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明治大学体育会空手部(スポーツ編)

海外にて武道の指導にあたる岩井達(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載) 海外にて武道の指導にあたる岩井達(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載) 旭日雙光章を授与される岩井達(2007年)(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載) 旭日雙光章を授与される岩井達(2007年)(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載) 旭日雙光章を授与される岩井達(2007年)(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載) 国王に謁見する岩井達(体育会空手部の機関紙『駿空』より転載)

 

空手部の歴史と岩井達
 
体育会空手部
 
 空手部は1935(昭和10)年創部で初代主将の田中徳彌が明治大学予科入学後「明大予科唐手研究会」として発足させ産声をあげたのが源流である。全国の大学の中での創部は、大正期に始まる「慶應義塾唐手研究会」の創部から数えても10指に入り初代師範、屋比久孟伝から和道流の大塚博紀へと引き継がれ今日に至っている。今日に至るまで数々の名選手と優秀な社会人を世に送り出している大学空手界の名門であり、古い伝統と歴史を持ち合わせいる。
 1957(昭和32)年第1回全日本大学空手道選手権大会組手団体優勝。1963(昭和38)年第7回全日本学生空手道選手権大会個人戦で斉藤肇一が優勝。2年後の1965(昭和40)年第9回全日本学生大学空手道選手権大会団体優勝。近年では2004(平成16)年と2005(平成17)年全日本学生空手道選手権大会女子個人形において大澤美論季が優勝し連覇。さらに翌年(2006年)同じく大澤は第4回世界学生空手道選手権大会女子個人形においても優勝という偉業を成し遂げている。空手部はその他数々の大会で数えきれない程の入賞を果たしている。
 そんな空手部の中で燦然と光り耀いているのが岩井達(いわいすすむ)である。1955(昭和30)年前後、学生空手から空手界全体においても、その名を轟かせた岩井達。その強さは故人となっている山口剛玄や大山倍達など当時の空手家からも嘱望され一目置かれていたと言われている。もちろん当時の学生NO.1と言われた人物でその強さはズバ抜けていたとされる。
 空手が「東京2020」で開催されるオリンピックから正式種目に採用されたのは衆知の通りである(2021年に延期開催予定)。しかし、一昔前の大学の交換稽古は単なる殴り合いの場であり、空手が喧嘩の道具として使われていたことも事実のようである。そんな中、寸止めを採用しスポーツとしての空手競技のルール化を確立させて、最初に開催されたのが前述の1958(昭和33)年の第1回全日本学生空手道選手権大会でありオリンピックに繋がっていく。その優勝チームである明治大学空手部の柱であり主将が岩井達であった。「彼、無くして優勝は無かった」と言う人は多い。
 大学卒業後、さらに彼は耀いていく。丸善石油株式会社(当時)入社。その後ジャパン石油開発株式会社に出向。1976(昭和51)年 アラブ首長国連邦(UAE)からの要請を受け、首都アブダビで2年半、軍の空手教官を務める。1981(昭和56)年中近東スポーツ交流特別促進委員会事務局長として、空手、柔道、剣道、合気道、など日本の伝統スポーツの使節団をはじめ、フットボール日本ナショナルチームを引率し、アラブ諸国とのスポーツ交流を図る。1984(昭和59)年と1993(平成5)年外務大臣賞受賞。1999(平成11)年ジャパン石油株式会社副社長就任。
 2007(平成19)年アラブ中東諸国とのスポーツ交流功績により、天皇陛下より旭日雙光賞を授与される。当時アポイント無しでいつでもUAEのロイヤルファミリーと会える唯一の日本人と言われていた。
 明治大学空手部が輩出した不世出の空手選手、岩井達。東京オリンピックを待たず2017(平成29)年11月他界。翌2018(平成30)年7月、岩井達を「偲ぶ会」が明治大学紫紺館にて盛大に行われ多くの人達が彼の死を惜しんだ。