大学に出講していた時期にあたる。尾佐竹もまた、大正デモクラシーの影響のもとで学問的基礎を形成したのである。彼の歴史研究は、憲政史→文化史→維新史へと次第に深化・拡大していくことになる。未完の海南法史三部作・『柳河春三』を執筆した後、大正14年10月、賭博と掏摸の事例を全国的に収集したユニークな著作『賭博と掏摸の研究』を刊行した。同年12月の『維新前後に於ける立憲思想』が、研究者としての本格的な著作と言えよう。吉野作造の世話で法学博士の学位論文として纏められたこの書は、明治大学の雑誌『法律及政治』に2年間にわたって連載された論文が基礎となっており、我が国への憲法思想の導入、憲法制定過程、議会の開設を論じたものである。翌大正15年7月の『明治文化史としての日本陪審史』は、陪審制に関する考えが日本に伝えられた嘉永7年以来の沿革と、岩倉使節団の海外視察から日本的試みを明らかにし、最後に陪審法成立過程を考察している。大正12年に成立した陪審法は、司法への民衆参加を目的とし、立法への民衆参加を目的とした普通選挙制度と対をなすものであることが強調されている。こうした著作を手始めに、尾佐竹は、裁判官として業務をこなす傍らで、歴史研究者として、明治憲政史・法制史・文化史などの分野で数多くの著作を残した。さらに、明治大学法学部や東京帝国大学の教壇に立ち、明治大学文学部の前身である専門部文科の設立にも尽力した。まさにエリート裁判官、卓越した歴史研究者という二足の草鞋を履いた、他に類を見ない逸材であった。
【参考文献】
明治大学史資料センター監修『尾佐竹猛著作集』(全24巻)ゆまに書房、2005~2006年
同編『尾佐竹猛研究』日本経済評論社、2007年