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明治大学体育会射撃部(スポーツ編)

 

射撃部
 
文責 1975 年卒 袴田登喜造
 
 射撃部の創部は、1921(大正10)年である。新潟から上京し明治大学に入学した部の創始者、 師尾源藏(もろおげんぞう)と射撃との出会いは、知人に誘われ射撃を見物したことによる。撃つ前の緊張と撃った時の豪放さに痛く心を奪われ、この射撃を一般社会に広げたいと願望した師尾は、学友を誘って射撃会が開かれるたびに銃を借りて撃っていた。当初は 明大射撃クラブとか明大学生射撃団と称していた。 
 1921(大正10)年頃は射撃といっても明治時代から続く日本帝国小銃射的協会のほか東京帝国大学に小銃射撃部があるくらいで、欧州大戦の反動か大学も含め一般社会にはあまり広まっていなかった。そのような時期に創部された明大射撃部の理念は民間による「射撃のスポーツ化」である。 
明大射撃部は1924(大正13)年11月3日、日本最初の学生射撃大会を主催して盛大に開催した。仲間を増やしたい師尾は、明治神宮外苑の競技場で開かれる『明治神宮競技大会』の参加を目論んだ。そのためには統括団体が必要として、1925(大正14)年2月8日学生射撃連盟を結成したので、射撃競技は同年開催の第2回明治神宮競技大会から正式種目となった。
 師尾は大学専門学校の学生に射撃が普及するや、直ちにその範囲を(旧制)中学にまで拡 大する目的で1926(大正15)年5月には明大射撃部主催で全国中等学校射撃大会を開催した。 さらに、射撃部OB会の駿台射友俱楽部主催で東京市民射撃競技大会も行っている。昭和に入りますます隆盛になるが、1932(昭和17)年以降は、師尾が希求したスポーツ射撃とは軌道が大きくそれることになった。
 戦後、明大射撃部の再建には4、5年を要したが、明治に続いて他校の射撃部も何校か復 活した。1953(昭和28)年に学生連盟は再結成を果たし、初代理事長と幹事長は明治大学から選出された。使用する銃は以前と違って当時法律で規制されていない空気銃、それを交代で撃つ状況であったが、学生連盟は 1954(昭和 29)年に全日本学生射撃大会の開催まで漕ぎつけた。以来、2020(令和2)年まで67回を数えるインカレで、明治大学は26回総合優勝を果たしている。また、1988(昭和63)年から始まった女子の部は33回を数え、10回の総合優勝を重ねている。
 日本のオリンピック初参加は1952(昭和27)年のヘルシンキであるが、4年後のメルボル ン、そしてローマ、東京と代表選手はすべて明大OBと学生が独占していて、その後もバル セロナ、アトランタ、シドニー、アテネと代表選手を送り出している。そして1年延期となった東京2020オリンピックには、アジア選手権で出場権を獲得した平田しおり(政治経済学部、現3年生)が代表選手に内定している。
 日本のスポーツ射撃のスタートは明治大学であり、明大射撃部の歴史は日本射撃界の歴史でもある。いつの時代においても射撃を愛する皆のため、競技普及発展のために活動するのが明治大学体育会射撃部である。