Go Forward

明治大学体育会準硬式野球部(スポーツ編)

東京六大学リーグ初優勝時の祝賀会(和泉キャンパス、1949年) 第11回国民体育大会(兵庫県、1956年) 府中第二球場での練習風景(2018年) 府中第二球場での練習風景(2018年)

 

「ジュンコー」——歴史は80年
 
準硬式野球部
 
 準硬式野球部(以後当部)は、1934(昭和9)年の夏休み、旧制明治中学出身者が「ここ(和田堀廊所)に空地があるから野球でもやろう」との会話から同好の士が集まり始まった。部名を「マーブル・クラブ」として、1936(昭和11)年に開催された六大学トーナメント大会で優勝した。部員の熱意と実績が評価され、翌年には、「軟式野球部」として体育会への加盟が承認された。
 戦争で一時活動が中断したが1947(昭和22)年に東京六大学軟式野球連盟が結成され、春秋リーグ戦が始まった。1949(昭和24)年に念願の初優勝を果たし、戦前のOBや教授先生方も加わって、当時としては盛大な祝勝会が催され、これがOB会の端緒となった。財政的に窮した時代が続いたが、OB会・有志の方々の物心両面にわたる支援、補助を受けて部活動が継続されてきた。
 硬式球と同じ打球感のボールをと1949(昭和24)年開発されたのが、表面は軟式球だが中空にはコルク・樹脂等をつめたボールである(当時はトップボールと呼ばれた)。東京六大学では、1950(昭和25)年いち早くリーグ戦で使用した。のちに部名も「準硬式野球部」となる。
 戦後のスポーツ復興に国民体育大会があるが、当部は1950(昭和25)年東京都代表として第5回大会に優勝している。試合の主戦場は東京六大学の春・秋リーグ戦であるが、現在24回の優勝を重ねている。また全日本選手権大会、全日本選抜選手権大会に計4回、関東地区選手権大会では7度の優勝をしている。
 練習グラウンドについては、1954(昭和29)年から生田キャンパス内の合宿所、専用球場を使用していたが、その後事情により転々とする時代が続いた。2006(平成18)年10月、府中第一・第二球場を設置いただき、部員たちは心おきなく力いっぱい練習に励んでいる。
準硬式野球界からもプロ野球選手を輩出しているが、第1号は当部の岡田投手である。
 法政大学戦では17奪三振ノーヒットノーランを演じた岡田投手が、1958(昭和33)年、東映フライヤーズ(現・日本ハム)に入団、プロ在籍6年を主に中継ぎ投手として活躍した。
 近年、野球人口の減少が言われるが、当部の部員数は大きく増加している。また準硬式野球界としても、全日本連盟への加盟校は284校、部員数は10906名と増加している(2017年度)。
 これまで、部を巣立ったOBは約600名を数えるが、それぞれが社会で多方面にわたり活躍している。社会人となって「あー明治の準硬式野球部にいて良かった」と思えるよう、学業とスポーツの両立=「文武両道」と、感謝の心をもって人としての基本と礼節を学んで、巣立つよう指導に心がけている。
 2017(平成29)年、創部80周年を迎えたが、今後も体育会所属部の誇りをもって、皆様のご支援を得て、90年、100年を目指していく。