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「明大スポーツ」飛躍への道程(スポーツ編)

柏木グラウンド(1911年)。現在の東中野付近に所在した。 庭球部コート(1911年)。駿河台キャンパス内に所在。

2020.11

 

「明大スポーツ」飛躍への道程

明治大学史資料センター運営委員 若林幸男(商学部教授)

 

 週刊『東洋経済』の2019年12月21日号は大学スポーツの特集が組まれており、そのなかで本学の活躍ぶりをご紹介いただいている。MARCHのなかで、スポーツの分野でも、やはり頭一つ飛び抜けているのが明治大学で、「明治が強いのは各競技種目に有望な選手が集まっているだけではなく、施設が充実し、優れた指導者も多いからだ」と評していただいている。
 だが、この前後の記述は別として「施設が充実」という部分には疑問が残る。老朽化した施設、あるいは、そもそも正科体育との共有施設しか持っていない体育会の部が多いことは関係者の悩みの種である。生田校舎のプールや射撃場、弓道場などは築60年近く経ており、とうに使用の限度は超えている。各部の合宿所も同様で、学生の勉学に支障を来たす状況も改善されていない。近年活躍の目覚ましい女性アスリートの活躍をバックアップする更衣室等の設置もいまだ十分とは言えない。
 ただ、このような「施設の貧困」な状況は最近始まった話ではなく、実は体育会の草創期から、ずーっと続いている資金力の乏しい都心型大学の宿命であったようだ。1906年ごろ端艇部が立教から船を借り受けて向島で活動を開始したあと、旧小松宮邸の一部600坪(現在のアカデミーコモンのあるスペース)の運動場を、これもまた借用して庭球、弓道、柔道、剣道場(商科大学内)などがようやく活動を開始しているが、この時すでに、官立の第一高等学校や東大、高等商業、師範学校や早慶は部の専用練習施設を確保して華々しく大学スポーツ界をリードしていた。
 早稲田は1902年に夜間照明を設置した戸塚球場を開き、慶應も翌1903年には網町運動場(4000坪)を野球部の練習場とし、最初の早慶戦をこの年開催している。本学の野球部は立教に1年遅れて発足し、1910年、柏木運動場で活動を開始するが、全体にみて、とんでもなく「スポーツ後進校」の状況であった。
 当時の岸本校長も「我学友会の体育は、或いは此が為め不振の外観」と評している。「我運動部の生まれ出たこと丈は良いが、いつまで経ても成人しない」、「何故無気力なのか」とする意見もこの時期にはあふれかえっていた。
 「運動部なるものが縦令幽霊式にせよ、はた夢幻的にせよ、とにかく形のあるからは、猶気になる、気になるからもう(・・)少しらしく(・・・)あつて欲しい気にもなる」。無いならあきらめるけど、せっかく運動部ができたのなら、成績は駄目でも、運動部らしさ、覇気が欲しい。
 「野球団の影なく、ホンの形ばかりなる庭球はもとより振はぬ、撃剣柔道の道場は閑たり闃たり」(『明治学報』第119号、1907年)。野球部は設立の影すら見えないし、庭球という新しいスポーツはかっこだけは良いが中身がない。剣道も柔道もその道場は静まり返っているのはなぜだ、と嘆いている。
 だがしかし、練習したくても施設が無ければ何もできないのがスポーツ好きの言い分であろう。練習施設の整備が大学と学友会の連携によって進められると、それまで個人的に活動していたアスリートが結集し、競争、蹴球、相撲、水泳と各運動部が組織として成立した。
 その後の明大スポーツの活躍は目を見張るものがあった。早慶のわだかまりを鎮めて東京六大学野球の原型を作ったり、水泳部が極東オリンピックに出場したり、草創期には想像すらできなかったが、1910年代以降の明治は自他ともに認める大学スポーツの雄となっていった。