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明治大学体育会航空部(スポーツ編)

染野六之輔氏(1976年頃) 宝珠花滑空場 東京六大学戦(2017年)

 

航空部の歴史
 

 

航空部OB堀内繁(1972年卒)

 当部は1930(昭和5)年染野六之輔氏(1931年卒)が航空研究会として旗揚げした。それと前後して、早稲田大学・慶応大学・法政大学・東京大学・立教大学・専修大学なども創立、同時に学生航空連盟の創立にも染野六之輔氏は奔走した。その後の1931(昭和6)年、当部は体育会航空部に昇格した。学生航空スポーツ界の草分け的存在として、当時、華々しい活動が行われており、学生航空連盟主催・朝日新聞社後援のもと誕生したばかりの満州国訪問飛行を挙行した(染野六之輔氏遺稿より)。
 創立当時は飛行機での訓練で始まり、その数年後飛行機とグライダー双方の活動となり戦時中と戦後の活動停止時期を挟み1960(昭和35)年頃まで続く。
 1934(昭和9)年第一回全日本学生航空選手権大会にて盤井亮氏(1935年卒)が制限地着陸課目で優勝、1936(昭和11)年第一回全日本グライダー大会が霧ヶ峰で開催、1937(昭和12)年には明治中学にも航空部設立し、1940(昭和15)年第三回学生グライダー競技大会にて篠原次郎氏(1943年卒)が優勝した。1943(昭和18)年女子航空部が発足しグライダー訓練を始める。1945(昭和20)年敗戦とともに一切の航空活動が禁止されていたため1951(昭和26)年まで活動出来なかった。
 創設者染野六之輔氏は創設当時航空を学生スポーツとして定着させ実行するには3つの重要な要件がそろわなければならないと考えた。
 1、訓練用の機体があること。
 2、訓練のための飛行場の確保。
 3、操縦訓練の教官の確保でした(当部誌宝珠花創部80周年記念号より)。
 戦後もグライダー部と飛行機部とに分かれて活動をしていましたが、1960(昭和35)年に飛行機部は消滅してグライダー部として活動する場所(滑空場)確保に動き出し、機体は萩原式H-22B-3(セカンダリー)が導入され、活発化し1963(昭和38)年に明治大学宝珠花滑空場の開設となりました。
 前述の2の訓練のための飛行場の確保ができ、それも学生自ら主体となって開設にこぎつけた結果、空を飛ぶ航空部は地上の整備が十分に備わらないと飛べないことを身に染みて経験してその精神が基本となりました。1の訓練用機体の確保と動力となるウインチも高額のため苦労しながらも学校・OB会の支援で途切れることなく調達できました。
 宝珠花滑空場を管理運営し独立独歩で活動が続き、全ての施設を賄え活動出来る大学は当部以外殆ど見なくなっていました。東京六大学戦参戦することで戦後、初めて他大学とのグライダー対抗戦が始まり3の操縦教官確保(層の厚さ)・他大との差が明らかになり、その先の操縦教育(技量)・選手層の厚みの差を埋めるべく今日に至っています。
 2014(平成26)年公益財団法人日本学生航空連盟に加入してようやく全国大会での活動の場が開けてきております。
近年の競技会の主だった戦績は第14回東京六大学戦(2011年)個人の部優勝岩崎竜平氏(2012年卒)、第19回全日本学生新人グライダー競技大会(2016年)団体優勝柴山悠太・石川萌子(当時2年生)。
 当部は学生航空界では草分け的存在の創設者染野六之輔氏の教えを受け継ぎ3つの要件を大切に活動してまいりました。次に、それを基にして航空技量を磨き全国大会での活躍する学生の姿を学友の皆様にご覧いただける日はそう遠くないと思います。