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生田キャンパス史(1)(キャンパス編)

生田キャンパスの木造建物群(1963年)

2021.1

生田キャンパス史(1)


明治大学史資料センター  
運営委員         
松下 浩幸(農学部教授)

 

 現在、明治大学の理工学部と農学部のキャンパスは、小田急線「生田」駅から徒歩約10分の小高い丘の上にある。神奈川県川崎市にあるこの生田キャンパスには、かつて通称「登戸研究所」と呼ばれる陸軍の科学研究所があった。今ではそのことも広く知られるようになったが、戦前はその存在が表に出ることはなかった。

 そもそもその辺りが「生田」と呼ばれるようになったのは明治8(1875)年、上菅生村と五反田村が合併し、それぞれの末尾の字を取って「生田」と名づけられたのが始まりである。多摩丘陵の尾根筋と谷筋が複雑に入り組み、大正末期までこの辺りはまだ電気も通らなかったという。そこに昭和2(1927)年、小田急小田原線の開通とともに二つの駅ができる。東生田(現・生田)駅と西生田(現・読売ランド前)駅である。かつての登戸研究所の最寄り駅は東生田駅であるが、この駅は多摩川の支流のひとつを遡るため、現在も先頭と最後尾では二メートル近い高低差がある。そこを最寄り駅とする丘に、昭和7(1932)年、アマゾンでのジュート栽培を目的としたブラジル移民養成のための日本高等拓植学校が世田谷から移転する。今も生田キャンパスに現存するヒマラヤ杉の並木はその頃に植えられた。
 そして昭和12(1937)年、登戸研究所が生田の地に開設される。東京・新宿戸山ヶ原の陸軍科学研究所(大正8・1919年開設)の業務の一部を引き継ぎ、軍部によって半ば強制的に買収された生田周辺の土地は11万坪(東京ドーム約9個分)にも及んだ。この「登戸研究所」では、敵地を混乱させるための偽札や、アメリカ本土へ向けた風船爆弾、そして細菌兵器などが秘密裏に開発された。最盛期の昭和19(1944)年には、100近い研究棟が立ち並び、1000人近い所員が勤務したという。また、軍部が置かれたことで、戦前はいち早く水道が引かれ、水洗便所も設置された。当時は稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)駅と東生田駅から、隊伍をなして通勤する者たちの姿があったという。
 戦後は、戦災を受けず破壊もされなかった旧施設がそのまま利用され、空襲で日吉校舎を焼失し、アメリカ軍に構内の施設を接収せれた慶應義塾大学や、北里研究所、巴川製紙等が一時借用し、昭和25(1950)年に明治大学がこの跡地を購入、昭和21(1946)年に千葉県誉田村で開設された農学部が、昭和26(1951)年に神田校舎から移転する。さらに昭和19(1944)年には神田駿河台で開校した工学部(現・理工学部)が、昭和40(1965)年に生田へ移転した。
 現在、生田キャンパスには動物実験で用いた生き物を供養する高さ約三メートルの日本最大といわれる動物慰霊碑や、陸軍の☆のマークが刻印された消火栓(二か所)、弾薬庫だった倉庫、そして戸山ヶ原から移された弥(や)心(ごころ)神社(現・生田神社)などの戦争遺跡が保存されている。また、平成22(2010)年3月、登戸研究所時代の施設(旧36号棟)を利用し、明治大学平和教育登戸研究所資料館が開設された。かつての秘密戦のための軍事施設は、平和教育の発信拠点として新たな使命を負うことになった。