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「ワイン町長」丸谷金保─アイデアと行動のひと─(政治家編)

丸谷金保(『乾杯!ワイン町長—地方自治の「原点」に立つ町づくりの記録 』(日本の自治を考える会、1976年より) 『乾杯!ワイン町長』表紙

2020.11 
「ワイン町長」丸谷金保─アイデアと行動のひと─


 明治大学史資料センター運営委員 小西 德應(政治経済学部長)
 

25年ほど前、在外研究に出かける私の壮行会が、出身ゼミのOB会長で、TBSアナウンサーであった多田護先輩の声がけで開かれた。会場は東京駅近くの「レストラン十勝」。帯広出身の多田さんが、故郷の丘から見える「ワイン城」の壮麗さを熱く語っておられた姿を鮮明に覚えている。
 このレストラン十勝も、ワイン城(正式には「池田町ブドウ・ブドウ酒研究所」)も北海道池田町の町長であった丸谷金保さんが生みだしたものだ。専門部法科に籍をおき哲学研究部などの活動でで多くの人々とかかわりをもち、1942(昭和17)年に卒業したあと池田町に戻った。復員後に十勝日日新聞編集長(哲学研究部の仲間で、後に総理大臣となる村山富市氏が取材応援に出かけている)や士幌農民同盟事務局長などを経て、若者たちの呼びかけに応じて、1957(昭和32)年に慢性的財政赤字を抱える池田町長となった。以来、1976(昭和51)年まで520年間にわたって町長を務め、多くの業績を挙げた。とりわけ1960(昭和35)年からの新農村建設計画の一環として、翌年に町内の青年たちとブドウづくりをはじめたことが注目される。国内外から多種多数の苗を取り寄せたが寒冷地のためにうまくいかず、ついに、町内に自生する山ブドウの栽培に成功し、その山ブドウを使ったワイン製造もはじめた。程なくそのワインが国際コンクールで受賞するまでになり、新品種も生みだした。またブドウが不作の時はブランデーに適していることから製造を始めるなど、多様な体験や人脈を最大限に生かした。さらにワインに合う料理指導を町民に行い、町内の牧畜業者も巻き込んで、レストラン事業、さらには観光とセットになる事業として、研究と製造を行う「ワイン城」を開設するなどした。こうしたことから「ワイン町長」の異名をとるようになったが、興味深いことに、さまざまな町民と協同しただけでなく、町役場の職員を国内外に派遣し、技術の取得だけでなく、町に適しているやり方をその職員に「発見」させた。このように、自治体主導のもと、多様な力を結集させてこれらの事業をやった(自分たちの手に余るようになれば民間に移管するなどしても「質」の保持につとめた)。さらには町内でしか提供されない「町民還元用ワイン」を作った。こうしたワイン生産による財政基盤の健全化に合わせて、「いきがい課」と名付けた老人福祉行政を展開するとともに、進行するインフレに対応して、町役場の一般職員(町長らは対象外)の退職年金を現職の給与ベースアップ率に合わせて増加させる年金スライド制なども独自に導入した。現場に即して、型にはまらない多くの行政を展開する「アイデアと行動のひと」であった。
 町長在任期間は日本の高度経済成長期にあたり、都市と地方の格差が拡大しただけでなく、各地で公害や環境問題が顕在化した。だからこそ、地域の自然に根ざしたワイン作りをベースとした町おこし、町づくりは地域産業を支えただけでなく、町民や近隣住民に希望と誇りをあたえ、都市から人を呼び込むことにもなった。町長辞任後の1979(昭和54)年になると、平松守彦大分県知事によって地域産業振興策として「一村一品運動」が提唱されるようになり、日本国内だけでなく世界に広がりを見せる。池田町でのワイン造りに始まる一連のとりくみは、「一村一品運動」の先駆的な例であり、大成功例の一つであった。
 町長を辞職した翌1977(昭和52)年に北海道地方区から参議院議員に選出され、212年にわたって活躍した。社会党所属の国会議員として、農林水産委員会、大蔵委員会、決算委員会、地方行政委員会、さらには環境特別委員会などで積極的に発言し、町長時代の経験をベースに国会でも各地の一村一品運動に対しても実践的な政策を提言し、精力的に議員活動をした。